夢は宝塚と共に去りぬ

宝塚に突然入りたいと思い行動に出た14歳、それまでの習い事も習字、英会話、進学塾…

ダンスのタの字もやってこなかったし、なんせ緊張しいの人見知り人前に出るなんて!って思ってたのに未だになんであの時『そうだ、京都に行こう』くらいストンと私に降ってきた『私、宝塚に入る』という言葉。

天啓とはこーゆーことなのでしょうかね…とはいえ宝塚に関しては私は数年後、いや本当の挫折は数か月後に挫折してた。気づかないふりして高校3年生まで受験生として生活してきた。

とは言え、入りたいと思って母親に「入りたい」と言っても帰ってくるのは

「何言ってんの?」

そうだよね、正直私もそう思うわー
当時の私もそう来るよねーって思った。
でも諦めなんてつかない、だって「入る」って思ってるんだもの、半年粘った結果「なら自分でお稽古場探しなさい」の一言をもらって宝塚雑誌の各所にあるお稽古場に見学の電話をかけるもつながったのは1件、今思っても何で?って思うけど、つながった1件は優しそうなお姉さんとの電話であっさり見学日も決まり母と二人で見学に行った。

奇麗なお稽古場と、レオタード姿のお姉さんたち、電車でも乗り換えなしで通える距離、わくわくと緊張、もう記憶では入る入らない他を見る見ない?って記憶もなくそのお稽古場に入ってる。

必要なものをチャコットに買いに行き、着々と準備を進める。
右往左往するバレエ、体は比較的柔らかかったけどそれ以上の柔らかさを求められるモダンダンス、歌うことは好きだけど楽譜も読めないソルフェージュと声楽、独特な面接、そして痩せられない身体。

でも今思い出しても辛かったと思う記憶は…なかった。

もちろん苦労はしたし、身長も大きい体重もあるお世辞にも小さくないからちょっと意地悪な先輩にたまに邪険にされることはあっても気にしなかった。戦いはこのおけいこ場でもどこでもなくて宝塚だったし自分の事だけに集中した。入って数か月後の夏期講習はお稽古場始まって以来のコース取りをする、午前中の基礎コース、午後の上級コース、夜の通常のレッスン、朝早く家を出てお稽古場が開くと同時に着替えて掃除をして、レッスンして、空き時間はまたお稽古場の掃除して、レッスンして、おしゃべりして、夏休みは地方からくる子たちの寮の案内したり、レッスンして、片付けて、また明日…

出来る限りのものすべて受けた、夏休み明けには楽譜も読めて基本的な動きも覚えてそこそこの受験生になっていた。

私はまっすぐ、宝塚受験しか考えてなかった。
高校に入ってないと受けられないことも知らないまま、

高校に入っていないといけないことを知って

何で?

と15の私は思っていた、ま、受かる確率から言ったらそれは宝塚のやさしさ。
焦りはしなかった。
高校はどこでもよかった、受かっていればいいんだから、

ある日の母の言葉を今でも忘れない、「あんたが宝塚行っちゃたっらさみしくなるわー」何の気なしにした言葉だったと今なら思う、でもその言葉が私の足を止めたのも又事実。

そしてお稽古場からも「ここ数年中卒取ってないから来年にしたら?」

私は受験しなかった。

同級生も心配する中、年が明けて1月やっと高校の受験勉強を始め、高校は受かった。この受験までの同級生の勉強見てくれたこともとても感謝してる。


3月、受験と合格発表、この年は比較的中卒を多くとり少しばかりぽっちゃりさんも受かっていた。

受けてさえいれば…

可能性があったかもしれない。

結果はわからない、
でもこの時受験すらしなったことを今改めて後悔してる。


その後気を付けてきたことは、子供にとって大人の言葉の威力は大きく、それは子育ても含む大きな意味での人材育成に伝え方を気を付ける事と意識してきた。自分の発した言葉の裏の思いなど相手には関係ない、出された言葉それが相手が受け取る言葉、出した言葉が伝えた言葉。
その責任があるということ。

今では、まだ幼い甥や姪と関わるときにもこの事は気を付けている。

そして可能性を他人に預けてはいけないということ、
預かってはいけないということ。

自分に何の影響力もないと思ってはいけない、立場を変えれば自分だって友人の他愛のないひとことに救われ、大事な人の些細な言葉に挫かれ、素知らぬ人のやさしさに支えられる事が今までたくさんあったはずだから。

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