伽藍
『夜行バスに乗っている。蛍光灯がさみしく光る車内、街全体がトンネルの最中にいるようだった。明かりひとつない。街が眠りに就こうとしている。浮遊感。手中の切符はここにいるわたしの存在を無条件に肯定する。 新人バイトの「研修中」。シャッターが降りた窓口。若者特有の熱量がこもった車内。身体中にくっきりと浮かびあがる傷と青痣。絆創膏の代わりに傷を塞ぐエンタメ。 夜行バス、消灯。 真っ暗闇のなかで前を見るともなく見据えて、ぼんやりと座っている。あ。希死念慮。突然現れるバグのような現
目の前にショートケーキがある。 これは甘い匂いがするし、触れば生クリームが手のなかで溶けてやさしく嫌な感触を残すだろう。食せば味蕾がスポンジのやわらかさや苺の甘酸っぱさを感じる。 私がショートケーキを掴むのを他者が見ていればそれは現実だと言えるっぽいけれど、ふたりがただ同じ幻覚を見ている可能性は否定できない。 私たちは、決して世界5分前仮説を否定できない。時間や知覚はひとが生むものだから。最初から世界なんて存在していなくて、地球の脳みそが"地球で生きる人間たち"という長
「矢野さん、幸せってなんだろうね」 石川さんが掠れた声で呟いた。身体がだるくて口を開くのさえ億劫だ。酒眠剤。セックス。ドラッグ。いつの間にか、退廃的な生活が俺たちのすべてになっていた。カーテンの隙間から漏れる光が鬱陶しい。まるで堕落している俺たちを責め立てるように、あたたかくて眩しい。 「そんなの分からないよ。石川さんは毎日幸せじゃないの? 俺にはきらきらして見えるけど。一生届かない気がする」 「こんなに近くにいるのに?」 「物理的な距離の話じゃなくてさ。本当はもっと近く
「地獄はありますか。もしあるならばわたしたちは地獄に堕ちるのですか」 死の直前、少年のかすれ声が咲き乱れる紫陽花のさざめきに交じる。透明な日が射し込む温室のなかで人工季節は巡り、ゆたかな土壌は緩やかにぼくたちの血液を吸っていく。 「地獄はありますか。もしあるならば、…… わたしたちは…」 彼の唇は互いの血液にまみれ、陸にいながら溺れる。たとえ地獄に堕ちようともこの厭世から逃れようと、僕たちは互いの首をかき切って無理心中を試みたのだった。 僕たちは、僕たちの魂を蝕む堕落と
歪なリボン いびつな蝶々結び ケーキの切れない非行少年 心臓の部屋 心臓の鍵 心臓の一室 劇的な傷 心の中にいるYou know whoたちが囁きごとをして眠れなくなった夜に飲む、1杯のココア PTSDと1杯のココアは同量になり得ないけど、あのあたたかさと甘い匂いに少し救われる マグカップのなかに生への祈りみたいなものが混じっている 透明な花瓶に入った青いチューリップみたいな潔癖でくるしい部屋、生の生々しさを排除した部屋、フィクションみたいな人生 鬱アニメを見始めた。
ただ音をなぞっていた椎名林檎「意識」の一節一節が、独りの夜に途端心を抉るような日々を、死んだ恋人の写真を、血みどろな生を覚えている。生きるために切り分けた非三等分のケーキを、忘れない。 傷の細分化 は落ちた 忘れない 生まれ直し 地面に近付いた Spending all my timeの人工心臓で、愛のかたちを知った気になる。 生きている間に、死は生に近すぎて遠いはずだった。ほんとうは。 今まで死で語っていたすべてを手離すことは怖いけれど、
バイトの品出し中、ふいに「自分はもう自殺するしかない」「自殺するしかない」「ごめんなさい」という思考に支配され、どうしようもなく自分の中を循環しながら、わたしは朝食の1杯のコーヒー牛乳になりたかった。白と黒の中間に立って、もっと大丈夫に、もっと生きやすく、もっと曖昧な、楽に呼吸ができる人間になりたかった。 時々、人類補完計画を実行したかったゲンドウの気持ちがわかる瞬間が来る。わたしたちは1と1だから互いに触れ合える、同様にわたしたちは1と1だから同じ魂を共有することはで
歩道橋の泥まみれの欄干に、しねと落書きがあった。同じ街にいるだれか。内側でぎらぎらと殺意が光るだれか。 これを見た時、ハッと胸がすくような、苦いような、嬉しいような気持ちになった。わたしは独りじゃないと思えたから。 相変わらず雨が降っている。 雨はわたしの存在を肯定して同時に否定する、から、救われる。 自分の視線も、他人の視線もおそろしい。上手く呼吸ができなくなる。視界が白む。こんな私を見ないで ゆるして そんな目で見ないで、と 心の中で思う。わたしの臆病
悪夢の中で日記を書いていた。「傷口みたいなやさしさ 傷口みたいなやさしさ」と何度も。 リスカしてる女の子の絵、美しかったけど、目だけは何度描き直してもぐちゃぐちゃだった。目覚める直前後にアパート全体が揺れ動いてて、あれが夢か現実か未だにわからない。こういうことが時々ある。あの感覚がもし夢ならば、もう現実の感覚なんて、リアリティなんて信じられない。 それはどういうことですか、と夢の中で少女ふたりに問うと、ふたりは怒ったり悲しそうにしていた。もし私が現実世界でも「それはどう
あの時分は、ちらほらと雪の降る寒い年の暮れだった。 わたしがひとり喫煙所にいると、カタン、とちいさな物音が聞こえた。反射的に振り返れば、1人の青少年が喫煙所の入口に立っている。青ざめた顔が夕闇のなかに浮き上がる様は、さながら亡霊のようだ。一瞬どきりとしたが、彼が懐から煙草とライターを取り出したのを見て、自然と目を逸らす。大抵無人のこの喫煙所に人が来るなんて、珍しいこともあるものだ。 喫煙所に、重い沈黙が降りる。 わたしは妙な居心地の悪さを感じながらも、無心で煙草を燻ら
シンと静まり返った深夜に、押し殺したすすり泣きや星のまたたき、植物の呼吸について考えていたら午前四時になっていた。煙草の匂いで満たされた部屋で、独りで、悲しくて、しあわせで。 今日も生きよう。
人もどき、あるいは人。 ふらふらとぐにゃぐにゃと定型のない人もどきが、時々呪詛のようなものを吐いたり、あったりなくなったりして、そしてある瞬間人 になる。「大丈夫だよ」「ビョーキには見えないよ」という励ましの言葉は、人になった私に向けられている。 常態 ただこの前、支離滅裂な言葉を吐く人もどき のわたしの話を聞いて、友達が泣いてくれた 現状は変わらないけれど、少し救われた気がした。 こんな雨の日には、赤いマグカップに熱々のスープを入れてゆっくりとか
もう何回目だろうな、あの人の死体を浴槽から引き上げるのは。 仕事終わりにふらりと寄った酒場で隣に座っていた青年が、不意にそう呟いた。ちらりと一瞥すれば視線が交わる。 間髪入れずに、再び彼が口を開く。 「元恋人の死体がね、度々浴室に現れるんですよ。所謂溺死体です。まるで眠っているような穏やかな顔で、鼻まで湯船に浸かっていて。だから、水を吸って重たくなったそれを毎回引き上げているんです。あの、俺っておかしくなってるんですかね」 はじめは酔っ払いの戯言だろうと思った。
夏が終わる、という感覚。 9月1日からは秋が始まると思っている。暦ではとっくに立秋を迎えているから感覚上の夏でしかないけれど、今年も私の中で夏が終わっていく。 深夜の大型スーパーで、水槽でうだる熱帯魚のようにゆらゆらと彷徨う大人たち。サンダルの裏にこびり付いたカエルの死骸。スーパームーンを眺めながら散歩した夜。 眠れないまま夜が明けて、光の中でしずかに目を閉じた朝。頭をすり抜けていく愛読書の文字列をぼんやりと眺めていた真昼。積み上がった堅牢な本の塚と、布団に横たわる私。
普段自分の言葉で、自分の世界を語っているやさしい人が「鍵垢は死ねと俺が悪いで溢れている」と書いていて、救われた。そういえばさっき雨降ってたよ、みたいな普通のテンション感で語られる薄暗い話。たとえば自傷癖やod トラウマ 希死念慮… にとても救われる時がある。そういう時は私も「あ、そうなんだ」とさりげなく相槌を打つし、本とかスマホみたいな全然関係ないものを見ていたりして 日常の体で そういえば、数ヶ月前に友達から「私、アパートの部屋で首絞めて自殺未遂したことある
精神科で木の絵を描かされた時、元気な時期だったので青々と茂った木を描いたら、鬱状態の診断が降りた。好きな一節もお気に入りの曲もこぼれ落ちていく。さっきの空には入道雲が浮かんでいた。 もう少ししたら、夏の空がもう少し青く広くみえて、生ぬるい風が吹いて、そんな時が来るのかもしれない。 今はただ茹だるような暑さだけ プールの匂いも何もないけれど。 現実から離れて私になりたい、全部取り払いたい。 生き恥だ。これで良いですか 身を削って、摩耗して、押し潰して、殺し