途上国でゼロからスタッフを育成した大学生の組織論ー序章ー
正直、短い文章ですべて書くのは無理なので大事だと思ったことを書こうと思っています。この文章は、自分のあとを継ぐ一人の大学生、またその後も続くであろう人々へ宛てて書きます。
ー前提ー
カンボジアの貧しい子どもたちに、夢や将来の可能性が広がる日本の映画を届ける活動を、自分は今しています。
カンボジアは、1980年代の内戦で文化を人だけではなく文化も失いました。以前は、国王が自ら映画を作るほど映画文化が栄えていた国でした。それが今では、全土に10数館しかなく多くが稼働していない現状。そして、農村部に行けば映画館などありません。そんな中で、自分たちはストーリー性の高い作品を現地の言葉に吹き替えて上映しています。
フライパンは、なぜ一年休学してまでして、移動映画上映プロジェクトをカンボジア人に活動移譲したかったのか。
その理由は、たくさんあるけれど....
・子どもたちの成長の視点
・活動の持続可能性
・自己満足からの脱却
この三点に集約すると思っています。
自分は、子どもたちの未来への可能性や想像力は万国共通で無限で尊くて、そしてとてつもない可能性を秘めていると思っています。
しかし、今までの年に数回しか上映できない状況ではカンボジアに何百万とある無限の可能性を広げることは難しい。
そして、そんなペースだったら子どもたちの成長スピードに自分たちの活動は追いつかず、たとえどれだけこの活動が意義を持っていても、そんなの自己満足の領域から抜け出せない。国際協力活動において、変化や改善を出せないものは意味がないのだから。
そして、このままでは活動の持続性すら危ういと思ったのも大きな理由の一つです。なぜなら、日本人のスタッフがカンボジアに行けなくなったら映画は届かなくなるから。一生の間を、ずっとカンボジアという国で過ごすのはやはりカンボジアの人々。彼らと一緒にやることで、活動の持続可能性は格段に上がるだけではなく、本当の意味でカンボジアという国で受け入れられる活動になるはず。
これらの裏には、活動の自己満足からの脱却の意味があります。
往々にして、こういうボランティア活動は受益者よりもする側の自己満足や自己承認によって生まれ、実施される傾向が強い。これは仕方のないことだし、否定もしません。でも、自分はこの活動に大きな可能性を感じるからこそ、このある意味でセーフゾーンからの脱却をしたかった。(映画を届けることは、国際協力の分野で近い将来スタンダードになると確信しています)
このことによって、正直団体の年度予算は膨れ上がり、仕事も莫大に増え、日本のメンバーを苦しめていることは承知しています。
今でも、年度予算を集めることに四苦八苦の状況...
(一緒にカンボジアの次世代に貢献し、国際協力の世界に新しい風を吹き込むことご興味持たれましたら、自分どこにでも行きますので30分だけでもお時間をください。)
それでも、カンボジアの子どもたちのことを考えたら。
自分たちが村や学校に行くと走って集まってきて映画を楽しみにしている子どもたちの姿を見たら。
映画を真剣な眼差しで、時に満面の笑みと大きな声を上げているすがらを見たら...。
嬉しそうな先生の姿や話を聞くと....。
苦しいけど、これを乗り越えた時きっと
もっと広い世界がカンボジアの子どもたちだけではなく、
僕らカンボジア人のスタッフ、日本スタッフ、
そして応援してくださる皆様と見られる。
そう確信しています。
映画は、子どもたちの想像力を広げる。
想像力は、小さな日常の生活をよりよくし、さらには人生の可能性を広げてくれる。
そんな変化を、少しずつ起こしていき、カンボジアが僕らが映画を届けた子どもたちの世代に成った時に彼らの人生の中の一つの思い出、そして原体験として映画はきっとなれる。
フライパンの思いです。
肝心な組織論、次回書きますが目次だけここで。
・祭りを作り、それに巻き込む
・スタッフには、とにかく考えさせよ
・恋人以上にスタッフのことを考えろ