
お前の嫌いにどれだけの価値があるんだ(新潮新人賞一次通過)
女がうっすらと嫌い。脇腹が差し込まれたような痛さを帯び始めた。目線に混ざる欲望や悪意に鈍感なままに人工甘味料のような恋慕に甘えてみたい。それを廊下に張り出された「レディになりなさい」という学年のスローガンが幼い唯をいつまでも辱める。
小雨が窓に叩きつけ、こびりついた水垢を目立たなくしていく。曇天が数匹の鳩を吸い込んだ。唯は昇降口から運動場の端までテントの部品を運び出す係になった。一日だけ設けられた体育祭の準備の日だというのに、グラウンドの状態が芳しくない。重いテントの骨子を倉庫から抱きかかえるように引っ張り出した瞬間、男子がいてくれたらとこんなときばかりは思った。常日頃、すれ違う同世代の男が汗臭いと愚痴を言っているというのに。どうして女の園に来てしまったのかという入学当初の後悔がじんわりと胸に広がった。打った舌がしびれるのは自分のせい。これまで怠けていたからと中三の冬に言われたまさにその時分の生活を思い出してみた。唯は毎日を送るので精一杯だった。
「私、委員長やめたいです」
誰もが荷物を運んでいる横で学年をまとめる教師にそう話しているのが聞こえてきた。唯のクラスの委員長を自ら立候補した下田恵奈が罰が悪そうに打ち明けている。わざわざクラスから離れたところでこっそりしているつもりなのだろうが、かえって目立っている。唯はまたかと思った。高校二年生になって初めての委員会を決めるときの彼女の肘の伸び方に唯は不安を覚えたのを、恵奈の告白によって答え合わせしているような感覚に陥った。まだ委員長になって一ヶ月と少ししか経っていない。重荷になったから捨てたいというその気持ちもわかる気がしたが、今ではないと思った。みなが肉体労働に早くもへたり込んでいる中、指示やら物品の管理などの仕事がある教師を自分都合で欠けさせるべきではない。そもそも、立候補したのは下田恵奈自身ではないか。責任を持てと国旗を三人がかりで畳みながらいらついた。彼女がすっきりしない表情で放送委員会のスピーカーを台車に乗せ始めたので、終わったのかと思ったら、準備が落ち着いた頃に今度はクラスの中心人物である加藤が下田とともに教師に呼び出された。下田の上背がある割に肝が小さいのが何かの火種になりかねないと常々感じてはいたのだ。それは唯だけではなかったらしく、遠目で下田たちを眺めていた中村聡子の足を踏んづけた。ごめんという言葉がとっさに出たが、語尾がすぼまり、中村の耳には届かなかったようで疎むような目を向けられた。
「どこまでわがまま言えば気が済むんだろな」
「え、前になんかあったの」
「あれ、竹内さん知らないっけ。あ、知らないな。多分。あの子さ、高一の時同じクラスだったじゃん。あたしと。遠足の時とか揉めないようにランダムで振り分けた班だったのに当日勝手に一人だけ好きな子の班に入ったりとか。テストの採点方法にケチつけたりね。もうねそういう性格なんだよ」
下田は櫛を通すということを知らないらしく、まとめたはずの髪の頭頂部から脂光りした髪の束が尋常じゃなく隆起している。その頭が気にならないで、櫛ぐらい使いなよと言えないはずはないのに、下田を取り巻く友人たちはみな一様に下田の髪をまとめた彼女手製の髪ゴムを褒めることしかしない。その目のつぶり方のほうが下田の性格よりも唯にとっては不安材料だった。唯は自分の受け持った仕事をすべてを終えて教室に一人で戻ると、東海林美里が体操服から制服に着替えるためにキャミソールと体操服の短パンという出で立ちだった。
「あ、ごめん」
唯はすかさず出ようとして、いや、自分も女性であったと思い出して教室の出入り口を行きつ戻りつした。
「なんで。女子でしょ。竹内ちゃん」
その笑顔が澄んでいてほっとした。東海林は下田に目をつけられて少し不安定な時期があった者の一人だ。入学当初、東海林美里は美人で目立つ存在だった。両親がダンス講師らしく、彼女も小さい頃からダンスに触れているおかげか、姿勢がいい。誰もが丸まった背中と癖のある歩き方をしている中で彼女はひときわ輝いている。おまけに、人当たりが良くて人によく抱きついたりしている。そのような彼女に対して下田は出会って早々、耳元で「可愛い子ぶってる」と囁いた。東海林は数日悩んで、周囲に打ち明けたところ、下田が東海林本人と友人の前で謝罪する騒ぎにまでなった。いや、正確に言えば下田は謝っていない。誤解だと弁解するに留まってうやむやになった。
「東海林ちゃんは体育祭の当日、何の係りするの?」
「保健委員でずっと救護テント。あんまり怪我しないだろうから暇だろうな」
「東海林ちゃん似合うね。白衣の天使だ」
「いやいや、当日は体操服にこれだから」
肘を掲げて二の腕についた救護班の腕章を見せてくれた彼女の笑顔に癒やされた。美人が性格悪いなんて嘘だと思った。
「東海林ちゃん、アイドルになればいいのに。もうすでに私の中でアイドルだけどさ」
「いや、無理だよ。可愛くないもん」
「東海林ちゃんが可愛くなかったら誰が可愛いんだよー、いや、私が男子だったら告ってるな。ねー、応援するからさ、絶対アイドルになってね」
そぞろにクラスメイトが帰ってきて、東海林の返事が聞けずに終わった。
帰り道、強く肩を小突かれた。振り向くと下田が立っていた。見上げるのもおっくうで、喉元あたりに何、と呼びかけた。
「東海林なんか言ってた?」
「なんかってなに」
「うちの悪口とか」
途端に空気が薄くなった。口角が下がったのが自分でもわかる。尖った下田をいさめる力は唯にはない。彼女は委員長を再度決める話し合いでただでさえナーバスになっているので、関わり合いになりたくないと思っていたところである。
「全然関係ない話だよ。下田さんのしの字も出てない。そんなに気にしなくていいんじゃないかなあ」
明るい声を意識する。下田は眉根を寄せ、ただでさえ濃い顔に陰影を重ねている。
「そうかな。そんなはずはないんじゃないのかな」
「いやいや、東海林ちゃんはそんな子じゃないと思うけど」
「そんなことはないと思うけどな。なんかあったら言ってね」
長い指に手を絡め取られて唯は距離を取ることを忘れて唖然としてしまった。下田は何やら唯に同族意識を抱いて東海林への攻撃をしかけるための準備段階へと入っている。珍しくしっかりイかれてるなと唯は下田に触れられた箇所のケガレを削ぐように背中で手を拭った。
おい、下田お前間違ってるぞと言えないことを後悔しながら唯は家まで帰ってきてしまった。晩ご飯に出た蠅とビニールの切れ端の浮かぶスープを啜る。唯は別に東海林を支えるつもりも、下田と敵対する気もないのだと心の中でつぶやいたが、やっぱなしとなかったことにした。自分こそが非情なようで気分が悪かった。元はと言えば、東海林に意味もなく嫌がらせした下田が悪いのに、なぜ東海林に嫌われることを恐れて唯を味方につけようとしたのか唯には全然理解できなかった。ずっと他人の目を気にするくせに、自分の気持ちのままに嫌いだとか言える勝手さをただの迷惑な人で片付けていいものだろうか。いっそ下田にきついお灸を据えてやるべきではとまで考えを巡らせたが、それでは下田と同じ思考になってしまうと思い直し、スープ皿を干した。野菜についていた土が舌の上でざらついた。
体育祭は前日からの記録的な大雨により、グラウンドの整備が間に合わないということで中止になった。それからも体育祭が雨天だったとき用に設定されていた予備日が台風によって二回とも潰さた。唯をはじめとした運動の苦手な面々はむしろ喜んで雨天時に当初から予定されていた授業を受けた。規則正しく並ぶ頭の中で一個飛び出た下田の髪が絡んでだまになっている。後ろから見ていても下田の機嫌が悪いのがわかった。窓の外側に当たるまで伸びきった枝葉から水蒸気が上がり、硝子が半透明に我々を映し出した。唯はこめかみを押さえた自分から視線をさまよったふりをして、下田を見つめた。大きい図体に尖った顎を持ち、終始つまんなそうに黒板を凝視してから忙しなくシャーペンを走らせる。連続で芯先を折る。芯がない。二つあるうちの筆箱を盛大にかちゃかちゃと打ち鳴らし、それでも芯がないのか、もう一つパンパンに詰まった筆箱を鞄の中から机を勢いよく置いて中をまさぐった。ようやく出てきたシャー芯は薄汚れたマスコットのキーホルダーをぷらんと引き連れて出てきた。下田の持ち物は無駄が多い。彼女の憤怒で詰まった頭のようだと思った。
だらけきった空気が午後までもつれ込んだ中で移動教室から帰ってきた面々が声高に噂した。
「3年が体育祭を今年開催するか全校生徒でアンケート取って、それをまとめた嘆願書まで出すって。親まで使うって言ってたよ」
「そこまでやるかね。体育祭に」
「いや、でも六年を締めくくる最後の体育祭がなくなったら、嫌でしょ。私も多分やるな。悲しいもん」
「うちらまで質問されんのかな。体育祭やりたいですかって」
「はいでしょ!そこは!」
体を動かすのが苦ではない面々が各自、体育祭を後日改めて開催する嘆願書に賛成する旨を訊かれてもいないのに表明している。下田がこの件について取りまとめるのかと思ったが、数週間前に委員長が下田からしっかり者の加藤に変わったことを思い出し、下田が表に出てこないことにがっかりした。何か面倒事を起こしてくれないかなと思っている自分がいる。「ねえ、下田さんはどう思う」
噂の中心人物が下田に冗談半分で話を振る。話に参加していなかった人もちらりとそちらを見た。みんな実は気になっている。
「どうだろ・・・・・・みんながやりたいっていうならやればいいんじゃない?」
語調がきつく感じる。それでは、きっとダメだと唯は思った。言い方が悪いという理由で取り決めの際の下田の支持者は毎度少ない。それも委員長をやめた一因であろうということは想像に難くない。今回も下田の意見は配慮されずに我がクラスの意見がまとめられるのだろうと思った。下田にはリーダーの器ではなかったのだ。下田はそれが未だわからずにいる。唯は下田のシャーシンを折った回数をメモしたルーズリーフをそっと四つ折りにして机の中に忍ばせた。これが下田起死回生の一手のように感じた。
小さい窓から入り込んだ光によってまだらに温められたフローリングに腹ばいになった。埃で粘着力を失い、めくれ上がったコートの白い枠線が唯たちの鼻息でそよぐ。制服から覗く体操ズボンは濃淡鮮やかに、買った時期を教えてくれる。生徒たちは何年もここに閉じ込められたように大根抜きをする。青白く浮かぶししゃも足を投げ出し、大きな円を描いて手を隣り同士で強く握り、鬼に足を引き抜かれるのを今か今かと待ち構えている。唯は両手を揉みこみ、まず一本の足をぐんと自分の胸元めがけて引っ張った。歓声とも悲鳴ともつかない声にやる気を削がれながらも、あまり力を入れないで一人目が抜けた。抜かれた本人は特に残念そうでもなく平然と立ち上がって鬼になった。足の持ち主を薄目で無視して、自分の頭より高く掲げてしゃちほこーと言った。冷たい笑いが起こって、凪いだ。ひときわ細い足の白ソックスをわざと脱がせた。次いで、その横の弾性のありそうな大きな尻を叩く。中村にずっと睨まれている。中村は電車の席に座るときに周囲に向かって失礼しますと声をかける。それを聞いて唯はそんな丁寧な対応をしてもらったことがないと思う。中村は唯に対しても同級生に対しても、全国民に対して礼儀正しくあれと説いてくる。私は後出しでごめん、ありがとうと言い、それをすみませんでしたに言い直させられるあの落伍者のゆっくりとした烙印の時間が嫌だった。口角に入った髪の毛を一本引き抜き、ままならぬ手にむっとする中村の頭の上を、外を通りかかる車の影が窓枠型の影を作り出し、数学の合同の図形のように通過した。大気のうねる音がした。一気に日の入りまで時間が早送りになったかのように室内が暗くなった。むくんだくるぶしに指を掛けながら窓のほうを見やると、桜の花びらが雨で濡れた窓にびっしりと張り付いていた。暗くなったら眠る時間だと錯覚したかのようにぽつぽつと頭が床に降りていく。ペンキが皮膚を覆うように桜によって息苦しくなる。ミミズ腫れが幾本か走った腕を撫でさする。自分の身体に桜が張り付いたわけでもないのに、無意識に腕をかきむしっていた。白ピンクの皮膚が入り込んだ両手の爪の間をしばし見つめた。
午後の授業中、パンツの位置が気に入らず唯は立ち上がった。胃の下まで中に履いてるスパッツをスカート越しに引き上げ、尻の割れ目に食い込んだ布を引き抜いて座った。正面に座る寺崎が手元のホワイトボードを不機嫌そうに見下ろしている。唯がボードに十字に線を引き、四分割して班員四人分の意見をまとめてある。寺崎はガタガタの黒い線を最初は指先でちょいとこそいで、今度はホワイトボードマーカーですべて消してしまった。手早く神経質そうな線を丁寧に丁寧に引いて、潰れるか潰れないかぎりぎりの小さい女子生徒らしい字で全員の意見を書き直した。唯の意見は最後に書いた。寺崎にとって順番は大事なのだ。唯はグループワークでろくに役に立たない私を叱ってくれてありがとうという気持ちになると同時に不出来な妄想にとりつかれた。寺崎が登下校で迂回不可能な歩道橋から落とす。頭から落ちて確実に死ぬように足を抱えこんで、身体が道路に打ち付けられる。高さが足りなくて即死じゃなくても、高速から降りてきてスピードが出た車に跳ね飛ばされる。道路の端っこに四肢が転がっても、大回りをしすぎて歩道すれすれの車のタイヤに粉砕される。生肉の臭いが辺りに立ち込め、電線にとまっていたカラス数匹を呼び寄せる。彼らは決まった曜日に出されるマンションの生ごみに夢中だが、初めて目にする新鮮な肉の塊に胸を躍らせながら車道に降り立ち、鋭いくちばしで切断面をつつく。鳴き声や臭いに吸い寄せられてか、数匹が黒い群に増えていき、血糊すらも覆い隠した。数時間のうちに皮膚が剥げ落ち、穴だらけになった寺崎の身体はようやく到着した救急車に乗せられてどこかへ行ってしまう。おそらくその後は病院もしくは警察署で家族の面会が待っているが、家族ですらもそれが寺崎だとは思わないだろう。彼女の顔は、鼻は、唇は、目は、耳はすべて車道に飛び散って今頃カラスの胃の中なのだから。寺崎の両親は(兄弟の有無は知らない。)身体に空いた黒い穴を見つめ、変わり果てた寺崎の可哀想さを嘆き、自分の娘だと断言できない自分の無力さに怒りを覚えることだろう。寺崎はそこでもう一度死ぬことになる。愛する人から死にましたと認定をしばらく受けられない。数日経って唯たちは葬儀に制服で出席して一生開けられることのない棺の小窓を注視することになる。唯はこの子供っぽい出来損ないの妄想が、現実にならないようになるべく自分に都合がいいように脚色していく。そうでもしないと今にも軽く実行してしまいそうだし、それを考えている自分が悪いのかと思って、胸糞が悪いので、「先生、トイレ」とだけ言って廊下に出た。勢いが良くていつもの「先生はトイレじゃありません」という文句を受けずに済んだ。金具が取れて傾いたトイレのドアを押して入ると、気化した大便が漂っている。服に染みつきそうな臭いから一刻も早く離れるために足早に唯一の洋式に入ると便器一杯に便がびちびちに張り付き、枯れていた。唯は咄嗟にドアを枠に打ち付けるようにして手を離し、鼻を摘まみながら隣の個室に駆け込んだ。大嫌いな和式を見下ろし、暗澹とした気持ちになった。用を足して下水を再利用しているから黄色い水が出ると噂の蛇口で手を洗い、手がびちょびちょのまま教室に戻ると五分休みに突入していた。それまで授業していた先生が自筆のチョークを消すというか全体に押し広げている。すでに次の授業の先生も到着していて、教室に先生が二人いる状況にある。しかし、教室内に緊張感はなく、ほどけきっている。クラスで飼っている蝶の蛹がふっくらしてきたのを前列の生徒が中心となって小突く。運悪く虫かごに枝を入れるのが遅くて蓋にぶらさがっている。大きい腹を抱えた英語担当の中山が教卓の隅に置かれた蛹を毛嫌いするのを私たちは蛹よりも愛でた。
「いつ孵るのこれは」
「知らない」
「蝶のみぞ知る」
孵るというのは卵に対して使うのであって、蛹には使わないんだよという馬鹿にした笑いがあちこちで口元を覆う指の間から漏れる。唯たちはそれよりも中山のその腹が萎む時期のほうが知りたくて仕方がない。
中山は無視して英文プリントを配っていく。紙を後ろに回す度に私語がふっと湧く。日本の新聞記事を中山が英訳したもので、手間がかかっているが、まともに読める人間はクラスにはいない。彼女のプリントはどこか感情が見える時があって、唯は冷静じゃないなあと思った。黒板が細かく文章をちぎってやっと読めるようになってきて、記事の語り手の怒りが私にも移る。長い綴りを日本語に訳しても、「少年法」や「成人年齢」、「特定少年」などおおよそ普段は目にしない単語になっていくので、全体像が掴めずにいた。中山は私たちの英語力と英文のレベルがまるであっていないことを承知で淡々と授業を進める。たとえ当てられてもわかりません、の一点張りで誰も英語を読んで考えようともしない。中山の話す「十八・十九歳が特定少年になる」なんていうお堅い内容が自分たちの話だなんて誰も思っていない。
「君たちはもう大人なんだからね。一年も経てば、軽い罪でも名前が報道されます。今はSNSが発達してるから、検索されれば一発で前科がバレます。いやバレなくても犯罪はダメだけども、」
中山が公序良俗について語っていることの上滑り感といったらない。中山はすぐに大声を出し、職員室で腫物扱いされている。我が校の卒業生ではないのが大きく影響している。田舎はコミュニティが狭い。中山が懸命に唾を飛ばす中、いずれも惰眠をむさぼるか、別の教科書を堂々と広げて、暇をつぶしている。学校は枠でしかない。私たちは自らの机上では一国の王になれた。中山のアルファに見えるエーをノートの中で真似をして笑うことができるように。中山またはその他大人の忠告むなしく、チューターの大学生は残り少ない猶予を最大限楽しんでいた。塾の期間限定割引メニューの社会の授業を受け持ってくれた先生とは初対面で先生の家に行く仲になった。顔を見ないように焦点を結ばないようにぼんやりと額から発する体温を見つめながら、久しく触れていなかった他人の家の臭いにくらくらした。
「もう今日は遅いからいいけど、なんか食べたかったら買ってきてもいいし、食材買ってきて作ってもいいよ」
「はい……」
授業中に唯が休みの日にホットケーキとか餃子を作るのが好きと言ったのがいたく気に入ったようだった。ホットケーキは混ぜてフライパンに生地を流し込むだけだし、餃子は包むところまでやって、焼くのは母の仕事だ。先生はそうとも知らないで私の女の子っぽい一面を褒め称えた。女子力という幻想は根深いなと思いながら笑うと、それもいかにもな女の子仕草で、目の前の男を喜ばせてしまったことを唯は後悔した。深夜ドラマから少し下品な深夜番組までを小さなデスクトップモニターで眺めながら先生の腕の中に納まった。彼だけが着替えたくたくたになった部屋着の毛玉の一つ一つが先生の生活習慣そのものである気がして、抜いて指先で丸めたくなったが、またそれも女の子っぽいなあと先生を喜ばせてしまう気がしてやめた。脇から漂う新鮮な体臭を受け止めきれず口で息をする。先生が缶をあおる度にローテーブルに乗ったビールの水滴が私の太ももを濡らすのが不快だった。
「なに、緊張してる?」
「いや」
ふう、と吹きかけられた息のアルコールによって夕飯に急いで入れたコンビニのおにぎりが喉元まで上がってきた。鼻で吸って口で吐くように意識する。家では誰も飲酒しない。誰かの喉を通るお酒をテレビ以外で見たのは初めてである。飲み口に先生の唇が吸い付く。きちんとそれらを捉える前に、先生は唯の首根っこを掴んでキスをした。緩んでいた口から一気にビールが流し込まれる。幾筋かこぼれて口角から首へと流れて、制服の襟を汚した。先生の身体を咄嗟に突き放し、肩で息をする。強烈な炭酸が弾け、鼻をアルコールが一気に抜ける。慣れない喉の感覚に咳きこんだ。「まさか飲んだことなかった?お父さんの晩酌を一口もらうとかなかった?」俺はあったんだけどなとか笑っているけれども、それは気遣いでもなんでもなくて、大丈夫続けてと唯が言うのを期待してのことだ。すべてが初めてですと言うのが唯は恥ずかしく、それを予想しないでやっているとは思えない言動に何も考えられなくなって、ぼうっと先生の下っ腹あたりを見つめた。うつむいた唯を抱きしめようと回された腕が何もわかっていない自己中で、むかついて返事すらできなかった。
唯はその瞬間にふと思い出したのを必死に装って、男の人って若くても加齢臭があるんだねと中村に話したら笑われた。
「うちらだってシーブリーズがんがんに振るじゃん。男はもっときっついの振ってるらしいから臭いすると思うよ。野球部とかさ。近くの男子校みてみ。近く通っただけでやばいよ」
唯の通う女子高の通学路に男子校が確かにある。そちらのほうが運動部は大会にいくつも出て成績を出しており、頭のほうでも日本トップクラスの大学に現役合格していると謳っている。母から言わせれば得意なことがある子を合格にしているだけで学校は特別なことは何もしていないらしい。歴史と制服と校舎は古いが、全国大会などにはとんと縁がない我が校とはまるで比べ物にならないほどの進学校をくそみそに貶しているクラスメイトや親に尊敬の念すら湧いた。
試しに帰りはわざと市営のバスに乗らないで男子校の前を歩きで通ってみることにした。男子のバカ騒ぎを懐かしく思いつつ、前を向く努力をした。珍しくもない女子制服を何億光年かぶりに見たように上から下まで、正確に言えば肌の出ている部位を中心に見られた。いつもよりも速度を上げて突っ切っていく。あまりいい気はしない。かといって、塾の先生みたいに意識はしない。体格の差は感じるけども。気配を消しておかしな動作をしないように歩いた。帰ってから何をするかを考えた。部活を早くに切り上げて帰る坊主頭の集団とすれ違うときは変に力が入ったが、横目で見ることもせずに早歩きで集団を追い抜いた。顔を寄せ合っているので、馬鹿話をしているのかと思ったけれど、通り過ぎたあたりで視線を感じたので小走りになった。緊張しないようにすると余計にするというのは本当だ。これが女子高に入った弊害の一つかもしれない。駅のベンチで座っていると先ほど追い抜かした坊主頭の一団が私のちょうど前で歩みを緩めた。私の顔一点に熱いものが注がれた。通り過ぎた先を意識して視界の端から消していると、「顔よかったな」という声が聞こえた。どっと汗が出た。電車が行き交い、風が起こりやすい構内で空気というものが感じられなくなった。一刻もここを離れたくて仕方なかった。家に帰っても、落ち着きが取り戻せずリビングから台所の端まで小一時間練り歩いた。自意識過剰かもしれない。声はかけられていないし、でも複数の視線が自分に向いた瞬間、怖くて顔が上げられなかった。唯一の学校の最寄り駅で定期を買っているから避けることもできない。男子校の制服から逃げ回る自分を想像して可哀想だったし、ちょっと面白かった。友達が同じ目に遭えばそんなこと大したことはないと言い切ってしまえるのに。どこまでも大げさに捉える性格に呆れた。それで笑いがこみあげて、なあんだ元気じゃないかとやっと一息つくことができた。流し台で風邪予防のために手を洗った。生きようとしている。心臓が跳ねるのを右手でぐっと抑え込んだ。水垢で鈍くなったシンクになめくじが数匹這っている。こんもりと塩を盛って溶かした。小さくなっていく生き物が、私の漠然とした不安であるような気がして、目が離せなかった。なめくじの跡を適当に水で流して排水溝ネットを引き揚げた。蛍光灯の光がぬらりとへどろの中に入り込む。できるだけ本体に触れないように垂らし、肉を入れていた使いまわしの薄いビニールに納める。心許ない。固く口を結んだらぷっくち膨れて腹と掌で潰す。ほころんだ結び目から空気が漏れて顔にかかった。鼻息を止めると奥で臭いが閉じ込められ、顔をこすった。排水溝に触れた指で、唯は恥ずかしいと思いながらゴミ集積場に袋を捨てに出た。
上靴のゴム越しに何か刺さっているのを感じ、女のような動作で後ろに海老反る形で足裏を確かめると、毛虫が潰れていた。唯はそれが妙に気になって錆びた針金の玄関マットの上で前後に大きく自転車を漕ぐように動いた。その瞬間に浮かせた毛虫付きの左つま先が中村にかすった。避けきれなかったらしい。とっさに謝ったけれど、睨まれてしまった。唯はしまったと思った。その間、わずか三秒。中村に目をつけられたのは唯しか知らない。明日が一気に怖かった。朝が来ないでいいと思いながら、夜中、中学時代に塾でどっさりもらった因数分解のプリントを解く。頭がすっきりする。数学が好きなわけでも得意なわけでもないが、因数分解だけが唯の中で異質だった。過去を思い浮かべることもせず、将来に不安を抱いたりしないで、ただ現在のaやbの正体を暴く。単純な数字だからひたすらに下田のようなaから足したり引こうとするのかもしれないと唯は思った。紅茶のティーバッグを上下に揺すり、出がらしを啜った。にが甘いのが尾を引いて、さらに唯の脳内から澱を吹き飛ばした。
『私は今回のことを反省しています。何もあなたのことを嫌いとかそういうんじゃないです。最初の方は嫌いだったけど、今は好きです。こうやって言い争いを起こしたいわけでもありません。どうにかきつい物言いをやめてほしいだけです。みんなきついって言ってます。休み時間に生理痛で寝ている子に乗っかったりするのはやめたほうがいいと思います。みんな迷惑しています。それができなければ私をはじめとしたみんなに関わらないでほしいです。私はちょっと人より繊細なんです。私は父が厳しくて、勉強を強いられている環境にいま置かれています。学校ももしかしたら辞めなきゃいけないかもしれないんです。どうか輪を乱さないで。』
下田の荒ぶった手紙は数部コピーされて、たちまち学年中に流布した。机の中に入っていた差出人も宛先もわからない手紙は下田が赤い顔をして回収にかかったことからすぐに書いたのが下田だとわかった。下田がそのまま手紙を出した本人に詰め寄るかと思いきや、終始涙をぼろんぼろんと落としながら授業を聴いているだけで行動には一向に出る気配がない。下田と争った相手というよりかは、下田が一方的に嫌った相手は数知れないから宛先が絞れない。唯は興味津々で下田に寄っていって背中をさすった。
「つらかったね。あんなの捨てとくからね」
「うん。ありがと」
握られた唯の指先は温かい。小学生の低学年に手が温かい人は心が冷たいという都市伝説が流行ったっけと唯は考えてきゅっと口角を上げた。
下田に恥という感情はあるのか知りたくなった。例えば、小学校の低学年まで続いた男女の着替えだとか、卒業式に一人だけ馬鹿でかい声を出すだとか、一人で登下校するだとか。下田は恥に直面したことがあるだろうか。ないからあんな酔っ払った手紙を出せるのだろうなと思いながら下田を下校用のスクールバスの停留地まで送り届けた。唯は市営バスだ。
「今日は一緒にいてくれてありがとう。竹内ちゃんだけだったわ。なんかみんな冷たい」
みんなのみにアクセントを置いたのを唯は聞き逃さなかった。
「そんなことない。多分、みんなわかってくれるよ。ちょっと理解にずれがあったとかそういうのだと思うよきっと」
「そう言ってくれると心強いなあ」
下田は鉛筆の匂いのする脇をがばりと開けて唯をすっぽりと腕の中に納めた。控えめに言って冗談だろと思った。本当に臭い。耐えられる臭さだし、不潔ではないのだろうけれど、ご遠慮願いたかった。下田はその日、快活に帰って、それからも一日たりとも欠席しなかった。何の関わり合いもない体育祭のアンケートを取っていた先輩の肩を持って、唯の学年の全員に体育祭開催に賛成して欲しいと言って回るほどに回復していた。あの手紙の中の反省と実際に見た大玉の涙は何だったのだろうか。見ているこっちが恥ずかしくなり、それが下田を執拗に避けたり嫌がらせしたりする人間の初めの衝動なのだろうと思われた。唯はおもむろに机の中に入った体育祭のアンケートを取り出した。どちらのほうが得があるだろう。運動嫌いの唯としては間違いなく開催しないほうを選ぶべきなのだろうが、開催するほうを選んで下田の恩を買っておきたい気分になってきていた。しかし、下田は女が嫌いだ。私の女嫌いよりもそれは質もウケも悪い。下田のその姿を見て、唯は私は何かの拍子で下田のポジションだったのかもしれない。でも、私は下田ほど不器用ではないし、考えなしでもない。だけれども、生きていて息がしにくいことも多い。女子校が救助を待つ列ならば、唯は真っ先に後ろへと回されて死ぬのを待たれる人間だろうと思われた。
下田が宣伝した効果で出たのかは不明だが、体育祭は無事に行われて先輩たちは本格的に受験シーズンの顔を安心してし始めた。下田は同輩からも先輩からも特に信頼を得られなかった。それでも唯は下田の大きい背中をなでさすった。
「全くよくやるね」
丸山は唯の話を娯楽としてならば訊いてられるが、自分が体験するのはごめんだとよく言う。同じ目に遭わせてやろうか。さすればこの発散しきれぬ憤怒を理解することができることだろう。そう唯は常に怒っている。想像以上に何もできないのに、自己評価だけが高い下田のような人間に。
「最終的にどうしたいわけでもないけどさ、躾けたくなるんだよね」
「躾って、下田は犬なわけ?」
「いや、犬畜生ならまだ許せるよ。気に入らなきゃ保健所に連れてけばいいんだもん。腐りきったどうしようもない下田みたいなやつはさ、健康で文化的な最低限度の生活をそれこそ送っとけばいいのさ。人に迷惑かけない範囲で」
丸山は黙り込んだ。
「なんで?間違ってないじゃん。下田は犬以下だよ」
「さあね。私は関わったことないから」
その日はそれ以上話をしなかった。
下田を懐柔してから七野と仲良くなるまでそう時間はかからなかった。元々、下田と七野は友人の友人で、いざ繋がると七野は電車の路線が同じだった。バスから電車の乗り換え地点のスタバが七野のテリトリーとわかったとき唯はしめたと思った。スタバの新作フラペチーノに並ぶ七野の手に刺さるルブタンのスタッズを凝視した。学校の自販機に行くために財布のスタッズを見ては、私ならば痛くて動作が鈍りそうだと思ってしまう。とぐろを巻く生クリームを見ただけで胃液が分泌されたのがわかるほどにお腹が熱い。流行はグループでいるための関門の通行証で、突破しても延々とその先に関門がそびえている。行き始めたころは物珍しくて透明のカップに猫や熊のイラストをリクエストしていたが、それもしなくなった。すっかり惰性になっている。勉強と称して友人たちと集まっているが、口ばかり動かしている。母のクレジットカードを交通費という名目でモバイル交通系カードに自動チャージしてもらっている分で毎度支払っているが、交通以外で使用しているとばれたら携帯ごと取り上げられるかもしれない。ただでさえ、携帯代がバカにならないほどになってきている。だけれども、スタバ通いとやめたら、新作がどうのとかの話に乗れなくなってグループに入れてもらえないかもしれない。こんなことで悩むこと自体、若者というか、JKっぽくて恥ずかしくてやめたい。親には言えないこんなこと。七野さんが今日もルブタンを指さされたと憤っているのを訊いてて、私ならばそんなことにはならないと思っている。
「なんでブランド物持ってたらいろいろ言われなきゃなんないの?みんなも持てばいいじゃん」
「うん。まあ、持ちたくても持てないって子もいるかもね」
「だったらいいなあで済ませればよくない?」
「いやあ、うらやましいけど、素直に言えないだけだよ。すんごい可愛いからさ。それ」
七野はずっと自他共に燃えている。注目を浴びやすい体質だ。
「人に言わなくていいよね、とにかく」
「うん。言わなくていい。黙っとけって感じ」
普通ならばきっと流して気にしないことも七野は気にする。きっと逆もある。わたくし事と他人事とはそういうものだ。そう思いながらもう難しい名前のフラペチーノを飲み干した。並んだ時間より完飲する時間の方が短い。場所代だと思えば値段が高くとも少しは溜飲が下がるというものか。
「私って、中学でいじめにあってたから、竹内みたいな子は大切にしたい。なんかあったら絶対言ってね」
「うん」
七野がどういう扱いを受けていたかはあらかたあらかた訊いている。いじめではないほどの微妙な溝を生んでいた七野とクラスメイトたちは唯に話す内容も真反対だった。七野のような不安定な子は嫌いじゃない。
乳児が捨てられた。へその緒をつけたまま通っている高校の敷地内である森の中で転がっていた。赤ちゃんは日の目を見て懸命に泣いて、親を探して死んでいた。発見者がどうしてそこを通りかかって発見できたのか。それほど山の奥深くではないようだが、それでも散歩で通るというには不審な場所に乳児はいたらしい。朝のうちに見つけられたので、学校が閉鎖になることを期待したが、一時間目が強引に始まった。やると思ってなかったので、ろくに板書しなかった。今日ぐらい許されると思った。隣りの席の子と誰が産んだのとか話したかったけれども、不謹慎と言われるのが怖くて、さらにはそう言っているほうがママなんじゃないのとか冗談でも言われるのが嫌で、結局噤んでいるしかなかった。唯たちは、教室に集められた全員が妊娠する身体が最低限備わっている。それなのに、女子高生は産むという選択肢を剥奪されたまま生理という準備段階と戦っている。掃除の時間になると同じ当番班の松本は月に一回、掃除をさぼる。
「血の臭いがする」
中村と寺崎は手際よく消しカスをちりとりに納めて松本を見逃す。言っても無駄だからだろうか。それとも。
「お腹痛い?あっためといたほうがいいじゃない」
「もうやってるわ」
保健室にさっき行ったけど、ナプキンないって言われた誰か持ってたりしないと松本ちゃんは嘆いた。今、パンツの中で血液を垂れ流しているのだろうか。腰かけている机についたりしないのだろうか。私はきっと目立ってもいいから授業中でも空気椅子するだろう。私は小学校の修学旅行で初潮が来た。環境が変われば血が出るようになるよと父に言われて本当に来て驚いた。父はその道の専門家だけれど、反抗的な私に面白がって電気あんまをする人なので、信じていなかった。パンツに赤いひし形のスタンプがついて、どうすればいいのかわからなかった。私の身体が変化した瞬間を可視化したのは初めてで座ったままパンツの二枚重なった部分を観察していると言ったら聞こえはいいけれど、ただ何も考えずに染みだけを見た。一匹の蝿が吸い寄せられてきて乾燥した布の上に止まった。害がないとはいえ、デリケートなところに虫が直でつくのは嫌だった。自分の血はそんなに臭気を放っているのかと便器から腰を浮かせて柔らかい腹を折りたたみながらパンツに鼻を寄せると、尿とも唾液とも違う刺激が立ち上った。蝿は濃くなった影にめざとく気づいて飛び去り、耳の穴に狙いを定めてブブブと羽音がして、反射的に耳をこすった。冷静になって、トイレットペーパーを詰めてその場をしのいだ。それ以来、生理は一度も来ていない。初潮をママ友に自慢した母やさぼるのに生理を利用するクラスメイトたちのように羽音を小気味よく鳴らすことができない。生理が来て、効率よく使用する段階にもない私は虫でいうところの蛹だろうか。
教室に戻ると黒板にプリクラが磁石で止められていた。最近の透明なプリクラは磁力に勝って重力に負けていた。
「なんこれ?」
「キスプリ」
「誰の」
「西村の」
「なにぃ」
廊下で隣のクラス連中と分かれ難そうに喋っていた西村を捕まえてプリクラの経緯を問いただす。
「こいつ、元ストーカーと付き合ってる」
「おん、聞いてないぞそんなん」
「わりかし大声で話しちゃったらから知ってると思ってた」
「この乳か!この乳で誘惑したんか!」
唯は両の手でセーターの膨らみを後ろからもみしだいた。案外固く、重みがあり温かかった。髪からラウリル硫酸ナトリウムがふんだんに入った成分の強いシャンプーの匂いがした。西村ちゃんは痛い、痛いと言って私の手をやんわりとほどいた。
ストーカーってなんぞ。まさか、いつもバスの前で待ち伏せしてるおっさんがキスプリの相手とか言わないよなと肩を揺さぶるとやはりそれも拒否されて、かの主は近所の男子校に通ってる同い年だという。
「え、なに男子校のやつがストーカーしてたの?」
「ああそっからか」
西村たちは周囲と見合わせて苦笑いを浮かべた。どうする。話す、とでも言いたげに軽く顔を傾けて目玉だけを動かした。
「話せば長いけど端折るとするなら、まず彼氏がめっちゃ電車の時間合してきて、じっと毎日見てきたらしい。それだけだけど、なんか変だからなにって言ったらまんまと告白されたわけ」
西村ちゃんの腹心である永井がしゃしゃって全てを説明してくれた。西村はただ頷いている
唯は素顔も名も知らぬ男にこの学校屈指の胸がぐんにゃりと掴まれる様を思い浮かべた。柔らくていい匂いのする女を抱けるならば今すぐにでも私は男になりたい。どうして女を抱くのは男とすぐ連想するのかわからないけれども。
唯には女子校に通っているという引け目があると感じたのは、近くを通りかかる小学生に罰をつけられてからだ。私は容貌で丸罰をつけられて、すぐにはよくわからなくて小学生がいなくなった後で、顔を揶揄されるのは女子高だからだと諦めがついた。共学に通う同い年の智也という男に、女子高にレズビアンはいるのかと尋ねられて、私は返事に窮した。
「いるとは思うけども、公言してる子は見たことないな。先輩ではいたらしいけど」
「好きで行くんじゃないの。そうじゃないと共学行くだろ、普通」
当然だけども、別に大半が学校に恋愛しに行ってるわけじゃなく、進路や自分の特性に合った校風の高校を選んでいるだけ。それを智也に言ってもわかってもらえない気がした。
「面白いなあ。女子校。聞いてるだけで面白い」
「面白くない。言ってるほうは真剣なんだから」
「当たり前だろ。だから面白い」
智也は突然、私が見えなくなって、というよりかは私の感情をわざとブラインドして、実験道具のラットと向き合っているような話し方になることがある。私の感情は私すらもよく見えなくなって、智也の唾液の滑り落ちる犬歯に焦点がいってしまう。
「ねえ。もっと聞かして。その話絶対役立つよ」
「何が、いや、何に」
「自分が変かなーって悩んでる人にもっとひどい人いるわーって」
「下には下がいるって?あー、まあそうね」
人間の能力値を相対評価していけばおのずと上下が出来上がっていくのは摂理だけれど、人格に階級をつけていって、それを浮かび上がらせるのは道徳的に正しくないのではないかと思った。それならば、智也自身が今の未熟な人格にBマイナスだとか成績がついて、それが社会に出ていくうえで「役立つ」と言われたらどう思うのかと知りたかったが、競争心の強い智也のことだから絶対になるべく楽なやり方でAプラスを取ってくると反論してくるのだろうし、事実そうなるだろうと確信した。唯としては、智也よりも能力面でも精神年齢的な観点でも劣っていようとしているわけではないけれど、勝とうと努力した時点で智也とは友達ではなくなる気がしていた。中学時代、隣の席にたまたま仲良くなった。私は勉強もなにもかもさぼっていて、口癖が私なんて、だった典型的に落ちぶれだった。それなのになぜだか委員長などをやりたがったから自信があるのだと思われて、散々自分の実力と自信が見合ってないとばかりに、可愛いと思ってんでしょ、頭いいと思ってんでしょと明るい女子に小突かれた。智也は見かねて私とテストの点数で勝負しようと提案した。「負けるのがわかってるから無駄だよ」「そんなのわかんない。やろ」智也は竹取物語を暗唱できるぐらいできる女子から申し込まれたテストの点数勝負を断っていた。智也にとっては出来レースだった。案の定負けてしまって、悔しくはないが、恥じてはいて、智也には負けだけを申告すると、テストをぶんどられて点数を隠すためにつけた三角の折り目を丁寧に開いたまま机に置かれた。机の中にいくら押し込んでもトイレに行っている間や、別の答案をもらっている間に絶対に私の悪い点数を周囲に公表した。智也は私とは二倍の差をつけて勝っていた。でも、彼はどうしても私の点数を自分の目で確かめないと気が済まなかった。父親にその話をすると、「悪い点数を取ってくるほうが悪いんじゃないのか」とため息をつかれた。
「でも、点数を勝手に見るのはだめだよね」
「もし勝ってたらそんなことしないんじゃないのか。勝てるように勉強しなさい」
「勝つためだけに勉強するなんて、おかしいよ……なんか順番とかいろいろと間違ってる」
「それは言い訳だな。努力して勝ってるのは向こうなんだから、お前は負け犬だぞ」
いっそ犬になって人間に飼われたい。栄養が保証されたドッグフードを食べて、夏は涼しく冬は暖かい室内で人生の大半を過ごしたい。ここまで私は謙虚に暮らしているのに、自信があると思われて、わからされる生活を強いられるんだろう。もう両手を挙げて降参している。武器も持っていない。それなのに、いつ周りの人を怒らせることを私はしたというのだろうか。智也は趣味作れよと薦めてくる。私をまた寂しい人に仕立て上げようとしている。私はそんな人ではないのに。智也の中での私像がどうなっているのか聞き出したところで、私の中学時代の恥が浮かばれることはないのである。だからこそ智也の私のイメージから脱するべく、彼の手を引いて大型書店に入った。まっすぐ智也が難しい専門書を手に取って立ち読みしだした。私のことはいないかのようにいつまでも読むので、もっと二人で楽しめるようにしようと提案を投げかけるが、突っぱねられる。
「竹内も、自分の好きな本見てきたら。ここにいるから」
「そんなの……」
そんなのあんまりだ。唯は声に出さないで、なるべく智也から遠ざかった。唯は本を読まないわけではないが、声に出さないと読めない性分で、朝の十分間の読書時間はいつも舐めるようにして文字を一つの絵として捉えながら、本を開いたまま別のことを考えたりしている。私は変身したかった。自分の人格のままに突如として人にはないとてつもなく突出した能力が生まれて、可愛い戦闘服に一瞬で早変わりして智也や中村ちゃんをはじめとする自衛する術を持たない人たちを世にはびこる不審者から守りたいと思っていた。小さい頃に父が暇をしないようにとDVDに焼いてくれた返信する魔法少女の漫画の実写版を見て、私も強くならなくてはならないのだと使命感にかられた。私に強さというアイデンティティがあれば誰もがちやほやして感謝してくれる。人にすごいと言われたい。昔からの幻想は唯の今の無能さをより際立たせている。新刊の単行本の前に立って棚に隙間なく収まった背表紙をピアノの鍵盤のように撫でた。本の作者を男女に分かち、五十音順に並んでいる。苗字名前ともに長くて、現実にはいないだろうという名前を馬鹿にしながら山積みされた本の表紙をでたらめにめくる。模様に見える。大人の本のコーナーに見切りをつけて児童書コーナーの小型の椅子で休憩する。智也はいつまで立ち読みする気だろう。満足するまで読もうとするところが貧乏くさい。三十分ほど児童書で子供たちのねだる声に耳を傾けてから小説の新刊コーナーに戻ると、智也が唯を探していた。
「どこにいた?どうして文庫のとこいないの」
「いや、文庫はね。文字が小さいから」
智也の口角から唾液交じりの笑いがぷふっと漏れた。
「文字が小さいって。若いのに。文庫ぐらい読めよ」
「単行本は持ってるし、読むもん」
単行本という単語がとまた智也のツボを刺激したらしく、しばらく笑われた。あーあと一息置いて、「あんね、単行本じゃだめ。本じゃないから。文庫読んでこそだから」と諭された。頭のいい人からしたら本当にそうなのかもしれない。けれど、唯は馬鹿だからか、文庫本と単行本の中身の違いが判らなかった。単行本の後で文庫本がでることだってあるし、それぞれメリットデメリットもある。読みたい本を読みたいときに読めばいいと思う。本は娯楽だ。うんうん。そうだねと智也は諦めたように場所の移動の提案をした。感情的になると、今度は女の子ってすぐに感情的になるよなと続きそうで、最後に漫画コーナーで新刊が見たいとお願いをした。智也は含み笑いで了承した。単行本コーナーの対極に置かれた少女・女性向け漫画コーナーに足を踏み入れると、客層が一気に若くなり、女性だけになる。平積みについたポップのピンク率が高く、ここの棚はほとんど恋をしていると思う。智也を無視して突き進む。すれ違う人が頭一つ分高い彼の顔を横目に、裏表紙のあらすじを真剣に読んでいる。さらに奥へと進んで柱の横の棚で立ち止まると、智也は顔をしかめた。
「エロ本?」
「違うよ。BL」
「エロ本じゃん」
否定はしたが、彼の指さしたものは誇張された下着姿の男たちで、エロ本と言われても相違なかった。帯文はどれも放送禁止用語またはエロ用語で埋め尽くされ、ロマンスに酔わせるための商品というよりかは完全にAVと同じ類である。それが全年齢対象の少女漫画と隣り合った棚に置かれているのだから一種異様な光景だ。
「女子でも読むのこんなえぐいの」
智也の指先には亀甲縛りの男性がカラーで描かれた絵が表紙の分厚い本が見やすいように並んでいる。そうだよと言いかけたが、唯が下心あっての行動だと勘違いされそうだと棚を前にして気づいた。そんなつもりはない。唯はこの絵の男の子たちにしか興味がないと証明するためにすでに家にある一冊を抜き取って彼の前に掲げた。「あ、あん!だめ・・・」の文字が躍るのを無感情に頷く。それだけでは拒否なのか受容なのかよくわからなかった。彼は男だから、性欲のことをよく知っている、毎日触れているのだから抵抗はないと踏んで連れてきたのだけれど。
「なんで男同士がいいの」
唯が想定していたもっと手前のところで智也は立ち止まっていた。男同士の恋愛が見たいという欲求は元来備わった器官のような気がしていたけれど、思い返せば小学校六年生の掃除の時間に受け攻めってわかるかという質問から始まったのだった。それからいくつかBLと検索して出てきたイラストを見て、攻めは男役、受けは女役という少し間違った知識を友人と話を合わせるために叩き込んだ。思えば遠くへ来たもんだ。智也の質問に丁寧に答えるならば、最適な答えはどうしようもなくときめくんだからしょうがない、だ。その答えを聞いて彼は嫌悪感を少しも隠さなかった。唯のようなBLが好きな部類の人間に会ったことがないのだろうか。ならば若いうちにあっておいて損はない。間違いなく大人になったときに無神経に人を傷つける可能性が減る。
「え、男女でいいじゃん」
「はい?」
唯は男同士の恋愛が好きだと話していてそのような反応を頂いたことがなく、それはとても幸せなことだったのだと知る。人の好きな物にケチをつける以前に、自分とは違う考えの人がいるというところにも及ばないらしい。若さと言うべきかそれとも無知とも言うべきか。唯は異性愛者だけれど、同性愛者にもそのような言葉を吐くのだろうかこの男は。
「わかんないなあ。俺、ときめくとかないしなあ。少女漫画も読まないし。てか女子女子したの無理」
どこから話せばわかってくれるのだろうと半泣きになりながら立ち尽くした。弱弱しく読めばわかるって、とおすすめを選ぼうと下を向いた瞬間に、智也は時計を見てじゃあ俺帰るわと言った。
「どうして、ごめん。怒らせたならごめん。もう見たくないものは見せないから」
「違う違う。好きな子の志望大学が俺より上で、負けてるの悔しいから勉強するために帰るだけ。まあ、たまにはよかったよ。じゃ」
彼は行ってしまった。言いようのない脱力感が唯を襲った。それから買い物かごを二つ持ってきて、手当たり次第に積んであるBLを入れた。唯は彼に反論するためにもっとよく知ろうと思った。馬鹿であるならもっと鈍感な馬鹿がよかったなと自分を痛々しく思った。図らずも大量購入したBLをこよなく愛する丸山ちゃんと堪能すべくBLと弁当をスクールバッグに入れて保健室に向かった。カーテンで仕切られた小さい勉強スペースで丸山ちゃんは慣れた様子で古い机に向かっていた。丸山ちゃんは一年のときに同じクラスで仲が良かったが、今は離れてしまった。同じクラスと言っても彼女はずっと保健室通学をしていて、遠足での孤独を埋めてくれた恩人でもある。いつものように入り口でスリッパに履き替えて丸山ちゃんのいる奥へと進む。丸山ちゃんのクラスメイトの女子が三人並んで何かを囲んで真剣な話をしているのが耳に入ってきた。その中央から見えないけれど、丸山ちゃんの声がする。明らかに何か一方的に言われていた。「だからさ、グループ発表のときだけ来てくれればいいの。全員でやらなきゃいけないから」「唯は点数いらないから、勝手にして」「そうじゃなくて、唯たち、丸山さんのせいで迷惑してんの」「それは知らない。あなたたちの点数は唯には関係ない」「あるの。連帯責任だから」「知らない。行かない。唯の点数はゼロ点でいいから。もういいかな」丸山ちゃんはそう言い放ち、カーテンで境界を作ってしまった。彼女たちは皮肉にも白々とした薄い布をキッと睨みつけて話にならんわといった様子で保健室を出ていった。遠くなっていく足取りからかなり腹に据えかねているのが傍目から見てもくみ取れるだろう。
唯は知らん顔してカーテンの境界を慎重に破った。丸山ちゃんは喧嘩などなかったような顔で、正面の椅子に座るように唯に勧める。
「それうちのクラスもやったわ。面倒だよね」
数学のプリントの手垢つきの端を爪弾いた。
「授業ついていけてる?ノートは?」
「いいよ。進行状況違うから」
丸山ちゃんは唯の施しを受けない。別に憐れんでしてあげてるとかではなく、こちらとしては本気の善意から来た行動なのだけど、それをこちらから言えばわざとらしく、かつさらに彼女を傷つけることになるのは目に見えていた。
「あのさ、そのまんまで聴いて」
「うん、」
唯は智也のとのやりとりをなるべく偏りがないように話した。唯が悪くないように、反省しているのはよく伝わるように話した。丸山ちゃんはあまりこちらに神経を注いでいない。
「差別だと思わない?唯を見下すしさ。ああいう男はだめなんだよ」
「でも、BLが生理的に嫌だったんじゃないの。いい顔してなかったんでしょ。その場にいてないからわかんないけどさ」
「それ偏見でしょ」
「そう仕向けた部分もあるんじゃないの」
丸山ちゃんは顔も上げずにこちらに刃物だけをちらつかせる。唯はその刃物が怖くて仕方がない。嫌われているわけではないはずだけれど。
「男はって言う前にそのヲタク女子の押しつけやめたら、迷惑だよ」
丸山ちゃんに決定打を打たれて唯はううむと唸ることしかできない。BLを見せたのは押しつけであったか。それを同族の丸山が話を聴いて瞬時にそう思うならそうなのかもしれない。だけど。
「人の好きな物を貶すことないじゃん」
「じゃあ、唯さんもその人の嫌いな物をわかってあげなよ」
唯さんと唯の名前を呼ぶ声は穏やかだ。まだ嫌われていない。大丈夫。これは冷静な彼女なりのアドバイスなのだから、素直に聴かなくてはならない。
「もっと視野を広く持たなきゃね。人の気持ちわからなきゃ」
丸山はプリントを半分ほど白紙のまま鞄にしまい、代わりにコンビニ弁当を出して食べ始めた。
「いや、唯さんは全然わかってないね。距離取ったら別に人の気持ちをわかる必要なんてないの。わかりあえないなら、そのまんまスルーしてもいいんだよ。なんでそんな丁寧にぶつかりあっちゃうかなあ」
丸山は米粒のついた箸で唯を指す。唾液で照りついた箸が糸を引いてくっついて離れる。唯はそれを甘んじて受ける。丸山は唯がカンニングしたと疑われたときにかばってくれるような優しい子だから唯を傷つけたくてやっているわけではないとわかっている。
「ぶつかりたくてぶつかってるんじゃないよ。向こうがぶつかってくるの」
「じゃあ今度から会わなきゃいいんじゃないかなあ」
会わないという選択肢があるということに正直驚いた。会わないというのは、友達を辞めてしまう第一歩で、唯からすれば、無視と同じぐらい罪深いのではないかと思っていた。相手を悲しませてしまうのではないかと。その悲しみも唯が背負わなければいけないのではないかと。綺麗ごとだろうが、丸山に言われてもそう思っている。
「さらにひどいことになったらどうすんの?傷つくのは自分だよ」
「でも全面的には悪くないんだよ」
「じゃあ、これからも遊んでいっぱい悩めばいいよ」
「どうしてそう突き放すの」
唯たちがお昼ご飯を食べていたスペースのカーテンが勢いよく開いて、保健室の先生から静かにするように注意を受けた。興奮するあまり声が大きくなっていたみたいだ。
「わかってもらいたいんだと思うよ、唯さんは。でもねそれはそのお友達さんには無理なんじゃないかなあ」
「話せばわかると思う」
「わからないよ……」
丸山はため息を一つ吐いた。そのわからない、が唯のことを指すのか、話し合っても智也と自分はわかりあえないということなのかは判断できなかった。丸山こそ、
誰かの迷惑になるような欠席の仕方をしておいて知らないの一点張りで通して、故意にクラスメイトと衝突しているのに、人にはうまく渡り合えと言う。自分の行動と言っていることが真逆ではないか。唯の精神的な盾は切り崩してくるのに、彼女は一言知らないというだけで防御を成功させるのだから、ずるいと思う。彼女の中ではきっと矛盾していない。一貫して人を避けている。丸山は周囲が見えすぎてつらいのだ。唯は母の手弁当をつついた。
その日の放課後、学校の周りに猿と露出狂が出現した。山のふもとにしがみつくような形で築かれた我が校に猿が出没するのは至極真っ当なことなので、よしとして、なぜ露出狂が出るのか理解できなかった。まさか、キャッと甲高くリアクションできるわけでもあるまいし。高橋が露出狂に遭ったらちっさって言うたれと大声でげらげら笑うので、一瞬、クラスの緊張の糸が切れた。高橋がバシバシと膝を打つ手は爪が三分の二ほど嚙みちぎられている。彼女は毎朝、電車で痴漢を受けているのでその手のものには知識があるのだ。高級ブランドの紙袋を吊り下げた机のフックが彼女が笑うたびにキコキコと鳴った。サッシやベランダに猿が上ってくる可能性があるので、猿注意の放送が流れて校舎中から一斉に山側の窓がバタムバタムと閉じられる音がした。猿は人里には食料がないとわかれば勝手に山へと戻っていくが、露出狂は高橋の言う通り「小さい」と言えば逃げていくのか確証が持てない。承認欲求でやっていたりするらしいので反応すればするほど喜んで頻度が増える危険性もある。男性教師は出るなよ、まだいるからと行って緊急会議のために教室を出ていった。結局、一時間後に猿と露出狂は校舎周辺を去った。どこの部活も禁止されたテスト前だったのに、部活したときと変わらない下校時間だった。スクールバスに降りた瞬間に声を掛けられる。「可愛いね」知らないおじさん。誰もが取り合わない。目を合わせない。足早で地下鉄の駅を下っていく。可愛いと言われて喜ばない女はいないと言われているが、もちろんいる。唯たちだ。
風呂上がりに全裸で体重を測るようにしている。数字を見下ろすと、肌理の粗い肌の下にとろみのある脂肪が眠る足で視界が奪われる。しっかりと二本で立っていますね。唯はばしんと尻を叩いて、表示された重さに満足した。十歳まで母の手料理に満足に手を付けないで昼の給食でしのいでいたから平均体重あるかないかぎりぎりで親戚に食べさせてないのではないかと疑われたこともあった。母は世間体を気にする人だったから、なぜ唯が食べないのかということについては特に着目しなかった。時間が解決したのか、舌が老化して鈍ったのか食べるのが趣味になりつつある。後ろを通りかかった父が声を上げる。
「うわ、大台突破してる。痩せなきゃだよ。ゆいちゃん」
「大台って、五十キロが?」
「そうだよ。女の子は普通四十キロ台じゃないと。形が崩れるし、彼氏もできない」
「そんなこということないじゃん」
振り向いて父に反論しようとして勢いあまってぶるんと乳房が揺れた。父の視線が一点に注がれたのがわかった。唯は父を押しのけて前を隠しながら風呂場まで走った。十分に温められた湯をかけてもかけても泡立った肌が戻らない。肉割れした腹や太ももの付け根が妙にむず痒く、かきむしる。いっそのこと風俗で働いてみて、どれだけ自分が傷物になったか父の前で披露してみようかと思う。赤い手首の線を見せるよりも効果があるだろうが、唯が本気だということは未来永劫伝わらないのがすでに予想できてしまって、想像だけなのに悔しい。唯がただの女ではないのが示す方法が、普通に勉強を頑張るしか選択肢が残されておらず、それでは両親が喜んでしまって却ってむかつく結果になるのは明白だった。ロック画面にしているAV女優のあくまさらちゃんは唯の憧れの女性で、いつも勉強頑張れと言ってくれる。彼女には学がない。それは本人も認めていることで、恥じているのか恥じていないのか、時折web連載しているエッセイで触れている。彼女は馬鹿だから性産業に飛び込んだわけではないと思う。好きだから。それだけだ。唯もAVを見下したりしないで、純粋に楽しんで鑑賞して、全く見下さなくなって、生きたいときに性産業にどっぷり浸かりたい。
最近のAV、可愛い女の子多いよなという話を英語の時間に展開し始めたとき、唯は楽しいながらもどこか女性が女性を見る憧れの目ではないクラスメイトの目が鏡のように垢が張り付いていると思えてならなかった。産休に入った中山の代わりの臨時教師が唯たちの声に勝つことをやめて授業を続行している。生真面目で潔癖そうな彼女をいないかのように端から好きな女優の名前を上げ始めた。だけど、誰一人としてAV女優になりたいだなんて一言も発していない。もしかしたら、教壇の上で唯たちに注意もせずにただ授業を終わらそうとしている妊婦ではない教師はいつかAVの中ででたらめな授業をしたいと思っているかもしれないけれど、それは別として。唯たちはAVの中で制服を着て、女子高生のコントなどしたくないと思っていると唯は予想する。唯たちが綺麗で消費しても赦されている女性を消費するのはいいけれど、消費されるのは嫌だと誰もが言うと思う。消費というのは、たぶん目を血走らせて自分の性欲だけを満たそうとする行為のこと。簡易的にオナニーとも言うけれど。相手がいてもオナニーは成立する。だって、誰もが自分一人しか生涯、愛せないから。そのような自分勝手な愛を唯たちは肉体に、精神に刷り込まれるのはごめんだからAVには未来永劫出ないと誓える。目の前で唯語を慎まない唯たちに怒りと悲しみの籠ったまなざしを向けている女性臨時教師はどうなのかわからないけれど。
ホームルームで二階の生徒も教師も来賓者も誰もが使うトイレ内のサニタリーボックスに大便をしないようにというお触れが出た。生理用ナプキンの上で用を足すなんてむしろ器用じゃないかとたちまち笑い話になった。
「それさあ、先生だったらどうする。犯人」
「え、ストレス溜まりすぎてとかで?いやどんだけこの学校ブラックなのよ」
「いやでも、唯この前忘れ物があって九時ぐらい電話かけたら、東が出たよ。臨時なのに。怖かったあ」
「東って?」
「あれよ。中山の、後に来た。唯らに注意しないやつ」
臨時教師の名前を知っていてさらに憶えている人がいるほうに唯は驚いた。
「英語の少人数授業、ここでやってるからさ、あの蝶の蛹見られてさ、東に。あいつなんて言ったと思う?」
「なんて言ったの」おいしそうとかサイコパス展開を期待したが、正解は「きもい」だった。虫嫌いならば当然言いそうなことで、なおさら蛹の飼い主の唯たちのことは毛嫌いしているのだろう。
唯はそのきもい呼ばわりされた蛹と同じ立場だった。飼い主は小学生時代の同級生だった。誰かの唯物に触れるのでさえ忌避され、触るなと散々叫ばれた。中村はその時の唯の話を彼女の通う塾から入手してきて、唯を避けるように決めたらしかった。(そのことをわざわざ口添えした人も唯は信用していないけれど。)唯は学校から帰るや否や、ランドセルを放って、布団にもぐりこんだ。クッションに口を押しつけ、まじないのように唱える。「治さなきゃ治さなきゃ治さなきゃ治さなきゃ治さなきゃ」。自分は病気のように自分の中で振舞っていたけれど、毎日誰かとは公園で遊んでいたから、周りの大人は誰も唯が実質孤独だということには気づいていなかった。唯はそれがもどかしくてしかたない。どうしてあのとき、被害者として声を上げなかったのだろう。唯がもっと声が大きければ、大人が罰してくれたのに。唯が報復する機会が訪れたのに。そういった後悔が何度も何度も中村を歩道橋から突き落とさせる。別に殺意があるわけではないが、清掃しなければ、教室の空気は濁ったままおかしくなってしまう。もう誰にも羽ばたく力のない蛹を貶すことはさせまいと唯は日々、場を乱すクラスメイトを慎重に観察している。鼻をひくひくとさせてパトロールしているつもりの高橋でも、外には気づかなかったようで、校舎の裏手にある家の主が教室の中を凝視しているのに気づいたのは唯だけだった。唯と目が合っても男はひるまずにただ突っ立って見ていた。目玉がついていないような黒々とした深い穴を唯は覗き込んだような心地で、虫が入るといけないからという名目でカーテンを手早く引いた。その日の放課後にも猿と露出狂が出た。露出狂と家の主の顔が一致すればいいと思ったが、シルエットからして違っていて、がっかりした。我が校を狙う不審者は少なければ少ないほどいいと思ったが、複数いることは残念ながら事実だった。唯はいらついてSNSの検索エンジンに、「征服ノ国」と打ち込んだ。スパムに紛れて見覚えのある制服姿の女子の画像が表示される。スクールバスに朝乗り込むクラスメイトや先輩後輩たちだ。どれもがカメラを見ていない。見ようとしていない。堂々と望遠レンズ付きの高いカメラを構えた男を刺激しないように道を歩く姿が痛々しい。露出狂への怒りをそのSNSの画像を通報する指に乗っけた。そのアカウントを知る者全員で通報するのが日課となっている。中には「どうしてそんなことするんですか」「楽しいですか」「気持ち悪いです。やめてください」「警察に言います」と直接コメントを書き込んでいる子もいて、日に日に不審者撲滅の動きが高まっている。皮肉にも連帯感を感じる。仲間を作りたければ、敵を作れと最初に言った人は正しい。唯たちは覚えたくもない手順をいくつも踏んで、一つ一つ地道に潰す。そのたびに逃げ込み寺のようなアカウントがふっと湧いて、またぞろ盗撮のお仲間もついていく。きりがない。唯たちを「素人JK」というジャンルにして消費するな。唯たちもお前らをアカウントごとかごに入れて観察日記書くぞこの野郎。そんなぐらいじゃ唯たちと不審者が怯まないのは知っているけれど、広大なネットの中に放り込まずにはいられなかった。
アカウントが運よく凍結されても、盗撮犯は最寄り駅に毎朝欠かさず現れた。クラス一可愛くて、モテて、当然ながら彼氏持ちの佐藤と同じタイミングで階段を上ろうとして、佐藤は寸でのところでエレベーターに切り替えた。男はむなしく一人で階段を上ることになった後ろに唯が張り付いて、すぐに佐藤に危害を加え足りないように傘の先端を男の背中にいつでも突き刺せるように構えた。男の目は唯の黙っちゃいない意志を掬い取り、唯は男の臆病さを見逃さないように凝視した。息を止めて距離を保ちながら出口から出た。白い雲と雨雲が幾層にも垂れこめており、やっと出られたのに苦しかった。男は慣れた足取りで人通りの少ない道へと折れていった。唯は勝ったと思ったけれど、佐藤はその一連の流れを一顧だにしなかった。佐藤は男性に追っかけられるのなんてしょっちゅうなのだろう。なんせ顔がいいから。大きな声で佐藤の友達が自慢している横で、佐藤は困ったように眉を下げる。だけれども、口元のゆるみは隠せない。それだけのモテ武勇伝を友達に相談風に話しているのだ。唯が話しても信じてもらえないのに。唯だってブスだとは正面切って言われたことはないのに。佐藤ちゃんと唯の間にどう差があるのかわからない。不審者につきまとわれたり、ナンパも実は自慢で、そのエピソードがある分、魅力があると証明したいだけなんじゃないかと佐藤を見やると、佐藤は見られ慣れているのかこちらに目を合わそうともせず、佐藤は鼻先から顎先までの一線を見せびらかすように静止したままだ。それはまるで唯と佐藤ちゃんを大きく二つに分けたようだった。
家に帰ると、兄夫婦が来ていた。義姉が母に子供を抱かせている。母の目は空を泳いでいた
「おお、帰ってきたな」
座れよと兄に背中を押されながら入ったリビングは見慣れているはずなのに、他人の家のように顔を変えている。兄は自分が一皮むけたような様子で赤ん坊の話を始めた。唯は目の前で広がる団らんから意識を逸らす。赤ん坊も唯を認識できるような歳ではない。おばさんだよ、と言える陽気さがあればいいものの、唯は意気消沈して隣のダイニングに腰を下ろした。母は腕が痺れたと言って、兄に抱っこを交代した。正真正銘、兄の娘だ。目じりが口角まで垂れ下がる。ヤッたんだ。唯はその光景を見てそう思った。義理の姉は子供ができて生理が止まった。そのときの気持ちは祝福だったろうか。絶望だったろうか。いつから子供が愛おしいと思えて、母性と言い切れるまでになるのだろうか。唯は子供を可愛いとは思えない。唯がまだおしっこをすればパンツが濡れるという原理がわからなかったときは確かに友達の妹、弟が可愛くて仕方がなかったのに、今では嫌寄りの無味乾燥をゆっくりと推移している。生理が来てないせいだろうか。女性の身体になり切れていないからだろうか。生理とは、子供だけでなく、女それ以前の人間らしい感情すらも連れてくるような気がしてならない。見れば、更年期の母は春の室内だというのに、汗ばんでいる。電灯が点滅したが、夕日の差し込みで唯以外誰も気が付かなかった。もったいないからいっそのこと真上のまん丸いLEDを消してしまいたかった。
「ねえ、ゆいちゃんも抱いてみる?」
ソファに座った義理の姉から降ってきた。唯は手足を絞るようにねじってシャイに努める。
「抱っこしたことないんで……」
「ほうら、今のうちっ。はい」
兄から義姉に素早く赤ん坊が移り、準備のできていない腕の中に温かい布が収まる。顔だけが見えている。学校の前で餌を探す子猿にしか見えない。人間と猿が近いというのがよくわかる。食べ物を奪う害獣に可愛いという感情は浮かばない。
「お前さあ、彼氏いんの」
父と同じ医者になってずいぶん前に家を出た兄。家の階段から突き落とされたのが最後だ。両親は唯が悪いと結論付けた。
「女子校だよ。いるわけない」
「じゃあ、彼女は?なんちゃって」
掠れた笑い声とバイクの通過音が重なって和音となり、耳鳴りを引き起こした。耳垢を詰めたいような気分の中でそっと、いないよ彼氏はと答えた。腕に神経が通わなくなってきて義姉に赤ん坊を突っ返す。
「でもいくらでもできるよ。若いし」
「そうそう心配しなくとも」
心配などしていない。そう言うとなれば兄は被せてこう言うだろう。ほらまたヒステリックになる。これだから女は感情的でいけないな。理論的にいこうよと。
唯は少し血の被っている赤ん坊の口を兄が塞いだりしませんように。もちろん逆もと願わないでいられなかった。
学校の裏に捨てられた胎児が生きていれば、兄の娘と同学年になるはずだった。逆に立ったらどんなに良かったかと思いそうになってやめた。兄の娘に死んでほしいわけではない。だけれども、唯は間違いなく良い叔母にはならないだろう。兄の娘はただの兄の娘という記号でしかなく、愛情を注ぐ気にはなれない。唯は冷たいだろうか。それでもいい。傷つけるよりかは。遺棄した胎児の母親も同じ気持であったに違いない。もしくは、降ろす金がなかったか。小学一年で授業参観中に疑似セックスに勤しんでしまったときには予想もつかない未来になっている。まさか子供を産むことがこんなにハードモードになっているなんて聞いてない。
唯は自分の家なのに、居づらくなってコンビニに行ってくると言い残して出てきた。裏地の破れた手提げから日焼け止めを出して腕にうにょんとみみずのように出した。掌で伸ばしていく。無香料の化学品の臭いが汗と混ざる。
蛹の背が割れて、中から蜂が出てきた。蛹の中に入っていたはずの毛虫はとうに食い尽くされて蜂が怒りの羽音を立てながら虫かごの中を飛び回っている。アシナガスズメバチかもしれないと誰からともなく言い始めた。それでは刺されたら生命の危機ではないか。おろおろし始める。誰もやりたがらない。無責任だ。
よく晴れた春の一日だった。唯はそのたれこめるコーラル系の陽だまりが苦手だった。小学生のときに山の杉から大量に大気に舞い散る花粉を見たからだろうか。そんなものは後付けに過ぎないような気もする。唯は捨てられた幼児が気になって仕方なかった。きっと中村らにしてみれば鼻で笑われるようなことも、唯は大げさに救うような気持ちで可哀想と言ってあげたかった。中学生はあり得ないから高校生の誰かが母親なんじゃないかという噂がたちまち広がった。それならばなぜ見つかりやすい学校の敷地内なんかで赤ちゃんを捨てたのだろうか。ひっそりと川に流したり、もっと自分とは関係のない山に捨ててしまえば発見から時間が稼げたはずなのに。そんなことを考えてももう遅い。もう赤ちゃんは見つかって、絶賛疑いをかけられている。誰も犯人を、母親を見つけたいわけではもちろんないだろう。その背景にある捨てた経緯を知りたいという好奇心が倫理観を曇らせるのだ。
森へ入るには広大な中庭を突っ切らなくてはならない。その前に中庭へと出る道がどこにあるのか知らないことに気がついた。国宝文化財が我が校の売りだと伝え聞いてはいたが、今や幼児が敷地内で遺棄されたほうが注目を集めてしまっている。街を見下ろして六十年余り。校舎の横に新しく建てられた合宿所の横を抜けて初めて中庭に出た。校舎の古さに比べ、手入れが行き届いている。低木が丸く刈り取られ、敷かれた青い芝生が足裏をくすぐる。来賓がいつ来ても恥ずかしくないように、整備が行き届いている。宗教画の題材に好まれた楽園やドラマのセットのような景色に金持ちの自己顕示欲を感じずにはいられない。その中で唯の姪と同じ年に生まれた赤ちゃんが死んでいた。青い風が顔に吹きつける。山の上を厚い雲が覆っている。盆地だから山を超えれば均一に春の雨が大地に降り注がれるだろう。しばらく太陽を見ていないせいでビタミンDが生成できずに骨が軋む。唯はただでさえ生理が無くて将来、骨粗鬆症になるリスクが高い。帰りにビタミン剤を薬局で買うべく、スマホにビタミンと手早く打って通知設定した。視界が狭くなっている中、距離のある位置から音がした。猿かと思って顔をあげると、人影が見えた。丁度唯の教室のある三階が見える崖の上。そこにおじさんが佇み、教室をしばらく覗いて森の奥へと消えていった。唯は慌てて森へ入り、おじさんのいた位置を目指して上っていく。ローファーの溝に石が挟まり、歩き方が左右不均衡になる。骨盤が傾くのを感じながら、おじさんの大きく伸びた影のような、実際は木の陰のような根っこを辿りながら小屋を目指す。気をつけないと小枝を踏んで存在を知られるというベタな展開になりそうで、恥ずかしかった。小屋の前まできて異変に気づいた。臭いのだ。臭気が垂れこめている。 葉脈から発憤された新鮮な湿度の中に、刺激臭が紛れている。その一帯の草が踏みつけられ、人間の跡が見える。自分が探偵になったような気持ちで、もっとひどいものが見たいような気持ちになってくる。中村を歩道橋から突き落としたい幼すぎる自分の欲求が少し形を変え、唯に歩を進ませる。家があった。教室からは傾斜が邪魔で見えなかったところに丁度経った。粗末な住処から臭いがしていた。獣臭と糞ともっと強烈な何か。思わず右の人差し指を鼻に押し当てたが、それでもえずいた。必死に声を押し殺した。教室内を睨んでいたおじさんが片手に犬を持つ。手荒くするので、犬が縮こまる。犬はすっかり肋骨が出て、毛並みがめちゃくちゃなその犬をどうするのかと思ったら、軒先で怯え切った犬にあてがい、交尾をするように促した。すっかり細くなった二匹の犬が噛みつきも吠えもせずに力もなく地面にへたりこむ。おじさんは尻をひどく叩き、どうしても交尾をさせたがった。唯は首をすくめ、スマホを構えたが、そうしたところで、どこの誰にその映像をつきだせばいいのかわからなかった。犬が特別好きというわけでもないのに、そのときばかりは可哀想で、下がる眉毛の感覚からしても唯は悲しかった。おじさんは小屋からどんどん犬を出してきて粗末なゲージに放り込んでいく。一様にさせ細り、毛が生えずに剥げている犬までいた。ここはなんなのか。唯は怖くなって校舎に戻ろうとして、盛大に物音を立ててしまい、おじさんと目が合った。
「おい、」
おじさんは走り寄ってきて、唯の身体をいずれか掴もうと手を伸ばしてくる。それを不安定な地盤で完全によけきれずに至近距離でおじさんの顔と対面する形になった。
「ここでなにしてるんや」
「なにも。迷った」
嘘を吐くんちゃうわ、と唾が飛んでくる。語尾が大きく、耳が一瞬聞こえなくなった。
「スマホ出せや。撮ったんやろ」
「撮ってない」
正確には撮ろうとして撮れなかった。
「ええから出せや。怖い目に遭ってもええんか」
「いいのかな。そんな態度で。これがバレたら、捕まるんでしょ」
「脅すんかワレ」
臭い息が降りかかる。奥歯にゴミが挟まった臭い。
冷静に。声が震えないように。胸を張って。
「スマホでばっちり一部始終撮りました。警察に出します」
男は頭をかきむしった手で唯を追い払い、犬二匹の尻のあたりを凝視してにやっと笑った。汗が背中を流れる。
「犬、交尾させてましたよね。痩せてるのに。去勢させてあげないんですか」
「おじさんねぇ、お金ないんだよ」
男は小汚いが、土地代が高すぎて売られることの多いこの地域で森とは言え、土地を持っている時点でかなりお金を持っていると見た。
唯は安全圏内である距離感を保ちながら、鼻にしわが寄らないように息をした。
とにかく犯罪は犯罪だ。でも、男を捕まえるのは何かもったいない気がして、その場は男から逃げることに専念した。おじさんは猿のようには追ってこなかった。唯はおじさんをいつか使えるリストに刻み込んだ。
唯は公衆トイレに忍び込んだ。公衆の物なのだから別に許可制ではないのだけれど、電気のついていない汚いトイレに入るのは気が引けるので、半ば盗みにでも入るような足取りで奥へと進んだ。まずは繁華街に一つ。ご自由にどうぞとルーズリーフにマジックペンで太目に書いた紙を貼った薄型ナプキンを一番目に入りやすい手洗い場に置いた。若い貧困女性が役立ててくれることを切に願う。二〇一一年の東日本大震災では、生理用ナプキンの供給が他の物資に比べて足らなかったというから、いつ緊急事態が発生してもナプキンを活用してもらえたら嬉しい。唯は入ったときよりも足取りが軽かった。生理のない女は、その人権をナプキンの買えない皆様に託します。どうかお元気で。
トイレに出て、広場をしばらく歩くと駅の前で露出度の高い女性がスマホをいじるでもなく立っている。というか、ひしめき合っている。圧巻とも、異常とも言えるその情景に女の唯が驚くのだから、男子高校生などからしたら引いてしまうのではないかと思った。その中の一人が駅から出てきてすぐのずんぐりむっくりしたスーツの男に声をかけられて並列で歩いていった。後ろからしばし眺めていると、今度は手を繋いだ。知り合いと待ち合わせスポットだったのかと駅から離れようとして、横を通りかかると、男が視界の外からぬっと現れて、何円と訊かれた。続けて制服ならこれ上乗せとピースサインをされた。唯は知識がないながらも勘違いされているのがわかって、駅の改札前まで全力疾走した。男の顔は見なかった。なにせピースサインが強烈すぎて。振り向いたら男は別の女性とペアをすでに作ることに成功していた。早すぎる。唯は売春する女に間違われたのだ。制服がコスプレっぽく見えたのかもしれない。まさか現役がこんなところにいるとは思わなかったのだろう。大人の痛い人に見られたことが何よりも恥ずかしかった。唯って痛い人っぽい顔なんだ。同い年に竹内ちゃんってこうだよねと心理分析を受けるよりもはるかに冷静にシビアに審査されている。大人って厳しいと思った。
「あなたたちはもう子供ではありません」と言った教頭を思い出す。大人なのであれば、責任は唯たちにあるはずですよね?好きにさせてもらえませんか。と言おうものならそこは子ども扱いをするのだろう。典型的なダブルバインドが左右から迫りくる双璧のように感じられる。一度しか見えなかったけれど、あれは確かに顔見知りだった。男と連れ合っていた女はクラスメイトの中村だった。
中村のような女がデフォルメされた看板が電車の外をいくつも飛ばされていく。QRコードが線路に向けられているが、通常速度では読み取れず、徐行運転になる悪天候では濡れた窓に遮られてどちらにしても難しい。かろうじて読めた「桃 完熟娘」の文字を検索エンジンにかけた。風俗の予約ページがいくつもヒットした。首を回す。運よく盗み見するおじさんおばさんはいない。画像ページに飛ぶと、センシティブ(その言葉ももうすっかり馴染んでしまっていて、SNSとエロの結びつきが憎い。)であるためにモザイクだけが並び、何だかわからない。女が売られている。唯ももう少しで売れる歳になる。中山が言っていた特定少年の問題よりも、そちらのほうが唯には身近に感じられた。もちろん悪い意味で。美男美女だらけのスタバで買った新商品の抹茶の氷が手の体温で溶けてクリームと混ざる。まずくなっていく飲み物がこれからの唯たちをよく表しているよう。だからJKはスタバが大好きだ。有名唯立小学校が最寄りの駅で一人、満員電車にランドセルをねじ込んでくる少年を疎ましく思う。そうだった。唯も小学校のときは強引で、デリカシーや配慮がなかった。だからといって、大人の腰を突き飛ばしていいわけないけど。ドアの前まで追いやられ、発車ベルに怯えながらひゅっと毛足を引っ込める。緩んだ隙に小学生にいいポジションを取られて、端へ端へと追いやられる。小学生がつと顔を上げて噴き出した。
「うんこだうんこ!一本大糞だ!」
声変わり前の甲高い声が耳をつんざく。あからさまに周囲が嫌な顔をして一瞬にして全体のストレス指数が急上昇した。やってくれたなクソガキよ。唯は首根っこを掴むのをぐっと堪え、うんこと同じ音量でチョコレートと言え、と凄む。小学生は唯の頭を見上げて、けたたましい火災報知機のような嬌声を上げた。思わずのけ反って男性の肩甲骨に寄りかかる。ゆっくりと見放される。ショックだった。唯のほうが余裕がないみたい。だだをこねて、言ったもん負け。路線を使うたびに思い出すだろう。小学生を今頃睨んでももう遅い。唯はうんこJKに決定した。
脛まであるスカートを階段下から吹き上げる風がふんわりと持ち上げる。適当に位置を決めたために、上りの波に逆らうことになる。脂ぎって焦げた鮭の肩に肩がぶつかって、目が合う。そのたびにうんこうんこと言われているようだった。
マリアのお膝元で唯たちはうんこ色またはゴキブリ色を身にまとわなくてはならないのだろう。夏は通気性がなく、冬は越せそうにない不便な制服をいつまで残しておく気だろうか。マリア様のお膝元とも言えるこの学校では、ゴリラと猿がうんこを身体に塗りたくって生活している。そんな風に言われてるも同然なのだ。唯はすかすかのリュックの持ち手を握りしめた。その中身も唯にとってはかなぐり捨てたいものだった。体育Ⅰで着るのが義務付けられているマリアブルーのレオタードしか入っていない。整列を余儀なくされて、渋々古めかしいダンスに付き合う。レオタードを忘れた日は授業の参加は許されず、点数がつかない。いつもは大人しい遠藤ちゃんがその日たまたま忘れたのを担当教師に見つかったのは本鈴が鳴った後だった。どうして忘れたのかをみんなの前で白状させられるが、遠藤ちゃんはあ、あ、あ、あ、と数回続けたあと、口を閉ざしてしまった。焦れた教師があ、じゃわからないでしょうと不機嫌になった。その言い方では余計に声が出なくなる。案の定無音ができた。授業開始に毎時間する黙とうよりも静かになった。黙とうの前に遠藤ちゃんに喋るように迫ればいいのではないかと思った。しばらくして何も言っていないのに開放され、遠藤ちゃんは唯の真隣りに最後のピースのようにぴたりとはまった。教師は彼女に列から外れて今日は見学するようにと告げて授業は始まった。胸糞悪く始まってしまうと、ずっと嫌なものがさらに嫌になってきて、レオタードを突き破るように膨らんだ胸が痒くなってきた。遠藤ちゃんの方を見やると、流れ出た鼻水を手の甲で拭っていた。大きな一枚鏡に反射した光が巡り巡って遠藤ちゃんを貫く。唯たちの視線よりは柔らかい光線を遠藤ちゃんはものともせずにまだ黙っている。終わってから遠藤ちゃんに駆け寄った。
「あそこで黙っちゃだめだよ。答えなきゃ」
遠藤ちゃんはまたもや何も発さずに今度はにたにたと笑い始めた。歯垢の詰まったがたがたの歯が臭気を放つ。骨と皮だけの指をすっすっと伸ばしてうねってほどけない細い毛束をかきわけて唯を見据えた。
「ねぇなんか言ってよ。言わないとわからないよ」
声音が耳に入って来て、初めて自分がいらついているとわかった。唯は自分が弁が立つとは思ったこともないけれど、積極的に発言しようと努力している自覚はある。そしてそれをないがしろにしている人間は無視されて当然だとも思う。
「喋らないと評価ちょっと甘くしてもらうのもできないよ。それでもいいの」
遠藤は横を向いたり下を向いたりかと思えば、唯の目の向こう側が透けて見えているような目の伺い方をした。怠惰で話さないようにしているわけではないのはわかっているのだが、首の振る向きでイェスノーぐらい示してほしい。もうじき次のチャイムが鳴りそうだ。
「私のこと、嫌い?」
「うん」
魔がさして訊いたことをいとも簡単に答えた彼女は廊下に出ていった。黙るということは唯にとっては恥だ。恥じたときが黙るときだ。それはまさに今。このとき。
どれだけ恥ずかしく、怒るべきだとしても、道すがら制服ごと誹謗中傷してくる不届き者をその場で糾弾することはいくら唯でもできない。感嘆符を一つ心の中でつけることはできるが、やめてという三文字すら浮かばない。唯だってそのような脳内と他人に見せる顔の齟齬が生じる時があるから遠藤の気持ちはわかるつもりだ。だからこそ腹が立つ。嫌いとは何事だ。それを理由にろくに答えないとは何事だ。黙るほうが勝つ。そのことに気づいた唯は最初から負けていたことに一人、泣きそうなまま、また一人になってしまった。
制服に着替えるとなると、やはりうんこと思ってしまう。着ている本人が思うのだから、傍から見て思わないわけないだろう。我が校と名前だけは肩を並べる女子高はよくあるセーラー服で、可愛いと言う理由で受験生を数多く獲得している。我が校が制服で受験生を獲得するなんて夢のまた夢なのに。ゴキブリうんこと中身も見ないで決めつけるのはよくない。唯は中身を見てもらえればすごくいい女に思ってもらえると思う。少女漫画でよくある性格を評価されてみんなの憧れの男の子と付き合える女の子のように。少女漫画の女の子の性格と相手役の男の子のルックスは高確率でトレードされて付き合うことになる。女の子は等身大で、男の子は手の届かない高嶺の花。読者の願望をあからさまに反映しつつロマンスが遂行される。しかし、その性格とルックスのトレードは男性社会を逆転させて紙に映されたに過ぎない。現に、美女と野獣カップルは頻繁に出現するけれど、イケメンがブサイクな女性を選ぶことなんて無いに等しい。男性は力があるから、わざわざ弱者の女性からさらなる弱者女性を選ぶなんてことはしないのだ。この現実があってもなお、少女漫画は女性の憧れ。男尊女卑なんて無いなんて言ってしまえるのか。悔しい。唯は少女漫画の中でしか、みんながうらやむような男性に選んでもらえない。性格がいいばっかりに。
塾で久しぶりに自習をしていると、あの家に行ったチューターの男が隣りに陣取ってきて唯はじりりと横に身をよじって距離を取った。
「どうしたの。もしかしてこの前の気にしてる?」
塾での先生と生徒の会話ではない。すっかり男は唯の男の顔をしている。それにいらついた。努めてやさしく「どうしたんですか」と訊いてやる。
「いや、会ってなかったから。どうしてたのかなと思って。気になってたんだよ。ねえ、ネトフリを意を決して契約したからさ見ない」
「んー、ふふふ」
はいともいいえとも言ってはいけない、こういうときは。おかしくもないのに笑ってみる。それでもやはり唯は男の前だからか、ロマンスの前の女子っぽく振舞っている気がする。もう遺伝子に染み込んでいて取れない。
「前、制服着てたっけ」
タイムリーに制服の話が出てドキッとした。もちろん嫌な方の。唯は首を直角に曲げて、大きな胸から下の太もも辺りをじっと見つめた。大糞が眼前に広がっている。それを恥じてさらなる笑いを誘う。男は不思議そうにしている。
「ねえ、来ないって訊いてるんだよ。今日制服でさ。せっかくだし」
何がせっかくなんだか。それはお前の都合だろう。たかがチューターに都合がいいと思われているのが癪だ。
「そういえばなんで今の高校選んだの」
「勉強しなかったからです」
その解答が気に入ったようで宿題のプリントが半面終わるまで、開放してもらえなかった。気持ち悪い時間が過ぎて、うちの高校と双璧と呼ばれている高校の制服姿の女子が数人かけよってきて、チューターとの仲を訊かれた。
「なんでもないよ。ただ面白がられてただけ」
「うそだー。前に一緒に帰って他の見たよ」
「喋りかけられたタイミングだったんだよ。たぶん」
唯の言うことではなく、自分の見たことだけを信じている様子で、したり顔だ。彼女たちは正しい。唯と男はキスした仲だ。ただし、それ以上でもそれ以下でもない。納得がいかない女子たちを押しのけて下駄箱で靴を履いた。自動ドアが閉まりかけたその瞬間に「なにあのうんこ」と言われたのを聞き逃さなかった。唯がうんこならばお前たちはそれにたかる蝿だと思った。
家に帰ってきて、指定の白ソックスの親指部分が破れていることに気づいた。この前、学校で靴を履き替える瞬間に気づいた同じクラスの佐々木ちゃんがおはよう靴下、ラッキーと言っているのが偶然耳に入って来て、うっざ、きっもと声を上げそうになった。唯もおはよう靴下とポジティブ変換できればいいものを、無感情にソックスを捨てて、買い置きのソックスを新しく無感情に降ろした。学校の購買でしか売っていないそれはすぐに破れてしまう。最短二週間というところか。ハードな体育の授業をやった日は悲惨だ。靴の中でその箇所が蒸れるほど大きく穴が開く。学校の購買を唯は信用していない。料金が一律、市販の一,五倍から二倍の値段設定なのに、すべからく脆弱である。もしや、金儲けのためにわざとすぐに壊れる物を売っているのではと疑うほどだ。校内をあまり歩かない丸山ですらも上靴の横が大口を開けてソックスの小指が覗いている。可愛くもない制服にどうしてここまで苦労させられなくちゃいけないのか。可愛ければいいってもんじゃないけど、どこかに許せる箇所が一つぐらいあってもいいんじゃないのか。なんだようんこって。なんだよ機能性が悪いって。なんだよすぐに壊れるって。こんなのもういじめられているとしか思えない。唯は破けそうで破けないぺらぺらの制服を脱ぎ捨てた。
サンドイッチを縦向きで食べた。具が横からはみ出さないように縦ならば口内に納まるだろうと予期して噛んだ。ブルーベリーの皮が歯の間に挟まる。電車内で座って食べると罪悪感で居心地が悪く、正面の同年代の女の子と目が合うのが気まずい。きっとこんなところ見つかったら中村に叱られると思ったが、唯は甘い物で自分を慰めている最中なのだから、他人の目なんて気にしなくていいのだと開き直った。ためらい傷のようにきつい中村の言をクリームチーズと混ぜて転がす。私はなぜカツサンドとかがっつりしたものじゃなくて、ブルーベリーサンドという甘ったるいものをチョイスしてしまったのか。電車に広がる肉の臭いを抑えたかったのと、制服ブランドに押し負けた。それらを冷えた棚の前で迷わずに判断して商品を手に取れたのは唯がすっかり社会に馴染んでいるという何よりの証拠だった。頭の悪い人間になりきれない自分にむかつき、よく噛まずに水でカロリーの塊を押し流した。唯は電車での痴漢に遭ったことがない。路上ではある。どちらにせよむかつくけれど、電車は逃げ場がなくて、卑劣だと思う。と同時に、唯は自分がなぜ痴漢に遭わないのかと考えてどうしても自分の制服姿が魅力的でないからという結論に着地する。そんなわけはないのに。されたいわけではないのに、される人は魅力があるのだ、と考えてしまう。とっても、男性目線で客体化しきった考えが染み付いてる自分にびっくりする。でも、痴漢と性暴力は反対。犯罪だから。
唯は毎朝痴漢に遭う女性のために電車内に監視カメラを取り付けるための募金を始めた。被害女性は多いのだから、すぐに集まるだろうと思われた。目標金額はとりあえず百万。二〇台ほど購入できる計算だ。もちろん多ければ多いほどいい。初めは一人だ。一人で下田と同じくきりきりと声を張り上げた。道行く人に声がけしている唯の腿裏を街路樹の葉先がかすめていらつき、人を寄りつけなくする。吸い殻を拾う老人にどけとあからさまに言われて、私ばっかりと思った。何が私ばっかりなのだろう。文句を言われるのが?それとも、割を食っているとでも言うのだろうか。あっさりと私立に行かせてもらった自分が。客が百貨店の重い扉から数人出てきて、冷たい微風が肌の寸先を掠めたが、すぐに熱気にやられた。誰も見向きもしない。うんこ色の制服を着ていることをネックに思っているときは顔まで品評を始めるのに、見て欲しいときに見てくれない。唯はいっそ服を脱いで注目を集めようかと思った。エロは誰でも目を引く。女たちが背負った宿命のように性産業でもないアイドルなどが簡単に水着姿になる気持ちが今なら痛いほどわかる。
「これはどういう目的でやってらっしゃるの」
ブランドの大袋を持ったマダムが至近距離で話しかけてきた。待ち合わせている間の暇つぶしでも嬉しかった。
「あの、電車の痴漢を少しでも防止したくて、それで、あの・・・・・・そのためには天井に、視覚にカメラがいるんです。それを置くためのお金を集めてまして」
「偉いのね。授業かしら」
「いえ、個人で」
「あらー」
それっきりマダムはむっつりと押し黙った。上品な人ほど無償で施しをするものだとばかり思っていたが、違ったようだ。不況を感じる。
唯はあまりの暑さにそれから一時間ほどで街頭に立つのを切り上げてしまった。もう少し根性があると思っていたが、それは思い込みだったらしい。主張を理解してもらってなおかつお金を募るというのは簡単ではないのだと思い知らされた。その日はまっすぐ家に帰って、他に登りなどが用意できないか検索をかけてみたけれど、やはり一人だけでは厳しそうだった。下田か七野を駆り出すか。でも、こういったことに駆り出すにはまず二人の義憤の部分をくすぐらないといけない気がして、考えただけで気が遠くなった。元々唯は面倒くさがりなのに、なぜ募金など最も面倒なことをやっているのだろうかと思ったが、完全に丸山の言う下田との同類具合から早く抜け出したかったからだ。ここで下田たちを加えるとまたにてきてしまう。いや、全く似てはいないのだけれど、唯は唯だけのできること、その中でも一番いい人に見えることをやり遂げたかった。それが、募金なのだった。
「ボキン?」
中村に募金の話を持ちかけると、予想通りすぎるしかめっ面をされてかえって拍子抜けだった。笑えば怖いのに。
「そう。恵まれない女性を助けるための。中村ちゃんならやるよね」
疑問形だが、拒否権はない。中村の弱みは握っている。
「人のためにやることだよ。中村ちゃんならやってくれると思って持ちかけてるの。この前、スーツのおじさんを助けてた中村ちゃんならやるよね」
中村は何も言わない。だが明らかに唯と瞳孔を突き合わす時間が長い。
「おじさんと腕を組んでどこ行ったの?」
「……見たの?」
「写真も撮ったよ。後ろ姿だったけど」
それは嘘だった。携帯を構えたときには中村はそこにいなかった。
「私をどうしたいわけ」
「手伝ってほしいことがあるの」
中村はにまにまする唯の制服に収まったスマホを取り上げた。
「そこにデータはないよ。家のパソコンに移してある」
中村はかんかんに怒って唯のスマホを胸元に投げつけた。痛かった。
「私の言うことを訊いたらデータは全部渡す」
「従わなければ?」
「ばらまく」
中村は学がない。すぐに信じ込んで従うと約束した。
それ以降の募金活動は中村を実際に携えた。なんで私がと睨まれるたびに写真を学校に送りつけると無い証拠を突きつけた。最初は吠えてうるさかったが、次第に本当に唯の言うことを訊くようになった。人の興味を引きつけるたまにコンドームを配ってから募金を募ったが、寄ってきたのは冷やかしだけで、さらに煙たがられた。学校への苦情も増えた。ナプキンとコンドームを無料費阿付するために貯金やお小遣いを二人で切り崩していたがそれも限界を迎え、金持ちの七野を引き込んだ。自然と唯を慕いだした下田も加わって四人で募金お願いします、と駅前や繁華街で声を上げるようになっていた。
目的は金じゃない。人助けだというのが夏休み中ずっと募金活動をした唯たちの口癖になっていた。
二学期に入って最初の完全授業のはずが、午後の授業が急に自習になり、一人一人別室に呼び出すと担任から説明を受けた。唯のクラスは反応が鈍かったが、隣のクラスのざわつきによってこれがかなりの異例であることを知った。もう聖書を読んだり、ミサがあることには驚かないぞと思ったが、物々しい雰囲気に何度も胸が冷たくなった。出席番号の早い順に呼ばれて終わった子は用意されたプリントに取り組んで何も言わなかった。残された者の想像力ばかりが掻き立てられた。中盤に唯が呼ばれたとき誰も静寂を守っていなかった。
普段はあまり使わない教室の中央の机が四つくっつけてあり、小窓から覗いた時点で青い制服が見えた。
「すみません。私も同席させてください」
手早く名乗った女性は警官の制服を学校の椅子と机に無理やり納めていて、真新しい景色が広がっていた。
「なにか悩み事とかないかな。些細なことでもいいんだけど」
「ないです」
強いて言えば、ナプキン配りが難航していることですかねとは言えなかった。
「じゃあ、悩んでる子とかはいるかな?」
「……みんな色々悩んでると思います」
下田の言い方が自然と出た。なんだか唯まできりきりしてきたような気がした。
「嫌なら答えなくてもいいんだけど、交際相手はいる?」
「いません」
「じゃあ、そういう相手が現在いたり、過去にいたことは?」
「ないですね」
そうとだけ言って、教室に戻された。下腹部に刺すような痛みを感じた。排卵日痛だ。パンツがいつもより履き心地が悪い。
何の時間だったのかよくわからないで戻るとあまりの速さにどよめいた。「何も聞かれてないの?」
「聞かれたよ。多分あれだよね」
音が均一に消えて誰かの体重で床が軋む音が響いた。
「……ねえ、私たちもしかして疑われてる?」
誰ともなく発したその言葉が重く垂れ込めた。
「そんなわけない。誰かもうわかってんでしょ。さすがに」
「でも・・・・・・」
下田は悲しいような怒っているような複雑な表情をした。
「この制服じゃぱっと見わからない」
「いやわかる・・・・・・」
「じゃあなに、妊婦になってこの制服着たことあるの?」
下田は手がつけられず、その場の全員がなぜか怒りだした。
大人は自分たちを疑っている。そうだ。そうに違いない。唯たちは怒りでぱんぱんになった身体を振り乱し、教師の車からガソリンを盗んで石油ストーブ用のポリタンクに詰めた。それから各自、カッターやはさみ、痴漢撃退用の小型の包丁まで取り出して校舎の裏手にある横井の家へと向かった。
下手な咆哮をしながら下田、中村、七野、そして唯の四人で横井の家に土足で上がり込んだ。横井はなんやなんやと大声を出したが、唯たちがポリタンクと刃物をいくつか持っているのを見て、声を上げられなくなった。
「これからここを拠点に、活動をしていくことにする。といっても、掃除をしてからだけど」
「なんでや。どうしてそうなるねん」
「横井。お前は元から犯罪者だろ。私たちに協力しろ」
横井は色をなくして垢まみれの布団の上で横になったまま唯たちを虚ろに見上げた。でっぷりと脂肪をため込んだ腹を横目にあばらの浮いた猫を一匹なでた。少量ゴミが入ったビニール袋から蠅が数匹飛び上がった。
「これから立てこもるから。警察に電話して」
「いっみわからん。ヘッ!?」
「早くしろ」
中村に差し出されたスマホ画面に一一〇を打ち込んでもなお、状況が飲み込めない様子で頭をかく横井の髪から大粒のふけがこぼれ落ちてゴミに降り積もった。唯以外は顔を背けた。横井は凶器を持った女子高生三人組が自宅を占拠した旨を伝えてすぐに電話が切れた。警察が来るのも時間の問題。唯はあまりに思い通りに行くので、こわばった頬を無理に手で上に押し上げて「わははは」と声を出した。
「お金はないでッ」
「金目当てでここには来ないよ誰も」
「ほんならなんでや。言うてみいや」
「言わない」
唯は警察のサイレンがつんざくようになるまでカッターの刃をむき出しにはしなかった。無駄な傷は作りたくはない。もう目的がなんなのかよくわかっていないが、唯は正義のために動いている。それだけは確かだった。下田と中村と七野は何がしたいのかわからなかった。元々、主体性のない人たちだから今は全部唯のせいになるのだ。事実、手紙のコピーをばら撒いたのは唯だった。
拡声器のハウリングが響いた。
「こちらは警察が包囲している。繰り返す・・・・・・」
過敏な下田が耳を塞いだ。唯は横井に包丁をつきつけながら、叫んだ。
「私たちの高校でー!!子供を産んだのは誰だー!!!!!私たちは罪もないのに疑われたんだ!!!犯人が名乗り出ない限りこいつを殺す!!」
横井は小さい背中を縮こまらせた。小便もしているかもしれない。
警察は渋っているようで返事がない。
「よし、一人ずつ殺す!!!」
唯はその場にいる全員に順番に刃物を向けた。
「私が!子供の母親です!」
スピーカーから声が拡散されてノイズとハウリングがけたたましく響いた。
「英語担当の東です」
その声に英語を教わっていた面々が一斉に声のする方を振り向いた。
「私が産んで……」
声が途切れたことで全員が耳を傾けた。次に、うわずった声が届く。
「捨てました……」
東の弱弱しい声を初めて聞いた。教師ではなく母親の声だった。血縁関係を確かめなくとも、間違いなく母親だった。
「ごめんなさい……。あなたたちがあれほどまでに疑われたのは、私のせいなの……。赴任前に、妊婦だと困ると校長から言われて……頭が真っ白になって……ごめんなさい。ごめんなさい」
「それで!!あなたは、子供の父親は誰なの!?!?」
「そうだ!!父親も出せ!!!!」
小屋の周りを取り囲む警察の群に投げかけた声により、東のぼんやりとしたシルエットが小さくくずおれるのが見えた。
「わからない……。そのとき、いろんな人が周りにいて……誰が子供の父親なのか……」
かばうな、と全員で怒鳴った。思うよりも先に声が出た。
「本当よ……信じて……」
東はそれ以上泣いて話すことが困難になった。
「投降しなさい」
唯たちはその一言に興奮しながらガソリンを撒いた。チャッカマンを落とせば事件が終わり、唯たちが望む革命が始まるだろう。
唯たちは誰かに必要とされる人になりたかった。
「佳き日に!」
「佳き日に!」
唯たちは革命を見られなかった。