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山椒大夫(著 森鴎外)を読んで
先日の旅で訪れた佐渡で、地元の方との何気ない会話の中で出てきたこの話。昨晩、ふとそのことを思い出して読みふけった。安寿と厨子王とも言うこの話について、私の読書記録としてここに感じたことを書きたいと思う。
私にも、弟がいる。年の差も、この話に出てくるふたりとほとんど同じである。姉と弟、もしも家族と離れて二人だけで暮らすことになるとしたなら、それも過酷な状況の中で。私は弟がいるといっても年の差があまり無いこともあり、弟、というよりはむしろ、同級生のような感覚の方が強い。だからこそ、私の記憶の中では、これまでに直接、お姉ちゃんと言われたことは無い。このふたりは、姉は姉らしく弟を守り、弟も弟として、姉を尊敬し付いていっている。そして、姉は弟のことを思い、自分の自由、命をなげうってまで、弟の自由を選んだ。それも、わずか14、15才くらいの幼い年齢で、である。私は、自身がそれくらいの年齢の時は、自分のことしか考えていなかったと思う。自分のことで精一杯で、弟のために、とか、弟のことを考えて、何かしてあげたこともないと思う。精神的にも、幼かったのだ。この話の中の姉は、弟を心配させずに弟を励まし、希望を与えて、弟を送り出した。その強さに、思わずはっとさせられた。弟のことを思うその気持ちに、はっとさせられたのだ。
このような場面は、日常の中でも起きてくることだと思う。家族の中での会話や、学校の中で、または、考えたくもない事実だが、震災や事故、そして輸血や臓器移植など。色々な場面で、この姉の強さを当てはめて考えてしまう。今の私は、今の私は、すぐには結論を出せない。その事態が大きければ大きいほど、迷ってしまうのだろうし、その間にも時は経ち事態は良くも悪くも進んでいくのだ。結局、まだ私は、私のことが可愛いのだ。そしてそのことに気づいた時、私は自信の冷たさにはっとさせられるのだ。
親を思う子の気持ち、そして、子を思う親の気持ち。最終的に再開することが出来た時の弟と母のふたりの気持ちは計り知れないし、そこに姉と侍女がいたならと、思いが募る。そもそもこの話は、家族が父に会うために旅に出たことから始まる。だからこそ、どうしても私は、家族について考えさせられてしまう。だけれど、そのことについてここに記すと、きっとこの文章は果てしなく続くだろうから、次のnoteに記そうと思う。
また、この話の中にある、人身売買、奴隷制度は、世界的に見れば未だ事実としてあるのだと思うと、痛みがより強く胸に迫る。時代は進み、年号は変わり、変わりゆく世界の中で、変わらないでいてほしいと思う事は変わっていき、変わってほしいと心から思う事実は、繰り返されているのだ。進化、発展、改革。教科書に記されているそれらの言葉で表される事実はほんの一部分で、氷山の一角なのだと改めて悟った。そして、このちっぽけな自分が出来ることは何なのか、いや、何も出来ないのだと思考を往復し、無力さを感じながらも、出来ることはあると思い、ここにわずかばかりの言葉を振りかざしている。
最近、「信じる」ということについて話題になっていたが、この話の根底にも、信じるということが深くあると思っている。家族、神、自分など、信じる対象は様々で、それはどういうことなのか、私自身も考えてみたいと思った、そう思わせてくれた一冊であった。