24年間の人生を振り返ってみた。
1. 寂しがりな幼少期(小学校入学まで)
2000年2月18日(金)、当時、父と母が34歳、姉(長女)が6歳の中で私が誕生しました。私は、11人の従兄弟の中でも末っ子であり、大人の環境の中で育ち、甘やかされ続けた結果、典型的な末っ子タイプ。名前の「美咲」は、お花のように美しく咲いてほしいという願いが込められています。
私の鮮明な1番古い記憶は、旅行中になまはげに抱かれ、大号泣しているシーン。これは幼稚園時代の5歳頃の思い出です。
幼稚園のお泊まり保育では、母と離れるのを嫌がり、泣き叫び、「やだやだ!」と母や先生を困らせていた記憶があります。
幼稚園では、元気に踊ったり歌ったり、アイディアを作品に、音楽会では1番大きな太鼓を叩いたり、運動会では先頭で行進するなど、人前で自分を表現することが大好きで、この頃から "注目されたいという承認欲求" が強かったと思います。
2. 落ち着きのない小学校の低学年
入学してすぐに自転車の事故に遭い、楽しみにしていた遠足は車椅子での移動。その後も小学5年生の男の子と廊下で激突し、大きなたんこぶができ、大号泣しました。また、固いアイスクリームをかぶりつき、グラグラの乳歯が抜けたり、友達との喧嘩で抜けかけの前歯が取れたりと大号泣する日々が続きました。
母は、いつも我が子が怪我をしないか心配し、
落ち着きがなく危なっかしいと感じていたと思います。
> 当時、夢中になっていたのは一輪車
小学校2年生の頃、学校の一芸オリンピックに参加し、全校生徒の前で一輪車のパフォーマンスを披露しました。友達もたくさんできて、充実した毎日を送っていました。
しかし、お家の都合で3学期から小学校を転校することになりました。それでも、新しい環境にワクワクしており、不安は一切感じませんでした。
> 転校初日
800人ほどの全校生徒の前で、マイクを持ち自己紹介と挨拶をしました。
その瞬間は緊張でいっぱいで、今でも鮮明に覚えています。
先生からの言葉、「みんなカボチャだから緊張しなくて大丈夫!」に励まされ、生徒がカボチャに見えるという比喩に救われ、堂々と話すことができました。
この経験から、"環境や経験が自分を強くさせる" なと実感しました。
新しい小学校でもすぐに打ち解け、通知表の先生からは、「あっという間にクラスの中心的存在になったね。」というコメントをいただきました(笑)
3. グループに違和感を感じる小学校の高学年
高学年に進むにつれて、女子同士のグループ(派閥)形成が目立つようになりました。私は、男女関係なく誰とでも仲良くしたい性格であったため、その状況に違和感を感じるようになりました。
> ある日突然、「はみご」の対象に。
今思えば、はみごにされたのは誰とでも仲良くしたいという私の性格から、仲良しこよしルール(グループ以外との仲良しはダメとされるルール)を破っていたことがありました。また、校則ギリギリのパーマをかけたりと周囲とは異なったことで悪い目立ち方をしていたかと。さらに、好きな子の取り合いも動機の一つであった可能性もあります。
この経験から、"他者と同じようであることを嫌う傾向" が強くなった。そのため、グループ行動や他者からの指示に反感を抱くようになり、むしろリーダーシップやまとめ役になりたいという欲求が芽生えたのかもしれません。
> ターニングポイント⑴ 恩師と出逢い、夢をもつ
小学校5、6年生の時、偶然にも同じ先生が担任でした。その先生は新人(大卒の22歳)でしたが、私にとってはお兄ちゃんのような存在でした。体が弱かった私をおんぶして保健室に運んでくれたり、中学受験を控えていた私を励ましてくれる優しい先生でした。先生は常に明るい顔を見せ、生徒たちと真摯に向き合ってくれました。先生自身も日々の葛藤や、高学年のクラスを受け持つプレッシャーがあったことでしょう。(実際、小学校卒業式の日には、先生から苦労話を聞いたことがあります。)
先生の姿勢に感銘を受け、私も子供たちの可能性を高めたいと小学校の先生になることを夢見るようになりました。
今でも定期的に先生に会いに行き、自分の近況を報告しています。
4. 全く勉強に身が入らない中学生
無事に憧れていた私立中学に合格し、可愛い制服を身に着け、満員電車での通学が始まりました。しかし、入学式当日は体調を崩し、出席することができませんでした。さらに、入学式後の3日間のオリエンテーション合宿にも途中参加となり、私が参加した時点では、既に友達のグループ(派閥)が形成されており、自分は完全に出遅れたように感じました。
しかし、持ち前のコミュニケーション能力を活かし、巻き返すことができ、今でも仲良しの友達を作ることができました。特にやりたいこともなかったため、友達と一緒にバスケ部を選びました。練習メニューが厳しく、アップの段階で過呼吸になることがしばしばありました。
一方で、勉強に関しては部活の疲れで真剣に取り組むことが難しく、特に理科と数学に苦戦しました。赤点を取ることもあり、補講で部活の練習に参加できない日もありました。練習の遅れを取り戻そうと努力しましたが、中学1年生の夏に捻挫してしまい、練習に参加できず、コートの外でドリブルの練習をする日々を送りました。その時に、自分の力不足を痛感し惨めでした。
> PDCAが全く機能していない
スタメンを獲得できたのも数回の試合のみ。
今思うと、自身の課題を振り返らず、ただシュート率を高める練習に専念していた。Do はするものの Checkを怠っていたのです。自己成長の機会を見逃してしまったことを反省しています。さらに、テストの補講や怪我で練習に参加できないことも、全て他人の責任に押し付けていた自覚があります。"目標がなく単なる作業としての練習" になってしまっていました。
=== 共通している私のWant to ======
一生懸命に取り組んだことは、
・グループをまとめて、修学旅行など企画&プレゼン
・バスケ部のチームの指揮を高めるため、ベンチからの声掛け
・体育祭の副部長&パフォーマンスの企画
・合唱コンクールのピアノ伴奏
・弁論大会で自分の夢を語る
成功体験は、
・修学旅行のプレゼン大会 入賞
・合唱コンクール 優秀賞獲得、みんなで大号泣(順位は曖昧)
・弁論大会 入賞
共通していることは、
・好きなこと、チャンスを自ら掴んでいる
・相手に楽しんでもらうために、アイディアを形にしていく
・相手がいて巻き込む必要があり、チーム全体への声かけ
・感情や考えを伝え、目の前の人たちに勇気と可能性を渡したい
・順位にこだわっておらず、自分の感情を高めることができているか
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5. 全力で #青春した 高校生
クラス委員、文化祭の屋台、約200人ほどの観客を目の前にダンス、語学研修で初の海外、放課後デート、放課後ユニバ、校則違反で書いた反省文、推し活、苦痛でしかない週末の模試、赤本とシス単が友達の塾こもり生活。
中学時代、部活動に多くの時間を費やしていた私は、高校では運動部への入部を父から禁止されました。未経験ながらダンスサークルに参加し、2年間、放課後は食堂や公園で踊る日々を送りました。勉強が疎かになり、物理という理解しづらい嫌いな科目が始まりました。
しかし、ダンス部は自ら選んだものであり、補講を受けないように最低限のテスト勉強には励みました。自分で決断したことには、勝手にエネルギーが湧き、頑張れることを実感しました。
> 小学校の先生と交わした「夢」「約束」を簡単に諦める
物理が苦手だったため、「国公立(志望校は大阪教育大学)を狙うのは難しい。」と担任の先生からはっきり告げられました。その時の私はただ呆然として立ち尽くすしかありませんでした。自信のない私は、現実から逃げ出し、先生になる夢を簡単に諦めてしまいました。
> ターニングポイント(2) 初めての海外 イギリスで衝撃を受ける
高校2年生の夏、イギリス留学の機会がありました。以前からECCスクールに通っており、英語には少し自信がありました。そのため、現地の高校生との交流会(約200名の学生)で壇上に立ち、英語で挨拶をする機会を得ました。英語の先生を必死に練習をして、壇上からの景色は今でも鮮明に覚えています。
異国の地で感じたことは、会う人が皆フレンドリーで自由な雰囲気だったこと。その心地よさと自分らしさを解放する感覚に触れ、異文化や他国の友人を作りたいという気持ちが強まり、近畿大学国際学部を志望するようになりました。
近大を知ったきっかけは、JR天王寺駅にある1枚の紙の広告でした。
その広告に衝撃を受け、ワクワクした気持ちや心を掴まれた感情は今でも忘れません。
> どん底から這い上がる
近畿大学国際学部を目指しましたが、模試の結果は常に"E判定" ばかり。
クラスの順位も最下位に近く、私は自身の強みを最大限に活かすことを決意しました。英語の単語や文法、そして日本史の一問一答に多くの時間を費やしました。
結果として、センター試験の日本史で9割近い点数を獲得し、自らを"歴女"と称するまでに成長しました(笑)高校3年生の後半にはクラスで1位になり、入試でも日本史で高得点を取り、無事に近畿大学に合格しました。
=== 共通している私の取り扱い書 =====
・自分で掲げた目標は、なんとしてでも叶える
・自分が納得した目標ではないと頑張れない(内発的な動機づけが必要)
・定量的な目標ではなく、より感情や目的に向かってエネルギーが沸く
・細かな計画に嫌気がさし、疲れてしまうので ”どんな自分でいれるか”が鍵
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6. 好きなことを好きなだけ、自由人の大学生活
近畿大学に入学後、厳しい校則から解放され、念願の明るい髪色で学校に登校することができました。また、大好きな焼き鳥屋でのアルバイトも始めました。新しい場所や人との出会い、未知の世界に胸が高まる感覚は、言葉では表せないものですね。
バイト先では、お酒を飲んだことがない私は、酎ハイとハイボールを間違えて提供してしまうなど、右も左も分からない状況でしたが、マスターから愛情を込めた指導を受け、働き始めて半年後には、一人でホールを任せてもらえるまで成長しました。接客は私にとって大好きな仕事の一つで、料理の美味しさはもちろん、接客においても常に期待を超える努力を心掛けていました。
大学1回生の9月からはアメリカ留学が決まっていたので、必死に英語のボキャブラリーや文法を増やし、洋楽を聴きながら学校に通い、iPhoneの言語設定を英語にし、校内外で外国の友人を作り、英語を話す機会を積極的に増やしました。
留学先は、アメリカ全国から希望校を10箇所選び、大学側が選ぶシステムで、カリフォルニアやニューヨークなど、自分が住みたい街を選出し、留学の発表日までワクワクとドキドキの日々でした。そしてついに発表日。私は希望先であったカリフォルニア州のサウザンドオークスに留学することが決まりました。留学直前まで、一生懸命にバイトをし貯金をしました。
> ターニングポイント(3) 2018年9月16日
家族に別れを告げ、関空を飛び立ち、10時間のフライト。
紫外線が強いカリフォルニアに到着し、大きなバスがお迎え。車内の冷房は強く、寒かった記憶があります。LA LA LANDに出てくるようなHighwayをかっ飛ばすバスの速度に恐怖さえ覚え、化粧しながら運転をするアメリカンを横目に語学学校に到着。おもてなしは、もちろんピザに甘い炭酸飲料。「あ、、、すごい世界に来たな。」と洗礼を受けました。
私は、アメリカ人のホストファミリーと住む勇気がなく、寮を選択し、希望に溢れるキャンパスライフがスタートしました。中国人や台湾、サウジアラビア人の友達も多くでき、平日の放課後は、友人と授業の振り返りと宿題に取り組み、夜は校内のカフェテリアでアメリカ人の学生と一緒に夕ご飯。
しかし、ネイティブ若者の話のスピードには到底ついて行くことができず、自分の言いたいことも言えず、伝わらず、自己肯定感が下がっていくのを感じていました。週末は、同じ近大生と憧れていたLAへ。サンタモニカ、ベニスビーチ、Hollywoodエリアには、何度も足を運び、留学を満喫していました。
ただ、留学2ヶ月目にハッと「私はカリフォルニアに遊びに来たのか?」と自問しました。もっと英語のスピーキングスキルを高め、環境にこだわることができるのでは?と。留学費用を支払ってくれた両親に申し訳なさを覚えました。
そこで大きな決断を。
語学学校のスタッフに「私、寮を出てホームステイしたいです!」
私にとって、前進できた日。さあ、もう何も怖くない。留学3ヶ月目にして、ホストファミリーとの新生活がスタートしました。
とにかく、ホストファミリーを同じ空間・時間を共にすることを心がけました。英語がうまく話せなくて悔しいとホストマザーに相談すると、いつも練習に付き合ってくれ、たくさんのアドバイスと愛をくれました。週末になるとホストマザーファザーと車でドライブ。本当の娘のように可愛がってくれました。「人は一人で生きて生きない。頼れば、助けてくれる人がいる。」と温かい家庭を通して学びました。
学校の成績は、ホストファミリーの協力があって右肩上がり。留学で学んだことは、英語スキルや文化だけではなく、
・Yes or Noを明確に伝えないと、相手はわからない
・受け身では、チャンスを掴めない
日本人は紛れもなく、受け身です。
誰かやってくれるだろうと誰か任せは危険です。
初動が遅く、幾度となく授業内での発言のチャンスを逃しました。
ファーストペンギンになると誓った瞬間でもありました。
英語のスピーキングスキルと自己肯定感が高まり、ホストファミリーとの信頼関係も築けた頃に、日本へ帰国。
サンフランシスコの街で漂うマリファナの匂い、夢と希望に満ちたタイムズスクエア、レベルの高いハロウィンの仮装イベント、LA LA LANDのファンにはたまらないグリフィス天文台、眠らない街ラスベガス、そして大自然の壮大なアリゾナ州のグランドキャニオンなど、さまざまな場所で素晴らしい人々との出会いや、乗り越えたさまざまな困難が詰まった8ヶ月の留学は、一生忘れられない貴重な経験となりました。
> 友達の顔を見るなり、安心して大号泣での再会
2019年4月末、無事に日本に帰国しました。
大切な友人や家族が出迎えに来てくれ、周囲の人々の目も気にせずに抱き合い、安堵の涙がこぼれました。親元を離れて経験したことで、家族の大切さを改めて実感し、自分自身が成長できたことに誇りを感じました。
> 夢中になった居酒屋の店員さん
休む間もなく、英語を使用する機会を求めて、新世界の串カツ店でのアルバイトを始めました。「ご馳走様でした。」「ありがとう。」とお客様からの声は、非常に喜びを感じる瞬間でした。
相手を笑顔にしたい、喜ばせたい。新しい情報を共有したい。串カツ店で提供するのは、食事だけでなく、価値のある経験と情報です。
私は常にこのような価値を提供することを心がけてきました。チェーン店であっても、リピートしてくれるお客様を獲得できたことは、小さな成功体験だと思っています。
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この時期から、私は自身のファンを増やしたいと考え始めました。
私に会いに、話を聞きに来てくれる人を増やしたい。私との出会いが、誰かに元気を与え、明日への活力を与えられるような存在でありたいと思っています。この気持ちは、今も変わりません。
7. 幸せから一転、コロナ流行で失った大学生活
常に新しいことに挑戦することを心がけていた私は、地酒を扱うお店でのアルバイトを始めました。接客、簡単な調理・盛り付け、地酒の提供など、学生ながら若女将として、カウンターのお客様12名程度を一人で担当しました。
しかし、2020年2月、新型コロナウイルスが流行し、私の愛する飲食店のアルバイト先が閉店を余儀なくされました。解雇通知が自宅に届いた時、私は非常に悲しい気持ちになりました。
> ターニングポイント(4) コロナが自己と向き合うきっかけに
新型コロナウイルスの影響で、アルバイトを解雇され、友人や当時の彼氏とも会えず、辛い日々が続きました。この経験は多くの方が共感できるものだと思います。大学3回生の6月からは、就職活動も始まるので、時間の余裕がありませんでした。これまでに興味のあることにしか取り組んでこなかった私は、学生時代の実績(ガクチカ)に記載できる内容が何もなく、これまで将来のことを考えたことさえありませんでした。
さらに、ぼんやりと決めていた旅行やエアライン関連の企業は、新型コロナウイルスの影響で採用を停止しており、私の将来について深刻な不安を感じていました。この状況から抜け出すために、自己分析を始め、思い切って有給のインターンシップに参加することを決意しました。これまで経験したことのないテレアポの世界への挑戦でしたが、正直なところ、難しさや厳しさがどの程度かまで分かっていませんでした。
8. テレアポに夢中の大学3回生
ご縁があり、株式会社アッドラストに入社が決定しました。ビジネスでよく使われる「何卒よろしくお願いいたします。」を電話越しのお客様に「なにそつ、よろしくお願いいたします。」このポンコツ度合い。
しかし、そんな私を見捨てず、当時新卒1年目の社員が教育担当として丁寧に指導してくださいました。そのおかげで、ビジネスメールの作成やアポイン獲得率を上げることができ、全国で3位(約250人中)にまで成績を向上させることができました。
また、テレアポ以外の業務では、年下のチームメンバーと共に目標を立てたり、メンターとして役割を果たしました。振り返ってみると、自分が個人で表彰されるよりも、周囲のチームメンバーが成功を収め、喜ぶ姿を見ることが心から嬉しかったです。彼女たちから「アドバイスやフォローのおかげです!」という報告を受けることが何よりも気持ちよかった。
> ターニングポイント(5) 株式会社エックスラボ 3daysインターン
私の就活の軸は、「成長・チャレンジ・社風」。
1枚の広告との出合いで大学を決めた私が、次は広告をつくる側となり、誰かの人生の起点になりたいと就活をスタート。詳しくは、Wantedlyにて。
濃すぎた超実践型の3daysインターンの流れは、
・全体朝礼に参加
・代表から経営理念に対する想いの共有
・マーケティング研修
・インターン中に扱う商品説明
・2.5日間のグループワーク&ミッションに向け販売戦略を考案
・エックスラボメンバーに質問&フィードバック
・最終日に販売戦略をプレゼン&フィードバック
まず、エックスラボの経営理念であるVISION、「挑戦を当たり前に変えていくエクセレント・カンパニーになる」に強く共感しました。この理念は私が大切にしている価値観と非常にマッチしていると感じました。特にVALUESの一つである「Be a Challenger.挑戦者であれ。」は、私の就活の軸と一致しています。人が性格や波長が合う人と一緒にいるのが心地良いように、企業との相性も重要だと感じました。
エックスラボのインターンシップを通じて、若いうちから裁量権が大きく、挑戦を応援してくれる環境で、新しい情報を自ら得て、「挑戦を恐れず、社会へ影響と刺激を与える人財」になりたいと本気で思い、第一志望で就活を進めました。そして、無事に内定をいただくことができました。
振り返ると、就活を楽しんだ人間です。この経営者の元で、このメンバーと働きたい!と思える企業が見つかるまで業界・業種を問わずたくさんの説明会やインターンシップに参加しました。様々な業界を知る時間は “今” しかないと思うとワクワクしませんか。私は、人事の方や経営者の方々とお話をして、自分には持っていない考え方を知ったりとたくさんの刺激を受けました。就活中に人生で初めて真剣に自分と向き合って、自己・他己分析を通して、「自分の強み・弱み」「新しい自分の一面」を知ることができ、面白かったです。自分を知るからそ、企業に対して自分をどう見せれば(自己らしくPRすることがポイント)いいのかが分かっていました。
> 株式会社エックスラボの人事総務部インターン生としてスタート
一歩先に、大学4回生の4月からインターン生として、勤務開始。報連相もタイムマネジメントもできないところから、「同じミスは二度しなければ大丈夫。」と時には厳しく指導していただくことで、社会人に向けた準備ができました。
会社説明会では、内定者として22卒の同学年に向けてコメントを述べました。業務としては、原稿の作成から説明会の企画、集客、運営のサポートまで幅広く関わり、さらに23卒の就活生に対しては、カジュアルな面談を行うなど、様々な経験を積ませていただきました。学生たちが目標を達成できるようにサポートし、彼女らの感情や行動を前進させることに喜びを感じるようになりました。
9. 2022年4月1日、晴れて社会人1年生に
厳しい3ヶ月間の新卒研修が始まりました。飛び込み営業研修では、毎日100件以上の訪問をこなし、体も心も限界に近づきました。その中で、大阪駅の第3ビルのトイレで涙したことは忘れられません。
しかし、一生懸命な姿を応援してくれる人たちがいることを身をもって感じました。ある生命保険会社の営業マンは、私が泣きながら訪問する姿を見て、営業ロープレに付き合ってくれました。その方とは今でも親交があり、大切な存在です。また、新卒研修でMVPを獲得できたことは、自信につながりました。
> 人事評価制度の重要性、熱いチームとの出逢い
広告代理店事業のマーケティング部署への配属を希望していましたが、部署説明会で組織人事コンサルティング事業を提供するOGS事業部に魅力を感じました。日本の中小企業のうち、約半数が評価制度を導入しておらず、社長の感覚で給与が決められている事実に疑問と怒りを感じました。本当に自社のサービスに誇りを持ち、使命感を持って働けるのか、という疑問が心に残りました。救いたい、働く人々の可能性をぶち壊さないでとい想いだったかもしれません。
私は、人事評価制度の重要性を広め、OGSの認知度を高めるきっかけを作り、弊社のメンバーがサポートすることで、働きがいを感じる人を増やしたいと考えるようになり、OGS事業部のマーケティングチームを志望しました。サービスを広く知ってもらうことから始める必要があります。
業務内容としては、
・競合リサーチ
・セミナー企画〜運営
・集客メルマガの作成
・バナー・LP作成
・ホワイトペーパー作成
・SNS発信
・数値分析、改善提案
・お客様インタビュー&記事作成
Excelの関数や文章作成に関して苦手意識を持っていた私に対して、優しく指導してくれた同僚に感謝しています。繰り返すことで、苦手な分野が好きに変わることもあると感じました。また、自らチャンスを掴める環境が社内にあったおかげで、社内最速のプロジェクトマネージャーになることができました。これからも、”挑戦を当たり前にする姿勢”を大切にしていきます。
ただ、社内の会議やPC作業に取り組む日々に、何かしらのモヤモヤを感じることがありました。新卒1年目の頃に、特に印象的でワクワクした業務内容が2つ。1つは、事業部長と共に顧客インタビューの取材に行ったことで、もう1つは、OGS交流会での司会を務めたことです。これらの経験から、私は、多くの人と対話し、新しい情報に触れ、自己を成長させたいのだと気づきました。
> ターニングポイント(6) 人生初めての東京出張、営業の魅力を知る
2023年1月末、当時の上司に同行して東京へ出張しました。
2日間で4都県7アポイントという過密なスケジュールでしたが、私にとっては大きな大きなターニングポイントとなりました。顧客インタビュー取材と商談同席を経験しました。私は、当時マーケティング部門に所属していたので、商談に同席するのは初めてのことでした。驚くほどに、先方とのコミュニケーションがスムーズに行き、課題が明確になると、上司は”相手の心を操る魔術師”のようだと私は感動しました。
この経験から、セールスコンサルタントになりたいという強い思いが湧きました。出張帰りの新幹線では、これからお客様の課題解決に直接関わり、笑顔を見ることが目標だとワクワクでいっぱいでした。
「営業は心が擦り切れるぞ。」
「一度は、人間不信になる。」
「身内にはお勧めしない職業だな。」
「想像の何倍もしんどいと思うけど本当にやるのか?」
「コンサルタントは、体力的にもきついぞ。」
大阪に戻り、部署内で何度も話し合いを重ねた結果、新卒2年目からマーケティングと営業を兼務することになりました。この決断については、社内外から多くのアドバイスを受けましたが、私の性格は自分で決めたことを貫くものです。女性が少ない営業の世界で挑戦したいという思いがありました。
事業部長からいただいた「営業は人生を豊かにする。」という言葉は、私にとって大きな励みとなりました。お客様の気持ちを理解し、ニーズを引き出すことは、日常生活でも必要なスキルだと感じました。営業を始めてから、信頼関係を構築するスキルや傾聴スキルが身についたと思います。これからも「営業は人生を豊かにする。」という言葉をこれからも証明していきます。
10.糸が切れてしまった社会人2年目の11月
半ば強引に反対を押し切り、2023年6月末から営業活動を開始しました。
商談デビューまでの3ヶ月間、そしてコンサルタントデビューまでの4ヶ月間、社内での試練に何度も挑み、悔しさの涙を流すこともありました。
私の原動力は”自分で決めたことを逃げずに成し遂げること”。幾度も商談をするものの失注にさえならないもどかしさ。
> 完全に頑張る方向を間違えていた
営業を始めて5ヶ月が経過しましたが、売り上げがゼロという現実に直面し、自身の存在意義について疑問を感じるようになりました。振り返ってみると、自信やプライドが根拠のない自信が邪魔をして、私の業績を妨げていました。さらに、提供するサービスの難易度や費用を理由に他責にしては、上司からの指摘にも言い訳ばかりしていたことを反省しています。自己崩壊の一途をたどっていたと言っても過言ではありません。私は、完全に腐りきっていました。マネージャーには心から謝罪の気持ちでいっぱいです。
社外の交流会や飲み会では、私の言動や振る舞いが高く評価され、現実逃避していました。当時の自分は、「この難局を乗り越えれば、自分自身をより強く成長させることができるはずだ。」「今、逃げれば挫折したことになる。」となんとか首の皮一枚でつながっているという状態でした。
同時期に、同業界で働く先輩から「営業6ヶ月目で結果が出ると思うな。」と助言をいただき、ハッとしました。もう一度アクセルを踏み直し、初めての受注を獲得しました。お客様に恵まれていることに感謝するばかりです。
ただ、誘惑は多いものです。この時期に興味を持っていたことは全て試してみましたが、結局は違うと納得して、組織人事コンサルタントとしての道を心から選びました。また、組織人事領域のプロとしてキャリアを積んでいきたいという話は別の機会に。
> ターニングポイント(7) プロから営業のいろはを学ぶ
ご縁があり、営業代行会社の代表との出会いは、私の営業に対する概念を180度ひっくり返しました。「売らなくていい、目の前の人の役に立つことから始めなさい。自然と数字がついてくるから。」今でも大切にしている考えです。
この頃から、私のように営業活動で悩む若者を助けたい、ご縁を繋げたい、1mmでも人生を前進させたいという想いから、法人営業交流_Buchiage というイベントをスタートさせました。
> 営業を始めて、少しは行動できる人間に
営業を始めてから、様々な場で初対面の方々と交流する機会を増やしました。最初は経営者の方との会話に緊張していましたが、そのために積極的に経営者の方との接触を図り、3ヶ月で社外で約50人と名刺を交換することを実現。新しい人と出会うことで、異なる業界について知識を深めることができ、同様の組織課題に対する共通点を見つけることができました。
私が人の役に立つには、組織論やマネジメント論などの知識を積極的に学び、アドバイスすること。また、新しい価値観に触れることで、自分をアップデートさせています。
一方、同世代の仕事に熱い人、自己実現に向けて葛藤する若者との交流も私にとって幸せな時間です。”自己を変化させるため、GOALに向かって、心・行動を1mmでも前進するBuddy” これが私の在りたい姿です。
== 苦しかったこの経験から、学んだこと ==
・モチベーションで仕事をしない、仕事はするもの、決めたことをやるのみ
・挫折寸前の経験を繰り返すことで人は強くなるもの、言葉に重みが増す
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11. 自分を熱くし、誠実に向き合う社会人3年目
3月から営業に専念できる環境を作っていただき、時間・思考の使い方、合う人など選択と集中を徹底するようになり、逃げてきた自身の病気とも向き合うようになりました。休日に予定を詰めすぎず、平日の退勤後は飲み会に行く頻度・お酒の量を減らすことを続けています。また、自分をの約束を守ることで、自己効力感も少しずつ高まり、自分の機嫌をコントロールできるように。また、「アツい人だね。」と言っていただくことが増え、嬉しい限りです。
ここから。
24歳と2ヶ月、何者にでもなれる。
未来は予測できないものだから、GOALは不要だという声も聞こえてきそうですが、もちろん、またコロナウイルス以上の感染症がやってくるかも知れません。ただ、24年の人生を振り返ると、目標がある時こそ夢中になっている。定量ではなく、定性的な目標(こう在りたい)の方がエネルギーを最大限に発揮できているように感じます。つくりたい未来について、ここからお話しします。
つくりたい未来は、
一度きりの人生、仕事も愉しいと心から思える人を増やす。挑戦したい、変わりたいとくすぶっている人を前進させる。自分の可能性を高め、もっと熱い人を増やしたい。
職業機能は、こんな感じかな。
・GOALに向かって、心・行動を1mmでも前進するBuddy
・熱量を伝播するモチベーター
・人の可能性をぶちまける #super adviser(前進させる人)
これからは、人事評価制度の設計〜運用だけではなく、採用コンサルティング、新卒・幹部層向けに研修、キャリアコーチングを習得・体得していきます。
さいごに。
1万字での人生の振り返りをしましたが、深く自分という人間と向き合えたからこそ、自己理解が促進されました。「真のwant to」も現在進行形で解像度を上げていっている最中ですが、輪郭が見えてきた気がしているので、今後も追求していきます。私は1人で生きることはできない。たくさんの方に支えられながら、恩返しできるように日々精進してまいります。