50歳のリアル③ 母のこと
親父のことを書いたから、母のことも少し書きたい。
50歳になる息子が、自分の母をこれまでどのように見てきたのかについては、語るべき価値は十分にあると思うがどうだろう。
親父のことを「お父さん」と呼んでいるのと同じく、母のことは「お母さん」と呼んでいる。
3歳頃のおぼろげな記憶があるあたりから、ずっと変わらずボクは一貫して母をお母さんと呼んできた。
関西の下町育ちだったから、周りのクラスメイトらはオカンや、かあちゃんや、ときにババアと口悪く、自分の母を呼んでいたのだが、内心はそんな彼らを羨ましく思ったこともある。
親子でありながら友達関係かのような距離の近さに、楽しそうな家族団欒の風景を想起させ、ウチにはそんな空気は無いよなあ、と子供心に思ったものだ。
友達と遊ぶように一緒に遊園地ではしゃいだり、プール遊びがしたかったのかもしれない。
その思いを一度、真剣に母に打ち明けたことがある。
大真面目な母はそのとき何と言ったか?
「わかった、努力する」だったように思う。
そんなことを努力されても困る…。そういうことじゃないんだ。
子供心にそう思ったが、その後は何も言えなくなった。
かつて母は、絵に描いたような、それこそ漫画に出てくるような優等生で、当時5段階評価だった学校の通信簿はいつもオール5の才女だった。
勉強はともかく、遺伝的に運動神経が良い家系ではないにも関わらず(祖父母やボクら子供たちを見回しても思う)彼女はどんなことにも一生懸命に取り組み、体育の成績も常に5であり、影の努力を決して惜しまない人間だった。
「これをやり切らなければ明日死ぬ、殺されると思ってやったらできる」
何度かこんなことを言っていたが、ボクは一度も共感できたことはない。
中学生になった彼女は、かねてより大好きだった音楽の道へと進む。
個人でやっている近所のピアノ教室に通うようになった。
「ずっとピアノが弾きたかった。だけど、うちにはピアノはないし、お祖父さんを説得することができなかったから」
当時、祖父は駅前の商店街で鶏肉屋や自然食品の店を営んでいて、店番やら家事やらと家の手伝いをすることが多くて、なかなかやりたいことをやらせてもらえなかったのだと。
ようやく許しを得てからの彼女の頑張りは、元来の大真面目な性格から察しがつくかと思うが、上達は目覚ましかったそうだ。
努力して努力して、いつかピアニストになる夢を抱いていたのかもしれない。
だけど、現実はそんなに甘くはなかった。
中学生から音楽を始めた彼女には、一流の音楽家として必要な素養、つまり絶対音感が育たなかった。
どんなに努力しても、努力しても、努力しても、ダメだったのだと。
中学高校の青春をピアノに捧げた彼女にとって、突き付けられた現実はとても残酷だ。
「今日、この課題をやり切らなければ明日殺される」と、自身をいくら追い込んでも、一流にはなれないのだと受け入れたとき、それはいったい、どんな思いだったんだろう。
どんなに悔しかったことだろうか。
結局、彼女は音大の声楽科へ進学することを決めた。
成績は常にオール5だったから、周りの大人たちは、もっと上の国立大へ進学するよう説得したが、彼女は頑として譲らなかったそうだ。いつか祖母が渋い顔をしてボクに教えてくれた。
「あんたのお母さんはねえ・・」要領が悪いと言いたげに。
音大の声楽科に進んだ彼女は、持ち前の大真面目を発揮して頭角を現し、コーラス隊を結成することになった。
CDも2枚出している。
やがて大学も卒業が近づき、中学の音楽教師の教育実習を始めた。
音楽教師とコーラス隊との二足の草鞋を目論んでいたそうだが、ここから思いもよらない展開になる。
親父との出会いだった。
人生のターニングポイントともいうべき、このタイミングにおいて、おそらく今の人間にとっては理解不能な選択を、彼女はしてしまう。
大学卒業と同時に結婚。
寝る間を惜しんで積み上げてきたキャリアを、あっさり手放してしまった裏に、どんな決意があったのか?
その本心は今も窺い知れない。
いったい、何があったんだろう。
寿司屋見習いだった親父と大阪のアパートで新婚生活をスタートさせたが、専業主婦だった。
そうして1年ほどしてボクが誕生することになる。
親父の寿司屋が開店してからは経理の一切を行ない、昼は店に出て賄いを作ったり雑用をこなした。
ほどなく午後からの時間、自宅の一室で近所の子供を集めてピアノ教室をするようになった。
16時頃から始まって20時頃まで、自宅では毎日ずっとピアノの音が鳴り響いていた。
子供の頃の記憶といえば、母が教える生徒のピアノの音しか思い出せないほど、記憶の奥深くに刷り込まれているが、あまり良い想い出とは言えない。
ピアノの音がうるさくて、子供にとってはアニメやゲームの音が聞こえづらかったから。子供とはそういうものだ。
親父も忙しかったが、母も負けないくらい、いや親父以上に忙しい毎日だったように思う。
ボクと妹弟3人の子供の世話に加えて、犬や猫の世話までした。
昭和の親父はやはり亭主関白だったから、家事を手伝う姿をボクは一度も見たことがない。
掃除も洗濯も朝昼晩の食事も、全て母がひとりでこなした。
そんな生活が続き、ボクが高校生くらいだったろうか。
母は新興宗教にのめり込むようになった。
忙しさのあまり、何かにすがりたい気持ちだったのか。
どこかに救いを求めていたのか。
その本心はわからない。
真顔で霊能力や神様の話をすることが増えてゆき、高校から大学へ行くようになっていた当時のボクには少し気味が悪く、親父に相談したことがある。
「何かを信じて、それで本人が幸せなら、それでいいんじゃないか」
と親父が妙に説得力のあることを言った。
今から30年くらい前、当時はオウム真理教の事件がセンセーショナルに報道され、新興宗教というものについて、多くの人間が今よりももっと否定的だった中でのことだ。
今に思えば、親父の見識は進んでいたし、母のことをよく理解していたとも言える。
74歳になる母は、現在3人の子供らが巣立った5LDKの一軒家で、生活の補助が必要になった無口の親父と2人で慎ましく暮らしている。
親父の食事の世話はもちろん、最近は着替えや下の世話まですることもある。
子供らが巣立って、寿司屋も畳んで、ようやく自由な老後が送れるかと思えば、親父の病気から始まった半介護生活。
息子としては、母が不憫でならないのだが、
「お父さんは最期まで私が面倒を見る」
自宅介護の決断が揺るがないのは、大真面目に生きてきた彼女らしい選択だ。
それから、ふと聞きもしないのに、こんなことを言う。
「一人になっても、あなたたちと同居はしない。私は最期まで一人でここに住む」
母のことを子供心に猪突猛進だと揶揄したこともある。
何でも全力で、大真面目過ぎる姿がときには滑稽に見えていたのかもしれない。
だけど、大人になった今、そういう人間の強さを、ボクは噛み締めている。
母はやはり強し。
所詮、男などは母から産まれてきたのだ。
それが50歳のリアル。
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