海って言うから #1
車を降りてノビをする。
大きく息を吸い込んでると、風が吹いた。発泡スチロールとか流木が溶けて抽出されたような臭いが塩味に乗ってムワッと胃に届く。
知らない洋楽のギターソロがキリの悪いところで止まって、車内のライトが消えた。
バタン。
「着いたー」
「お疲れ様」
運転席から降りた男も遅れてノビ。ニコニコしたままのそのそ歩いて足場の限界で止まる。おそらく海面を真下に見下ろして満足げに微笑んだ。
マジか、この人、こういう臭い平気なんだ。
「酔った?」
微笑みが一瞬でグッと薄くなって私にまっすぐ顔を向ける。けっこう嫌そうな顔してたんだろうな。鼻の息を止める。
「どうだろ?」
目をそらしかけていた彼は、想定していなかったであろう返答にもう一度こちらを見た。そのタイミングで作ったように微笑むと、彼も戸惑いながら表情を和らげる。
隣に行くと、やはりコンクリートの続かない先は数十センチ下に海面があって、ゆらゆら。
時折ピチャッ、ポチャッと音を立てて、遥か彼方から続いてきた波は、人工的な壁にぶち当たって散る。鉛直の壁に添うように流木やタバコの箱、その他の不純物が意味なく上下に振り回されていた。
彼らも、こんなはずじゃなかった、と思ってるに違いない。
いや、そんなことより。
海って言うからてっきりあったかいのかと思ってた。
寒い!海ってあったかいとこじゃないの?ジーパンは最後の最後に長めのにしたが、それでも十分寒い。足元に至ってはビーサンだ。
車に乗ってる間は風速で冷たいんだと思ってた。これは単純に空気が冷たい。季節のものに違いなかった。
なんだか中に水着を着ているなんて、まあまあ恥ずかしいことに思えてきた。
私を連れてきた男はちゃっかり無言でセーターに袖を通している。私に気づかう素振りもないが、全く違和感はない。
邪魔するものはなく、彼は目立たずにはしゃいでいた。
「ほら見て」
「ん?」
「海だよ」
「見りゃわかるわ」
「いいねえ海」
「まあね」
「ブラブラする?」
「いいんじゃない?」
「でテキトーにコンビニとか行ってさ」
「近くにあんの?」
「うーん、多分」
「マジでテキトーじゃん」
「どっかあるっしょ」
言うと私から目をきって男は歩き出した。力づくだなあ。ため息をつこうとしたけど、その前に吸った湿気がやっぱりまた臭くて喉の奥が止まる。忘れてた。
水陸の境界は見える限り茶色い直線で、それと平行に進んでいく私より大きい背中。さっきグレーに上書きされたその背中にぶつけてみる。
「バギーさん?」
「ん?」
「そもそもここどこよ?」
「港」
顔だけ半分振り向いて、左目が一瞬だけ私とあった。その目はすぐにそらしたのかたまたま私を通過しただけなのか。微笑んだままの横顔はそれ以上語らない。
「それも見りゃわかんだよなあ」
小走りで追いついて、初めて横並び。チラッと右を見ても、彼の目は動かない。まっすぐ前の山か雲かのどこか一点を見つめているみたいだ。ぼやっと眺めた横顔はさっきと同じ細い目と緩んだ口もと。歩みは進んでも顔は何か張り付いたように動かない。
見上げた向こうの背景もただ青く、こちらはどうやら死ぬまで動く気配がない。大きな体だけが同じ周期で動き続けている。
しかし同じ周期と言うには、なんだか手の振りがぎこちないような気がした。
急に男の顔が私を覗く。今気づいたのか。さっきまでの顔のように穏やかなまま、目が開く。何か用?とでも言いたげだ。用なんかあるか。
気づけば目の前はコンクリートの終わり。その向こうにはテトラポッドがばらまかれていて、コース外。左側に数段の階段、堤防の切れ間。
その通り進むと爽快なスピードのセダンがアスファルトの風を浴びせてきた。反射的に帽子を押さえる。風は白線上の空き缶を堤防にしっかり叩きつけて黒いセダンについて行った。
海風にも挟まれて行き先の定まらない髪がバラバラに揺れているのがわかる。
なんとなく目で行方を追っていた空き缶はすぐにこときれ、振り返ると男はだいぶ遠ざかっている。堤防と白線の間を縫うグレーの背中。当然顔は見えない。
その方が平穏かもしれないけど、これじゃ何も進まない。
二車線挟んで向かいには正式な歩道があるのに、バギーは車道と同じ高さの道を進んでいく。仕方なく追う。
追っていく私の足の裏が次第にザラザラしてくる。気持ち悪い。
少しサイズが合わないせいもあって、ビーサンの中に入ってくる黒い砂。黒い岩がそのまま削れてできたみたいな黒い砂。見える範囲で堤防の淵に延々と溜まってる黒い砂。
堤防の裏側を見下ろすと、テトラポッドの足と波が引いた合間に見える岩がびっしり。多分どんなに頑張ってここから監視しても、岩とコンクリート以外は海の隙間に姿を現さないであろうことはわかった。
黒い砂は私の期待したものではない。
振り向かない背中に追いついて、私は一息つく。
海って言うからてっきり砂浜かと思ってた。
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