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【2章-2】50代バツ2独身ジョブホッパーが辿り着いた「自分探しの旅に終わりはあるか?ないか?」

言葉の重みと刻まれる心

そして、もうひとつ。私を捉えて離さない言葉があった。
我が家では、毎年お正月には、父の会社のメンバーをご招待して宴会をしていた。おそらく、小学高学年の頃だったと思う。その宴会後に、父が言った。「気が利かないなぁ。」

先にも、お伝えしたが、父は九州男児である。男子厨房に入らずだし、家庭は女が守るもの、という人だ。女はこういうものだ、という偏見がまだまだある時だった。(のちに丸くなってからは、料理もしたし、すべてのことをできるだけ円満に解決しようとしていた)
「気が利かないなぁ」と言われた私は「気が利かない」ってどういうこと?と聞いた。
すると父は、「刺身が並んでいたら醤油皿だし、醤油皿があれば醤油だろ?」と。大好きな父に言われたことを子供ながらに、私は一生懸命、それを理解し、率先して行動した。

いつも誰かの先回りをし、「気が利くね」と言われることが、父に褒められているような気がしたのかもしれない。これが、悲しいかな後々まで私を縛る呪いの言葉のひとつになった。

継母との軋轢

そして、新しい母との関係は決して円満なものではなかった。
私と継母は14歳しか離れていない。
いわゆる「継母」に反発することも多かったし、幼少期の私のお決まりのセリフは「本当のお母さんじゃないくせに!」だ。どこかでみたことのあるようなセリフだが、結局「本当のお母さんだったら、生きていたらこんなじゃなかった」「本当のお母さんなら、こうしてくれたはず!」という思い込みは続いた。子供は時に思ったことを遠慮なく言う生き物で、散々継母を傷つけてきた一方で、まだ若く気の強い母は私達子供にも遠慮のない言葉で応戦してきた。
亡くなった母のことを悪く言われたり、父の愚痴をこぼされることも多かった。
今考えれば、どっちもどっちなのだが、私は本当のお母さんがいない、という自己憐憫からの卒業までは数十年かかった。

その後も、気性の激しい新しい母と、思い込みの激しい私は、表面上の「家族」という関係は続くのだが、女同士という共通点があったので、そこそこの「大人の関係」は続けられているような気がする。
本当の親子でも様々な問題を抱えている方も多い中で、血のつながりがない私達の溝が埋まるはずはないし、何より父から「お母さんとうまくやりなさい」と度々言われていて、父のそういう、ちょっと困った顔をみることが辛かったので、できるだけ穏便に過ごしていたように思う。

私は正直、新しいお母さんなんていらなかったし、私がお父さんの面倒を見る!なんて息巻いていた時期もあった。当時は、シングルマザー、シングルファザーなんていう呼び方はなかったし、世間もそこまで柔軟ではなかった。もし、そういう選択をしていたら、どういう未来が待っていたのか、少しの興味はあった。もしかして、そんなパラレルワールドもあるのかもしれない。

父の夢

でも、やはり新しいお母さんや、新しいお母さんを迎える選択をした父には好かれたかったし、機嫌を損ねたくなかった。

ある日の夜、就寝中の私達兄弟は、父にたたき起こされた。
それまで、「お母さん」と呼ばない(慣れるまで呼ばなくていいと言われた記憶が私にはあるのだが)私達兄弟に、父が「いつまで名前で呼ぶんだ?お母さんと呼びなさい」と、かなりの権幕で怒られたのだ。そして翌日からは「お母さん」と呼ぶようになる。子供ながらに納得がいかなかったことは覚えているが、もう怒られたくなかったので、そうした。

これまで、父のことを好きだと書いてきたが、九州男児の父はその時代の男性の価値観と同じで、女性の幸せは結婚して家庭を作ること、女性は慎ましく、というカチカチの頭の持主だった。幼少期は、とくにそれに対して私への影響はなかったが、大学の進学頃からそれに気づくようになる。

父の希望は、短大へ行って父のコネで金融機関に入り、2~3年で結婚してほしいようだった。
だから私が4年制大学に合格した時は、学費は出さないと言われたし(結局は通わせてもらうが)、大学では体育会系の部活のマネージャーに執心した私に「何のために大学に通わせたのかわからない」と何度となく小言を言われた。

愛情の形

私の記憶では、一般的に言われる両親からの愛が希薄だったような気がする。愛情が薄い、少ないというのは語弊があるかもしれないが、例えば、褒められたり、認められたり、ハグされたりという記憶がないのだ。
それなりの贅沢をさせてもらい、有名な私立に通わせてもらった。それが両親からの愛なのだろうが、子供には、それが愛情であるとは、わからなかったのだ。父も新しい母も4人の子供を育てることに必死で、育てることが愛、それこそが無償の愛だと認識していたのだと思う。そんなことまでわからない子供な私は、自分の欲する愛情が与えてもらえなかった、と感じていた。

昭和生まれの九州男児の父と、若くていきなり4人の子持ちになり必死に子育てしてくれた新しい母の無骨で淡泊な愛情表現は、私には届いていなかった。

それが、私の思考の原点になった。
【私は愛されなかった。愛された記憶がなかった。】
そして、私は、愛されたい、認められたい、褒められたい、周りの目ばかり気にする大人になってしまった。

続く・・・

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