【1章-2】50代バツ2独身ジョブホッパーが辿り着いた「自分探しの旅に終わりはあるか?ないか?」
そこから、ジョブホッパーな人生は始まり、最終的に転職回数は7社にのぼる。
ジョブホッピングは自由の追求?
大手広告会社を辞めた後、次に就職したのは人材派遣会社の営業職。
新卒の営業経験があったので、そこそこのお給料とチーフという肩書で採用された。そこでも2年で退職するのだが、またなぜ営業職!?(笑)
その仕事は、新規開拓がなく、既存顧客の対応や折衝と派遣先で働く派遣社員さん達の管理・サポート業務がメインだったからだ。
新規開拓は苦手、でも人を話すことは好き、と思い、その仕事を選んだ。
1社目の苦手意識を払しょくしたかったのか、1社目の名誉挽回をしたかったのか。同じ職種にチャレンジしてしまう。そして、やはり2年が経つ頃に転職を考えるのだ。社長が航空会社のCA出身で社員も全員女性、こじんまりとアットホームな良さに惹かれたのと待遇の良さで入社を決めたが、そのアットホームさゆえの人間関係に息苦しさを感じ、もう少し大きい会社で働いてみたくなった。
結局のところ、仕事や職場などに対してこだわりはなく、自分を受け入れてくれて、それなりの待遇であればどこでもよかったのかもしれない。
その後、求人誌を通して応募、なんと倍率200倍の難関を突破し、大手の外資系ソフトウェア会社の人事部に入社を果たした。
そこで初めて人事部に配属された。(のちに自分の人事をしたいというキャリアの土台になった)本社はアメリカの会社で英語必須ではなかったが、選考時には筆記試験には英語もあった。実は私は英語はほとんど学んでおらず(中高ではフランス語を選択し、大学もフランス語学科卒)、その英語の試験も意味はわかったが解答が英語で書けず、苦肉の策としてフランス語で解答したのだった。それでも受かった(笑)入社後、それが功を奏したらしいことは採用してくれた上司から聞いた。大胆でおもしろい子だなと思ったと(笑)。白紙で出さないという問題解決能力?が評価されたのだろうか(笑)
そんな大手に入れるとは本当にラッキーでそこでは新卒採用を担当し、赤坂にあるとてもおしゃれなオフィスで外資系OLライフを謳歌した。そこは福利厚生が充実していて、英会話のレッスンは無料だし、マッサージも無料(勤務時間中でもOK)、社内には社員番号1番のワンちゃんが飼われていて週一で出勤しオフィス内を歩き周り、社員を癒してくれた。お給料も同年代に比べればよかったし、持株もあったし、赤坂にオフィスを構える父ともマメに会えたし、文句のつけようがない会社、のはずだった、が、人間関係などにストレスを感じ、またもや退職を決めた。
ちょうど前職で出会った元上司と結婚した私は家事と仕事の両立ができないことを表向きの理由にした。上場目前で自社株を積み立てていたので、父からはもう一度考え直したらどうか、と何回か諭されたが考え直すことはなかった。辞めなければマンションが買えたはずだったのに(笑) いやなものはいや。白黒つけたい性格が、ここでも発揮された。
若かった私は、転職に抵抗はなく、条件のよい転職先に恵まれていたこともあり、自分を単なる「フットワークの軽い人間」「チャレンジ精神旺盛」だと思い込んでいたのかのように、環境を変えることに何の抵抗もなかった。なんなら、毎回リフレッシュできている!と無理やり上げる自己肯定感に似たような思いもあった。ここまでの転職経験は3社。28歳。
28歳で結婚し後、外資系OLの座も捨てた後の私は、また違うことにチャレンジしてみたくなる。もともと細かい作業が好きで、アクセサリー作りなどにハマっていた時期もあったが、自分でネイルに絵を書いたりすることにも目覚めた。爪がキレイになることにテンションが上がった。ネイルをキラキラにするなんて、当時はあまり流行っていなかったので周りからも褒められたりして、私の爪もやってほしいと頼まれることもあった。私はもともと、爪を噛む癖があったが、ネイルに絵を書いたり、色を塗ったりすると噛まなくなり、爪の形がきれいになってきたことにも気づいた。他にもそういう困っている人がいたら役にたちたい。そんな風にも思っていた。そこからネイルの勉強を真剣にしたいと思うようになった。
そこからネイルスクールへ通い1年程の勉強をし、ネイルサロンを開いた。ネイルの仕事は美容院程大がかりな設備投資もなく、マンションの1室でもはじめられた。お手軽に始められるのも魅力だった。当時はまだ大手のネイルサロンがデパートた駅ビルに入っている程度で、個人サロンは少なく、伸びしろを感じたて挑戦したが、当時はネイル自体の認知度が低かったので集客の苦労はあった。お客様の属性も、どちらかといえば夜の商売の方がほとんどで、爪をを1センチ、2センチと長さを出して作る技法が流行していた頃。それでも、初めてのtoCの仕事でお客様のダイレクトな反応をもらえること、自分のクリエイティブが誰かに喜んでもらえる仕事は性にあっていたのかもしれない。その後ネイルスクールも併設して開き、たくさんの生徒さんに恵まれ、多くのネイリストを輩出できたのも嬉しく、その仕事だけは15年続いたのだ。振り返ればもしかしたら、自分を主張できる、自営の仕事で周りの人間関係に悩まされない自由な環境が、継続の要因だったかのかもしれない。もちろんうまくいっていた時期も苦しい時期もあった。ネイルという仕事は、マンツーマンで行うサービスのため、利益の天井がはっきりとわかる商売だ。多店舗展開やうまいビジネスモデルを作らなければ、爆発的な収益は見込めない。そんな将来性にも少しの不安はいつも抱えていたかもしれない。そして、あることがきっかけで最終的には天職と感じていたネイルの仕事からも離れることになる。
続く・・・