【#信じるという手抜き】わかってんのか?宗教だけの話じゃないぞ?(・∀・)/後半は☠ロック🔓有料暴露☠
先に言っておくけど、宗教批判には興味がないので、あらゆる宗教の存在はただ認めている。今回ここで語ることは、シンプルに「信じる」とはどういうことなのかについて持論を書き連ねる。
信じるということは、疑わないということ。疑うということは、信じていないということ。え?本当にそうなのか?そんなに綺麗に切り分けられるものなのか?
ハッキリ言ってしまうと、「信じる」ということは、疑うことを放棄しているようなもの。にもかかわらず、信じるという心の所作はどういうわけか誰もが美化して認識している。
恋人同士や夫婦でどんなに愛し合っていても、100%信じられるものではない。それが普通の感覚ではなかろうかと思うけれども、世の中にはきっと100%信じることができる人もいるのかもしれない。
少なくともボクの場合、両親や姉兄は法律上の家族でも、100%信じることはできなかった。不意に馬鹿にされることが多々あって、不意にとんでもない光景を見せられることが何度もあって、不意に信じがたい過去の話を聞かされることもあったりして、不信感にも似た懐疑心を常に抱いていた。
「これが一般的な家族の姿なのか?」
小さい頃から高校を卒業して実家を離れるまでずっと、心を閉ざし、大人しく、ただ時が過ぎるのをひたすら待ち続けた。両親からすればひでー親不孝者に見られるだろうね。毎日メシを食わせてもらい、寝るところがあって、学校にも行けて、習い事や塾まで行かせてもらって、挙句、大学まで出してもらったのに、心情はずっと変わらなかった。
親父は口々に言っていた。「お前変わってんなー」とか「お前が何を考えているかさっぱりわからん」と。そう聞かされる度に内心「それはそうでしょ」って頭の中で反芻したりして、今日に至るまで一度たりとも素直に心を開いて家族と向き合うことを避け続けた。もちろん、心は窮屈な、息苦しい思いがしていたけれども、「そうそう簡単に教えてなるものか」といった妙な意地までも湧いていたほど。
これは後になって自分で気付いたことなんだけど、そうやって何年もの長い間、親や姉兄と対峙して語る時に心をギュッと閉ざす癖が染みついてしまったせいで、大学4年間も、社会に出てからの生活も、人と向き合う時にはいつも心は身構えるようになっていた。
その甲斐あって、性格の悪い上司や同僚、アルバイトの人たちから、普通ならイライラしそうなことを言われたりされたりしても、身じろぎ一つせず、無反応で受け流す術となって個人的には重宝した。
その結果、「言葉に感情がない」「ロボットみたい」などと言われるに至る。その度に「正解!」と、また頭の中で反芻する。
そんなふうなことを繰り返すうちに、誰と対峙する時でも「相手を観察すること」が基本姿勢になった。つまりそれが、ボクなりの「まず疑う」に繋がった。
冷静に自分のこれまでの人間関係を振り返ってみても、楽しかったことなんて一つも無くて、ひっそり、極力静かにやり過ごしてきた。で、その結果、友達は一人もいないし、過去の繋がりも一切ない。
さらに言うと、めちゃくちゃタイムリーで不謹慎な表現になっちゃうけれども、コロナ禍は正直ノーダメージ。生まれて初めて、社会全体がソーシャルディスタンスを提言するに至り、人との一定の距離を保つことが新しい常態へと切り替わったことには、何の抵抗も感じなかった。
「おー、人と会わなくて済む!」
いつからかはわからない。ボクは「孤独」というものを本質的に理解したことはないかもしれないけれども、事実、実家を離れてから15年以上も帰省していないし、何年も独りで過ごしているけれども、寂しいと思ったことは一度もない。
小さい頃から心はずっと孤独だったからね。でも不思議と、自分にとって独りで過ごす日々というのは不幸でも何でもなく、長い年月を経て孤独への耐性が養われたのかもしれないと今は思う。
もっと楽しい幼少期を過ごせていたならば、未来もきっと変わっていたかもしれないけれども、そうではない幼少期を過ごしたのだから、ただ単に事実を受容するしかない。常に違和感や疑念を感じさせられる家族の光景は、いつ思い返しても気持ち悪いとしか思えないものだけれども、決してそれに染まろうなどとは考えてすらいなかった。
姉や兄は思いっきり両親の影響を受けて育っているようだけれども、それを否定することもなかった。ただ、心を開かなかったことに起因してか、大人になってからも姉兄との距離感は埋まるどころか連絡を取れば軋轢が生じるほど嫌われたまま。過去をなしにして向き合うことは例え兄弟でもできないことなんだと思い知らされた。むしろ兄弟だからこそ何かが壁になっているとも考えられる。
親父は、「優しさを演じる癖」がある。母、姉、兄、そしてボク、それぞれの現在置かれている状況に合わせて会話をする癖。一見良いことのように思えるそれは、本当の意味で心の通う会話ではないことを親父はずっと気付いていない。昔自分が犯した虐待やDVのことを本人も忘れてはいまい。そういう自身の過去にいくらか負い目を感じているからまっすぐ向き合えなくなったんじゃなかろうかと息子の立場からは見て取れる。
だから、親父が演じる優しさはいつも歪で、偽であることが伝わってくる。
「男として」とか「父親として」などといったことは、それ以前に「人として」どうであるかが大きく影響するわけで、その時々で都合よく立場をコロコロ変えてズルい言い回しをするところも、ボクにとっては何一つ当たり前ではなく、ただ一人の人間がそのように都合よく解釈しているのだと見ていて思った。
「オレの言うことは正しい」「オレの言うことは絶対だ」「人間様が食事をしてから猫にメシを食わせるのは当然だ」そんなふうなことをドヤ顔で言うような人に、「なんで?」って質問するのも避けたくなる。「あなたはそう思っているんだね、ボクはそうは思わないけど」と冷ややかに反芻する。
もしかしたら、親父こそ優生思想主義なんじゃないかとさえ思える。親父がくだらないと吐き捨てることにボクは興味があったりして、どんどん逆行していったことも事実。何が有意義で、何が無駄でくだらないかは、何に対しても自分がどう感じるかであって、それを他者にうんちく垂れて「だからくだらないのだ」と、妙な証明をして自分だけ納得している親父の姿が意味不明だった。
何をどう信じればあんな人格になるのかわからない。知力があって、経済的な力があって、人間性さえしっかり備わっていれば、家庭も円満になり得るはずなのに、散々家族を傷付けてきたのは親父自身、結婚して子供を授かったのちの生活がイヤになったからではないのか?「こんなはずではなかった」と。
で、口々に、「医者になりたかった」とか「宇宙飛行士になりたかった」とか「パイロットになりたかった」とか、そんなことを言うことが時々あって、おそらくはこれまでに読んできた本の影響もあるのかもしれないが、これまでの親父の過去を自ら美化自賛しておきながら、後悔のような言葉を発する辺り、家族への配慮はなく、そういうことを聞かされる度にまた冷めた感じで反芻する。「選択を間違えたって言っているようにしか聞こえない」と。
親父の最大のミスは、強さは正義だと誤認したこと。それは知力としても純粋な力としても。人よりも優れていることが親父にとっては正義だった。努力してこういうことを成し遂げた、みたいなことを切々と語る姿は完全に自分に酔っていて、一方、親父よりも何かにつけ劣る人に対しては見下す発言が止まらなくなることもしばしばあった。
テレビのコメンテーターやジャーナリストに向かって大声で怒鳴る。親父は衝動を抑えられない性質が強い。一度スイッチが入ると、やりすぎた、言い過ぎた、と自覚するまで止めない。なぜなら、気付くまでは自分が正しい、自分の言うことは絶対だ、と思い込んでいるから。
母親や子の話に対しても、常に上げ足を取るような切り返しをして饒舌に長々と語り出す。それは今も本質的には少しも変っていない。60も超えてくると、同じ話を何度もするようになり、ウザったさも際立ってきた。
死が着々と近づいてきているからか、これまで以上に「こんなはずではなかったのに」と言っているようにしか聞こえなくなってくる。いつまで自分の過去の美談を語れば気が済むのか。
ある時ボクは聞いてみたんだよね。「浮気とか不倫とかしたことないの?(ずっと母親一途みたいなことを語ってきたようだけど)」と皮肉を込めて聞いてみたら結構な修羅場があったらしく、やっぱりなと思った。と同時に、「あんたも普通の人間だ、何も特別ではない」と。
そんな親父に代償を支払わせることを高校の時に思い付いた・・・。(※ここからはさらに暴露していくため有料とします。読みたい方のみお進みください。)
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