【#なんでーなんでなんでなんでー】腑に落ちないことがやたらと多いのはなんでなの?
なんでー?なんでー?なんでなんでなんでー??(・∀・)って思うことがいくつもある。
「納得できない!」「イライラする!」とかいう怒りのレベルになると、時間が経つと「納得できなくてイライラしている自分」に気付いて「なんでこんなにイライラしてるんやろ?なんでー?」ってなるよ?(・∀・)
枯れ葉に意識があるとしてさ、自分が最後に散るまでの間に、何十枚、何百枚という枯れ葉が散っていく様子を見ていて、「あー、そろそろ冬来るもんなー、みんな散っていってるなー、いつになったらオレ散るんやろー」って思ってたら、最後の最後まで散らない自分。最後に散る枯れ葉の気持ちってどんなんなんやろーって。
「えー?まだー?いんやー、自分の意思で散れたらさっさと済むんやけどなー、え、まだー?なんでー?なんでなんでなんでー?」ってずーっと思ってるんじゃないかと思う。
で、何度目かの「なんでー?」って思ってるその刹那、ハラリ・・・。
「わぁーーーーー!!やっとキタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!」って思うのか、「うーわ、このタイミングかい!!」って思うのか、どんな気持ちなんだろう・・・とか考えてる。
なんでー?なんでそんなこと考えてるん?なんでなんでなんでー??
こうして、なんでなんでと連呼していると、結局自分に返ってくるんだよ。「なんで、自分はなんでなんでって考えているんだろう・・・」って。
こういうことって、他者に聞いてもピンポイントで明快な答えって教えてもらえるわけじゃないのよね。(なんでー?w)
それくらい、人が考えてることってボヤッとしてるっていうか、いちいち人に言うことでもないことを考えるのも人間だからだと思うんだよね。(なんでー?w)
じゃあさ、「なんで人は人を好きになるのか問題」について討論するとするじゃん。どれだけ討論しても10人が10人納得するような結論なんか絶対に出て来ないよね。科学的な証明が不可能なのが恋愛感情だから。いや、「人が人を好きになるのに理由なんて必要ないよ」なんてクッセーことを言うつもりは毛頭ない(笑)このフレーズこそ、科学的解明ができないからこそ生まれたものでもあるんじゃないかね?
でもさ、少し言葉を換えて「なんで人は人を嫌いになるのか問題」について討論する場合、いくらでも「なんで」をスッキリさせる解答が出てくるよね。
もし、この世界で生きる全ての人々が、人を嫌うことが一切なく、人を好きになる感覚しか持っていないとすれば、差別とか戦争とかいうことはなかなか起こらないんじゃないかね?
「なんで差別はなくならないのか問題」とか「なんでいじめはなくならないのか問題」ってさ、考えるだけ無駄なんじゃないかって気がしてならないのよね。
だってさ、人って人を嫌う理由を無意識に探してるじゃん。相手の言葉の表現だったり言い回しだったりもそうだし、態度、行動、癖、ルックス、体臭、その人にまつわる全ての過去、なんでもかんでも引っ張り出してその人を嫌いになるための理由を、個人が勝手に並べ立てる。
それで済めばまだいいよ。人ってさ、噂話好きじゃん。個人が勝手に並べ立てた嫌いな理由を他者に話したり、SNS上に書き込んだりして、結局のところ差別的発言に至ったりする。
絶対になくならないよ、差別は。でも、差別を擁護する意味で言ってるんじゃなくて、それでもやっぱり考えなきゃいけないのが「なんで差別はなくならないのか問題」「なんでいじめはなくならないのか問題」ってことだと思うんだよね。社会生活を営む人としての永遠のテーマ、これがそもそもの前提なんだってことから目を背けてはならないんだ。
最後に散る枯れ葉だって思ってるでしょう。「なんで最後に散るのが自分なんだ?なんでー?なんでなんでなんでー?」って。
差別される人も、いじめられている人も、きっと思ってるよ。「なんで自分なんだろう、なんでー?なんでなんでなんでー?」って。
それだけじゃない。病気だってそうだ。突然難病を患って身動き取れなくなって寝たきりになったりしたら、「なんで自分なんだろう、なんでー?」って思うよね。
仮によ?明確な理由が存在していたとしても、納得できるわけないじゃん。差別されることも、いじめられることも、難病を患うことも、それに対して「そうなんだ」って納得できる人いないんじゃない??
でも考えるでしょ。「なんでー?」って。それはいいんだよ、考えること自体は。でも、「納得すること」をゴールにしちゃうから、いつまでも納得できなくてイライラして、気が付いたらそういう自分に対して「なんでー?」って思うようになってしまうんだと、ボクはそう思うんだよ。
答えのないことに対して考えることは別に悪いことではないし、好きなだけ考えればいいと思うんだよ。でも、答えが明確にあるわけではない問題に対して納得させてくれる答えがないからって腹を立てるのは違う気がするんだ。
答えが無いことに気付けば、そのこと自体にまず納得するでしょ。中には、考えても仕方ないかって割り切れる人もいる。でも、中には割り切れない人もいるんだよね。割り切れない人は、答えが無いということに気付いていないだけなんだよ。
「なんでサイヤ人は武空術で空を飛べるのに人間は空を飛べないのか問題」はどう?
サイヤ人が空を飛べるのはアニメだから、とか、人間は空を飛べるようなメカニズムではないから、とか、至極当然の解答があるにもかかわらず、納得しない人は納得しないんだよ。
小さい子供が親に「なんでー?」って聞くことが多すぎて親がウンザリしてウソを教えるっていう悪い教育、これはまた別の話になると思うんだけど、この場合は、「夢を持たせる」という意味ではあまり現実的なことを言うべきではないんだよね。
子供の頃の夢が仮面ライダーとかウルトラマンとかなんとかレンジャーとかいうヒーローものになりたいっていうものであれば、それは応援してやらないといけない。大人になればイヤでも誰もがヒーローになれるわけではないってことくらい気付くんだから。
サンタクロースなんていないんだよって言っておきながら、クリスマスの日の朝に枕元にプレゼントが置いてあったら、子供はどう思う??
「はいはい、親が買ってきたんだね」ってわかるよね。本来はサンタさんからのプレゼントとして素直に喜ぶはずの無垢な子供が、先天的に現実を突き付けられた挙句にそういうことされても、喜べるはずねーじゃんって話。
まぁ、これ、うちの親の話なんだけどね?(笑)子供の夢を潰して現実ばかり突き付ける親は完全にドリームキラー。悪意すら感じたから、悪意のドリームキラーだよね。
そんなボクが幼稚園の頃に、七夕の短冊に書いた内容はというと、「おおがねもちになりたい」wwwwwww
4歳とか5歳の時だよ?当時の保育士がこれを見てどう思ったのか知りたいよね。夢もクソもない超現実的な願いを幼稚園児が書いたことについては、親の面がどんなもんかを拝んでみたいくらいには思ったんじゃないかね。
ボクはね、こういう細かいことさえも覚えてるんだよ。なんで覚えているかって、記憶と感情が掛け合わさってるから。人が覚えていることのほとんどは、感情が掛け合わさって大脳新皮質に保存されているものがほとんど。
とても嬉しかったこと、とても楽しかったこと、とても悲しかったこと、とても痛かったこと、とても苦しかったこと、とても寂しかったこと、こんな感じで感情が掛け合わさった記憶というのは思い出す時の解像度も高い。
反対に、感情が掛け合わさっていない記憶については、海馬に保存されている時に、大脳新皮質に移行されることなく消えてなくなる。
「親ガチャ」っていうワードが最近物議を呼んでいたけれども、当たりもハズレもないんだよね。ガチャって、アニメキャラのフィギュアとかであれば、何種類のフィギュアとハズレが入っているみたいなことが元々決まってるじゃん。
でも、親が子を授かる時というのは、ガチャガチャのBOXから生まれるわけではなくて、無の状態から生まれるわけだから、表現としては似ているようでまるで違うということはわかる。
生まれた時に、片腕がないとか、耳が聞こえないとか、目が見えないとか、何かが欠けて生まれてきた人って、自分ではどうしようもなかったその現実に対して、他者は平気で差別してきたりいじめてきたりするでしょ。
果たしてこれは、当たりハズレで測れることなの??「なんで自分だけ・・・なんでなんでなんでー?」って言われても誰もどうしようもなかったことでしょ。
かと思えばさ、中国では生まれた子供の片腕を切断して物乞いをさせて生計を立てる歪んだ文化がある。
極論を言ってしまうと、「この世界に生まれたこと」はハズレなんだということ。そしてそれは、誰の責任でもないということ。
運命は変えられるとか、未来は変えられるとかいう超前向きなワードを言う人いるでしょ。変えられるってさ、変えることがゴールではないじゃん。思い通りに変えられたら人生成功かというとそうでもないでしょ。
それにさ、人生を成功と失敗で切り分けて考えるのもすごく違和感がある。成功したってどういう状態?失敗したってどういう状態?誰かと比較しないとそうとは言い切れないと思うんだけど、幸福や不幸って他人と比較してなんか意味あるの?って話になるじゃん(笑)亜北斎(あほくさい)よね。
人生に答えを求めたり、意味を探したり、場合によっては自分を探したりする人いるでしょ。ないから、そんなの。そんなこと言うよりは、仮面ライダーになりたいって本当に思っている無垢な幼稚園児のほうがまだ将来可能性あるよね。
夢や大志を抱くにしても、種類があると思うし、成長過程で分岐点は何度もやってくるはずでしょ。その都度、ああなりたい、こうなりたいって思えばいいじゃん。
成功するしないとか、メシを食っていけるいけないとかではなくてさ、そう思うことが将来自分が向かう方向の道標になってくれるんじゃないのかね。
ああなりたい、こうなりたい、そう思わせるような夢を持たせないくせに、子供の言うことを現実で一個一個潰していくような親は親ではないよ。限りなく「経済的な世話をしてくれる他人」に近い。
今すぐではなくても、いずれそういう育て方をした親には思い知らせてあげないといけない。とっても罪深い子育てをした、その具体的な中身についてね。
だから覚えてるんだよ。世間一般的な円満な家庭環境で全然良いと思ってたけど、違和感しかなかったんだよね。でも、「なんでー?なんでなんでなんでー?」とは思わなかった。だって、親がそういう現実で夢を潰すような歪んだ子育てをしてきたものだから、それを受け容れて育ったってだけのこと。
親が突き付けてくる現実を受け容れ続けると、夢も希望も抱かなくなる。やりたいことも好きなことも見えなくなってくるし探そうとも思わなくなる。
実は、現代社会においてはそういう人たちが非常に多い。「諦めの世代」ってボクは呼んでるけどね。今の30代40代の親世代である60代70代の人たちは、こんなに社会が変化するなんて思ってなかっただろうよ。普通に働くことすら難しくなり、普通に稼ぐことすら厳しくなってきた。そりゃ諦めたくもなるよね。
じゃあ、誰が悪かったのか。親世代は、自分たちが子供にかけ続けてきたバイアスを自ら疑わなかったことも悪いし、子供たちの思いに耳を傾けなかったことも悪い。でも、そんな親たちも想像すらできなかった、子の夢や希望を潰してしまうことでどういう育ち方をするのかということを。
誰を恨めばいいのかを考えても、答えなんかないよね。恨んで何か得をするのならいくらでも恨むんだろうけど、そうではない。
「なんで自分だけ?」って思うこと自体が最大の不幸。そういう思考に陥っている時は、自分がどれだけ恵まれているかを考えられないほど視野が狭くなっているから、良からぬ、思わぬ、予期せぬ行動を起こしかねない。
今いる環境で差別やいじめを受けているのなら、とりあえず逃げればいい。逃げた先で同じような目に遭ったら、また逃げればいい。そうやって逃げ続けているうちに、気が付いたら強くなってるから。逃げればいいんだよ。
耐えることを美化する精神論なんか、ぶっちゃけ何の役にも立たない。強さこそ正義みたいな考え方って、戦国時代とか戦争中とかの心の持ち様でしょ。
で、ここでまた最後に散る枯れ葉の話に戻すね?(笑)
最後に散る枯れ葉が散っている最中、近くに立つ木が視界に入ったんだよ。そしたらね?その木にはまだ何十枚もの枯れ葉が残っていて、「あー、自分が最後じゃなかったんだ」って気付いたんだよ。
「自分だけじゃなかった」って。