【Chapter3】存在と事実/Part1
今回は、Chapter3「存在と事実」について述べていきます。ボクはですね、メインテーマがあって、サブテーマに単語を置けば文章がかけてしまうんですけれども、正しいとか間違いとかそういう陳腐な見方をする人には向かない内容ですので、是非ご退場ください(・∀・)ベースはいつも自分の思考なので、一般的には間違っていると思われるような内容かもしれません。
できれば、否定科学研究所の文章を読んで、「あなた自身はどう考えているか」をコメントしてもらえると嬉しいですね?共感だけではなく、否定するのであれば否定するで具体的に否定してもらえると超ありがたいです。では早速参ります。
Part1:「存在の否定」を否定する
偶像崇拝をする宗教では、神の存在を信じて祈りを捧げますね?にもかかわらず、この世に存在する何かしらを否定することは良しとされていることってありませんか?
神という存在しないものを肯定し、この世に存在する何かしらを否定する、頭バグってませんか?って言いたくなりますが、皆さんはどう思いますか?(・∀・)
仏様はご先祖様という意味合いが強い印象がありますが、神様は存在しません。人間がこじつけて勝手に祈っているに過ぎません。日本国内には600種以上の宗教が存在しているらしいですが、同じキリスト教でも〇〇派で枝分かれしているようで、なおかつ同じ神を崇めるという状況、よくわかりませんね。
5歳の男の子が餓死した事件は創〇学会が関係していて、ママ友同士で主従関係にあったそうで、これもまたよくわかりません。
宗教は、都合の良いことは受け容れ、都合の悪いことは排除する、そういう傾向にあるような気がします。創〇学会と公〇党はズブズブで思いっきり宗教の政治利用が実現していますね。憲法違反というよりは公職選挙法違反のような気もしますね、うん、よくわかりません。
とはいえ、存在自体は否定しても何の意味もないんですよね。この世に存在してしまった核兵器だって、その存在を否定したところで今や国家の軍事力誇示のためだったり経済力のアピールだったりのために存分に活用されています。
Diplomatic power balance(ディプロマティックパワーバランス=外交のパワーバランス)は、主に軍事力や経済力が大きく影響しています。
宗教や核兵器だけではなく、悪の存在ですら否定することには意味がないと考えます。悪は自然発生的に全世界のあちこちで沸いて出ます。表面的な悪は氷山の一角で、9割以上は潜在していると考えるほうがいいでしょう。
この世界は、一つではありません。国の数、地域の数、家庭の数、人の数、それぞれに世界がありますし、今となってはネット上の仮想空間にも無数の世界が存在しています。
このnoteもその一つですね(・∀・)
数えきれないほどの世界が存在している現代社会で、否定できる世界がどれだけあるでしょうか??ボクは一つもないと思います。存在していることを否定しても意味がないし、解決できるわけでも排除できるわけでもありません。無論、それをしようと思ったらきっと大変な労力と時間を要するでしょう。つまり、無駄ということです。
存在している物事は全て「認める」「否定しない」に限るのです。その上で、自分の意識をどの世界に向けるかを選択すればいいのです。できる限り、否定したくなるような世界よりも、自然と受け容れられる世界に意識を集中するほうがきっと多くの価値と遭遇できるかもしれません。
存在を否定するのであれば、真正面から戦う覚悟と、戦った結果に対する責任を負う覚悟が必要ではないでしょうか。外側からヤジを飛ばして何の責任も払わないような卑怯な人間にだけはならないようにしたいところです。責任を負えないのなら何もするな、何も言うな、というお話です。
存在しているものは存在してしまったのだから仕方がないのです。交通手段の中でも自動車と電車の存在は、必ずしもすべての人々のために幸福をもたらすわけではないですよね。交通事故で怪我をしたり死亡したりする人たちが毎年いますし、駅のホームから飛び降りて死ぬ人も後を絶ちません。
都心部の駅ホームは大方ガードが設置されていますが、近年見られる電車の人身事故は、田舎の無人駅までわざわざ移動して飛び込む人が増えているそうです。
残念ながら、誰一人として死を選ばなくてもいい社会というのはまだまだやって来ないようです。えーっと・・・それってどういう社会なんでしょうね?安楽死の必要性が叫ばれていますが、これは真逆の議論でしょうか。背景に抱える問題によって論点は異なるかもしれませんね?
とにかくですね、あらゆる物事や人の存在は否定しても時間の無駄なのでやめましょうね?結局ですね、あなたが否定する物事は、全宇宙の万物の何万兆分の1以下のものでしかありませんので、もっと時間を有効に使いましょう。
人だけで言っても、いろんな人がいるじゃないですか。少し違って見える人をいちいち否定してたらあっという間に人生が終わってしまいますよ?その狭い空間にいる「変わった人」を否定している自分を客観視すると、めちゃくちゃ小さく見えます。外の世界を知らない愚か者のすることですよね、いじめとか。
ただですね、いじめを擁護するつもりはありませんけれども、いじめる側がいて、いじめられる側がいるから、いつまでも社会に議論を生むとも言えます。強引にいじめを封じ込めても意味がないんですよね。
結局どんな経験も、本人たちがそこからどれだけの気付きを得られるかが重要なので、単にいじめを否定するのはもったいない気がしますね?(・∀・)
存在には必ず起源があります。一番面白いのはやっぱり「人のルーツ」ですね。人の存在とはそれほどに価値があるとボクは思います。
※Chapter3Part1、いかがでしたか?次回のPart2もお楽しみに♬
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