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私のヒストリーと、医師としてnoteを始めた理由。

はじめまして!岡野喜一朗と申します。現在シンガポールの日系クリニックに勤務している眼科医です。医師としてはもうすぐ20年目、シンガポールに来て約6年、幅広くアジア在住の患者さんを診察してきました。(※現在はコロナのためシンガポールのみ)

まずは、私のnoteを読みにきてくださり、ありがとうございます!
ちょっと長くなりますが、私がnoteを通じて皆さんにシェアしたいこと、またそこに至るまでの想い、原体験などをお伝えしたいと思います。

1.今なぜ「アンチエイジング医学」が大切なのか。

私のnoteでは「アンチエイジング医学」「予防医学」について、エビデンス(科学的根拠)のある正しい知識をシェアしていきます。

アンチエイジングというと、特に女性の〝外見に関わること”のように思われますが、「抗加齢・抗老化医学」、つまり、年を取ることによって起こる、様々な身体の機能低下を防ぐことをいいます。

ではなぜ、私が眼科医でありながら、アンチエイジング医学に興味を持ち始めたのか?
ここ約20年間で、私たちの体内で起こる「老化」のプロセスが明らかになり、それを少しでも遅らせるアンチエイジング医学が盛り上がりを見せるようになりました。私は「加齢黄斑変性」という眼病を専門としていますが、この病気が、アメリカ・日本での失明原因の、それぞれ第1位・第4位となっているんです。

ところが、ルテインという物質のサプリメントなどを服用すると、発症を15%も予防できるというアメリカの研究が発表されたんです。(AREDS1,AREDS2研究)
薬のみならず、サプリメントが、もはや医療・治療の一助を担う時代になってきたんですね。

2.「救う」のに一番大切なのは「未病」治療。

一方で眼科医として糖尿病の方々の診察をしていたとき、眼科で治療をするには限界があると痛感することが多々ありました。既に、目の前の患者さんの血管はボロボロなわけです。私のところに来る前、ひいては病気になる前の「未病」のために何ができるのか?それこそが、最も大切なのだと身をもって痛感したのがきっかけでした。

そんな流れで「アンチエイジング医学」(抗加齢学)について学ぶことを決め、2018年に日本の抗加齢学会認定専門医となりました。私は学会や論文から、最新の情報をインプットしますが、医療者側で情報が留まっているんですね。でも、本来それを知るべきは患者さん。いろんな情報が溢れる中「何が正しい情報なのかわからない」というお声もあり、私が得たエビデンスのある情報を発信していきたいと思ったのです。

さてここからは、僭越ながら、私自身のこれまでのヒストリーをお伝えしてみたいなと。ちょっと長いのですが(笑)、ご興味持っていただけたならば、是非以下読み進めてくださると嬉しいです!

3.医師を目指したのは必然的な流れ。
ずっと興味があった、人の命を救う現場。

私は、少年時代にテレビ番組の『救急救命24時』…ちょっとショッキングな治療場面でも、母とよく食入るように観るような子でした。医療漫画の『ブラックジャック』『スーパードクターK』を読んだり、学校の委員会でも保健委員をしたりと、身体・命に繋がることに一貫して興味を持っていたように思います。プラモデルも好きで、手先が比較的器用だったので、高校生になった頃には、外科医に憧れるようになりました。

目標大学の医学部に入るために一浪を決め、猛烈に勉強する日々。時には予備校に行く道中、吐きそうになるくらいに…(笑)。
成績が振るわなくなると、東京・御茶ノ水の三省堂書店で、『解剖学アトラス』(人体解剖の教科書)を立ち読みしてやる気を絞り出していたのも、今では良き思い出です。

大学は東京慈恵会医科大学医学部に。興味が人を強くするんでしょうか、解剖学はクラス内でもかなりの上位成績を取れていたことも後押しし、少年時代からの夢だった、外科医(脳外科・心臓外科)に進んでいこうかと思っていましたが、産婦人科に新たな興味が出てきたのです。なぜなら、そこは「生」と「死」の双方に寄り添える、唯一の科だからです。

4.卵が飛んでくるかと思った葬儀…28歳の患者との出逢いが医師としての原点になった。

その流れで研修医として初めて担当した患者さん(美咲さん・仮名)との関わりが、医師としての原体験に…。
美咲さんは、28歳で子宮頸がん。
結婚、出産する夢もあったので、放射線治療と抗がん剤でのサポートでした。当時は研修医だったので、自分にできることは限られていましたが、毎日のように彼女の元を訪ねて会話をすることにも努めました。しかし、その現場から研修場所が外れて1年ほどたったある日、願いは叶わず…そして、お別れの会に呼ばれたのです。正直、水か卵をぶつけられるのではないかと思いながらの参列でした。ご親族からしたら私は「命を救えなかった医師」にしか見えないと思っていましたから。

しかしその日に、美咲さんのご両親からこう言われたのです。
「娘は最期の日、岡野先生のお名前を口にしたんです。ありがとうございました。」医師という仕事をしていくうえで、初めての大きなインパクトになった出来事でした。亡くなる寸前の方が、1年も前に治療にあたっていた自分の存在を認めていてくれたことにぐっときましたし、自分の仕事というのは、受け持つ患者さんのご家族の、まだそこから続いていく人生の救いになるのだ、ということを体感したのです。

その後もいろんな現場をまわった中で、眼科医になることを決めたわけですが、他の科での病気治療と比較すると、患者さんご自身が、〝治療の結果をダイレクトに「視覚」で感じられること″に、やりがいを感じたのがきっかけでした。

5.アジアの医療の発展。私が救いたい人のために挑戦したいこと。

その後、網膜遺伝子治療の研究のために渡米もし、広い技術と視野を得て帰国。自分は研究者より臨床医として邁進したいという思いが日々強くなっていました。しかし、日本の技術力や規模に物足りなさも感じるようになり、海外で医師として自分をもっと突き詰めてみたいという思いから、シンガポールへの渡星を決意しました。

でも、ここでは医療の法律が日本と異なる…日本人医師は日本人しか診察できない上、手術の執刀も許されていない。ところが日本の眼科医の腕は、ローカルのドクターに劣らぬ高いスキルもセンスもある。今後日本の人口が減っていく中で、日本の医師のマンパワーを、益々人口が増えていくアジアの医療経済に生かしていく必要があると思うし、そのステージを作りたいという一つの夢を抱くようになりました。
2016年からコロナパンデミックまで、東ティモールの眼科医療ボランティアに参画し、自分にはもっと救える人・救いたい人がいるんだと現地で感じたことが、新たな夢に繋がったように思います。

6.早く飛び込みたい中国、そして中東。

色々と語ると長くなりますが(笑)、少しだけプライベートも。
もともと大学まではサッカー少年だったのですが、ケガも重なり、この数年は自身の体力・筋力作りのために、週2-3回は必ず運動するようにしています。仕事柄、集中力を保つにはやはり、体力ありき。そうしたメンテナンスも日々意識しています。
それから、週末には中国語のレッスン。勤務のグループ病院が中国の上海・重慶に病院を新設し、眼科手術の依頼を受けている流れで、中国現地でのチームや患者さんとのコミュニケーションに役立てるよう、準備を始めています。

そんな最中のコロナ禍。
自由に国境を越えられず、なんだか翼をもぎ取られた気分ではありますが、チャンスがあれば、これからは中東のアブダビなど、ライセンスフリーの国へも幅を広げていきたいと思っています。

「長くなりましたが、最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます!!」

このnoteは私個人のプライベートのメディアという位置づけで、内容や見解は、勤務先の病院とは関係ありません。また、記事内で紹介していく商品等は、純粋にご紹介しているに過ぎず、販売目的等一切ございません。私自身が、意志を持って行うボランティア活動としてnoteを始めました。

これは、眼科医とは別領域の「アンチエイジング専門医」一個人として発信する「新しい挑戦」だと思っています。もし、皆さんの健康長寿の一助となれたなら、医師としての本望です。宜しければ、「スキ」や「フォロー」などで応援していただけたら、励みになります!

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