書きたいだけの
綴る。
言葉の「選び方」を褒められた。
インターネットでは写真と文章を主に視覚から感知する情報のみなので、少ない中で褒めポイントがあるとすれば当然と言えば当然で、SNSでやり取りする人にはそこらへんを褒められる。
褒められる時は毎度、さらーっとした気持ちだ。
特に温かみやプラスに感じない。マイナスよりはやっとゼロになれたような感じはする。喜べないのもどうなんだとも思いながら。
直接的に人と知り合ったとして、視覚的に外見を褒められたとしても、むしろ緊張する。褒められ方によっては怖い時もある。「関心を持って見られている」「感想を抱かれている」ということが知れるので、「知りたくなかった」とも思う時がある。
私の嬉しさはなんだったかな。好きなものは。
また、ぼんやりとした意識の中で即答できないくらいにはよくわからなくなってきた。
自分から能動的に求めていないから、そう思うのか。欲求が湧いたとしても、それが一時の気分の妄想的だと現実には欲しくなくなってしまう。
本の帯を読んで雰囲気を想像して本編を読まずに満足してしまうようもので。想像と内容との答え合わせをしないまま。
欲を言えばきっとキリがないのだろうけれど、絶対的に欲しいかと言うと、物理的にも経験的にも特になく。老いや病気や人権侵害などに生命が脅かされることを想像すると怯えるけれど、ずっとヒリヒリしてはいられない。
ただ、ぼんやりと「美しい」と感じていたいとか、「心地がいい」「この場を許されている」という穏やかな存在感覚。
昔の写真を見返していて。
私の視点で撮ったものだとしても、それはもう過去であり写真でしかないので、遠くなった今となると綺麗にも見える。その頃の自分の暮らしの状況や内情などの余計なものが遠く見えなくなるからだ。正しく写真に切り取られて、写らない部分は忘れられている。
自分を写した写真も少なくて、何を感じて、何を思うかが都度変わりやすいので、不安よりは今の自分の見え方をくっきり自覚しておくために写真を撮る。
まったくの左右対称の顔も存在しないけれど、左右の感覚が少し歪んでいるので、反転すると少し曲がっている。常に不安や不満というものはあって、不完全な存在を許すこと、努力不足や欠損を気にするとキリがないので、時間の中で終わりは来る。決められた時間があるのなら。
しばしば公開していない自分の情報でも、どこか見透かされて知られているという疑心暗鬼に囚われる。そう思った時は疑わない。
ふと道端や街中、電車の中などで、居合わせた人物の服装や髪型を見て、切り揃えられたばかりの襟足や知っているブランドの服など、その視覚情報から余計な想像に至ってしまったりする。
顔に傷のある人。形のわかる大きな荷物を運んでいる人。
視覚情報から想像できる、個人の中の知識、偏見。
そんなものに怯えている。
SNSの情報はほとんどスマートフォン越しのものである。自分の生活圏内とスマートフォンの機能と編集アプリ内で表現できるものに制限される。
もうひとつに私の中の情報と能力にも左右される。
ほとんどの人はスマートフォンを指で操作できていると想定される。
指の形まで想像できるだろうか。入力されて公開された文章から、その人の脳内の仕組みや声、顔立ち、年齢や性別まで。それは無茶な話だ。
私の中にあるもので伝わっているのはほんの一部の情報で、それに安心していい。
暴かれる時は結局、表現というフィルターが被る。
それは画面越しの世界でも肉体を通した世界でも同じ。精神や脳内という存在に決まった物質的な質量や形がないから、視覚的に感知できる肉体と動作と音声をそれとする。
ここでも語彙や言葉の選び方は伝わるのかもしれない。
どうすれば私という私は現れるんだろう。現れたら隠れてしまう。どうすれば私は恥ずかしさから逃れられるんだろう。素直と呼ばれても言葉にすれば言葉なだけだ。
綺麗なものを拾う人には私は重なる部分で綺麗な言葉になって、汚いものを拾う人には私は重なる部分で汚い言葉になって、やっぱり「考え過ぎ」。
嫌う必要がないように過ごしていよう。
怯えず浮かれず。
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