うちの猫ちゃんの話をしよう
猫ちゃんが我が家にやって来てから、そろそろ9年が経とうとしている。
彼女はおそらく10歳ごろのはずである。信じられないことではあるが、どうやら猫ちゃんはいつかいなくなってしまうものらしい。そのときのことを考えただけで、わたしはすでに高熱で寝込みそうになってしまうので、実際にそれが起きたときに何が起きるのか想像も難しい。
だがおそらく、自分の性格上、わたしは写真や動画を眺め返し、何かしら猫ちゃんに関する文章を書くに違いない。そして、もっと猫ちゃんの写真や動画を撮り、文章にして残しておくべきだったと後悔するだろう。これから毎日撮影してもそう思うし、何文字書いてもおそらくそう思うので、その時がきた自分への慰めのために、まだ彼女が元気なうちに一度文章にまとめて残しておくことにした。
誤解のないように言うと、現在猫ちゃんはなかなか元気で、兆候らしいものは、今のところまったくないように見える。
猫ちゃんは、全身黒の半長毛をしている。避妊手術の痕なのか、下腹部にふたつまみほど白い毛がある。黒の色味はかなり濃いのだが、日向で透かされるとほんの少し赤みの茶色がかっていて暖かそうな色合いだ。背中側はさらさらとしていて、お腹側はやわらかいアンダーコートが手のひらが埋まるほどたっぷりしている。毛ばかりふわふわしているが、中身は小柄で3.5キロほどしかない。シルエットは冬毛のタヌキのようなのに、洗うと大変痩せっぽちで可哀そうなくらいだ。尻尾も毛が長いが、アンダーコートは少なめなので試験管ブラシのように見える。尻尾自体はあまり長くなく、付け根のところでぽきんと背後に向けて折れ曲がっている。これはカギ尻尾で、特に支障はないのだそうだ。猫は機嫌がいいと尻尾をピンと上に立てるのだが、猫ちゃんがそれをやってもカギ尻尾のせいでまっすぐ背後に向かって尻尾が伸びるだけになってしまう。くねくね動かすのもあまりしないので、尻尾の表情はあまり大きくはない。頭は逆三角形で小さく、しかし頬や首の毛皮が広がって丸顔に見える。目ばかり大きい。ごく軽く黄緑がかった黄色い目で、左の6時のあたりにオレンジや褐色の混じった斑点がある。サクラ耳のカットがはいっているのも左耳なので、左から見るほうが少し野性的な雰囲気に見えて、それも素敵だ。本人はまるっきり怖がりの小心者なのでそう見えるだけだが。
サクラ耳のカットがあるのは元々彼女が野良だったからで、ちょうど1歳ごろに怪我をして里親さんに保護されたからだ。その際避妊手術も受けたのだが、どうしても夜鳴きが止まらず、飼い猫になるのは難しいと判断され、避妊済みの耳カットをして地域猫としてまた解放された。保護された場所に戻されると、彼女のところに子猫たちが駆け寄ってきて、それで子供を探して夜鳴きしていたことがわかったのだと聞いた。
里親さんは、猫ちゃんは手術済みなのだから、子猫をうまく育てるなら野良のままでもいい、いつか子猫たちもTNRできればそうしようと思ったとのことだ。が、残念ながら猫ちゃんは野良で生きていけるほど強い猫ではなく、また喧嘩に負けて怪我をして、とうとう子猫たちごと再捕獲となってしまった。
そうして、子猫たちごと捕まったことで猫ちゃんの夜鳴きは軽減したため、飼い猫として保護猫の飼い主募集サイトに掲載された。が、子猫たちは一時引き離されてしまった母親に甘えすぎており、猫ちゃんが育児ノイローゼ状態になったことで、ばらばらの家に保護されるように手配されたのだそうだ。
その際、ネットで募集を見て、わたしが応募した。ひとり暮らしの男性でも応募できる子は珍しかった。今はどうかわからないが、当時の募集サイトでは「猫が男性の低い声を怖がるので、男性一人暮らしはNG」という風習があったので。
ちょうど子猫の募集が増える時期だったようで、わたしが見たとき、彼女の写真は子猫たちの募集にまぎれてしまっていた。大人の猫は子猫に比べると保護先を見つけるのが難しいと聞いていたので心配したのだと思う。元々、個人的には個性が決まり切っていない子猫よりも、すでに性格がある程度はっきりした大人の猫を引き取りたく思っていたこともあり、すぐに連絡をした。だがわたしの心配は杞憂であって、猫ちゃんは自前の美貌できちんと大量の申し込みを受けていた。たまたま返事が早かったためにわたしが最初にお見合いできることになり、一か月後我が家にやってくることに決まっただけなのである。
里親さんの自宅で初めて会った、というか見かけた猫ちゃんは知らない人間と子猫から逃げるためにクローゼットの上に縮こまっており、子猫のほうはビビりの母親に似ず大変社交的で、人の足にしがみついて爪を立てて登り、パーカーの紐を噛んできた。この子猫が四六時中下腹部に吸い付いてきたら、残念ながら毎晩夜鳴きして子猫を心配していた優しき猫ちゃんといえど、育児ノイローゼにもなろう。
猫ちゃんは2度も喧嘩に負けたからか、それとも捕まって手術されたのが怖かったのか、大変ビビりであった。お気に入りの薄い座布団1枚と一緒に我が家にやってきて、約2週間の間ほぼわたしに姿を見せなかった。ソファの下で縮こまり、人がいない時を見計らって匍匐前進のようなへっぴり腰でこそこそと食事と給水とトイレを済ませ、そそくさと戻っていくのを2週間続け、そのあとでようやく部屋の中でも過ごせるようになった。
それから、約9年が経つのだが、驚くべきことに猫ちゃんはまだ慣ききっていないように見える。未だに毎年、「なんだか去年よりも懐いたのかも」と感じるからだ。はじめは抱っこも嫌いだったし、触ってもいい場所は耳の後ろや頬や背中くらいだった。わたしが眠るときも自分のベッドで眠っていたし、膝にも乗らなかった。今は寒くなると人の膝や寝ている顔の横で暖を取りに来るし、撫でてほしくて前足でちょんちょんと触って催促してくることもある。今年は寝そべっているとお腹の上に遠慮がちに乗ってくるようになり、未だのびしろを見せている。一体猫ちゃんの懐き度はどこが天井なのだろうか。ボージョレのような猫である。
冬毛タヌキのような、と前述したのは本当にその通りなのだが、頬からうなじや胸にかけてたてがみのように長い毛がなびいているので、特に昼間瞳孔が細くなっているときの猫ちゃんは、なかなか威厳があるように見える。しかし本人の性格は石橋を叩きまくって渡り、すぐさま速足で戻っていくようなタイプだし、ベッドに飛び乗ろうとして足を踏み外してズデンと落下し、毛づくろいをして失敗をごまかすようなことをよくやる。前に手ひどく失敗したので机に乗ったりせず、窓の桟や猫ちゃんトイレの上にしか登らないので、わたしの使う場所とはスペースをうまく住み分けてくれている。
猫ちゃんは掃除機と来客が苦手だ。わたしよりも他人に懐くような姿を絶対に見たくないのでそのようなことになったら懐かれた来客は生涯出禁にするほかないのだが、今のところそういった予兆はまったくない。誰に対しても押入れの奥やベッドの下に隠れてしまい「ひどいことをされた」という目つきで睨まれている。掃除機をかけるときもそう。動物病院から帰ってきたときもそうである。大きな知らない荷物なども苦手で、本当に慎重派で臆病なのだと思う。
食は細く、あまり食事に興味がない。ちゅーるやシーバは好きなのに、一気に食べるということは絶対にない。ちゅーるでさえも半分くらいで興味を失ってしまう。あとでまたもらえると信じ切ったように安らかな顔で「もういらない。耳の後ろを撫でてほしい」という催促をされる。本当は同じ体格の猫が食べなければいけない量の6割程度しかご飯を食べない。大変に心配しているし、何度か検査もしたのだが、なぜだか元気そうだ。年齢が上がって、お腹にもルーズスキンができている。燃費がいいのか、運動しなさすぎるのか。運動はわたしも苦手で絶対にしたくないので気持ちはわかるのだが、もう少し食い気のほうは見習ってもらいたい。人間のご飯も、わたしは少なくともあげたことがないので、ほとんど欲しがらない。鯖缶やサラダチキンを食べていると「それは私のご飯では?」という顔で覗いてくるが、代わりに猫ちゃんのおやつやご飯をあげるとそれ以上ねだることはない。
かまってほしいときには合皮のデスクチェアで爪を研ぐ。そうではないときは段ボール爪とぎでできたサークルベッドでばりばりやっている。サークルベッドの中にいるときに励ますような感じで背中を叩くと、必ず一生懸命に爪とぎをし始める。なので、爪を切った直後は必ずそれをやってバリをとってもらう。もちろん彼女も例にもれず爪切りは苦手ではあるが、人間が自分で爪を切った後に猫の爪を切ると納得するらしいと聞いて、嘘か誠かわからないが情操教育の一環として自分の爪を切って痛がらない姿を見せてからやっている。噛んだりはしないが、手を引っ込めようとするので、大人しくしていられる間に素早く2、3本切り、じたばたしたら次の機会を狙っている。そういうとき、猫ちゃんは威嚇したりはしない。哀れっぽい情けない声で鳴く。助けを求めているような大変人聞きの悪い声なのだが、残念ながら誰も助けてくれない。以前動物病院に連れていかれてあちこち検査して爪をバッチリ切られたとき、人見知りのはずの猫ちゃんは、保定してくれている看護師さんの腕を頭を下げて舐めていた。命乞いのようだった。
そういえば以前、動物病院で品種を尋ねられ、当然雑種と記載したが、診察時のカルテには「雑種(洋猫)」と書かれていた。おそらく長毛気味であるためそのように記載されたのだろうが、洋猫であるという以上血筋に血統書的なエリートの血筋のあるところを想定して、そうでしょうそうでしょう、とうなづいてしまった。別に和猫と洋猫の間にグレードがあるわけではないしどちらも違った愛らしさがあることは間違いないが、わたしは猫ちゃんに対してどこぞの高貴なご落胤であり、野良で若いうちから子供を生んで苦労をしたが、根は世間知らずで臆病でおっとりとしたお嬢様であるという勝手な印象を持っているから、裏付けのような記載をされて喜んでいるのである。飼い主というのは大抵大なり小なり、こういうバカなところがあるものなので。
バカの飼い主の見立てでは、その高貴なお血筋のひとつにラグドールが混じっているのではないかと考えている。色合いはまったく異なるのだが、どことなくお顔立ちや毛並みや体格にそういう片鱗がある。痩せっぽちの鶏ガラのように細い脚のわりに、彼女はなかなか手足が大きい。爪もしっかりしていて、なぜこんな立派な爪でおもちゃの一つも捕まえられないのかわからないのだが。猫ちゃんはいつも左右に振られているおもちゃを大きく両手を広げ、目で追いかけてひげを膨らませているだけで、なかなか捕まえられていない。楽しそうなので別にかまわないが、運動音痴なのかもしれない。ドスンバタンと音を立てて、ハッと我にかえると、別にどうもしていませんよ、というふりで毛づくろいをする。
毛が長いといっても、顔の中心はそうでもなくて、鼻梁はとくにベルベットのように短い毛が生えそろっている、そこを毛の流れに沿ってそうっと撫でると鼻先を上げて喉をそらせる。鼻から額、額から眉や、耳の付け根、一番好きな耳の後ろと頬のあたりを撫でて、上唇のひげの付け根を撫でつけ、背中や脇腹は広くなでおろし、乗り気でふざけたそうなときには逆さまにわしわしと撫でる。膝の上に座っているときは背後から喉やお腹を撫でて、両前脚をマッサージするように軽く握り、肩も揉む。猫が肩こりするかわからないが、逃げないところを見ると悪くないらしい。たくさん撫でていると手が毛だらけになるし、お返しの毛づくろいをして手をべちゃべちゃにするので、そこにさらに抜け毛がつく。気づくとかなり長い時間猫ちゃんを撫でたり吸ったりしていて、そのあたり中毛だらけになっている。定期的にブラシ付き手袋で毛をとっているのに、どれだけの毛がこの小さい生き物の体に生えているのか。『楢山節考』を書いた深沢七郎の別の作品だったか、詳しく思い出せないが「なんと女の頭には多くの髪が生えているのだろう」というような一説を読んだ気がする。農村部だったか、結婚した男がほとんど初めて同年代の女性をまじまじと近くで感じた際のシーンだったような気がするが。猫ちゃんをくしけずっているといつもそんな一文を思い出す。
これを書いている間、猫ちゃんは膝に乗り、デスクチェアと背中の間にはさまり、ベッドの上に置かれた彼女のためのクッションでうたたねし、時間によって一番日当たりの良い場所を選んで毛づくろいし、ご飯を催促し、少しだけ食べて放置し、水を飲み、トイレに行き、爪を研いで、うとうと夢を見て寝言をいくつかフニャフニャと漏らし、大あくびをし、大変忙しく暮らしている。次に猫ちゃんのことを書く時にも同じほど周りをうろついてくれるようであってほしいと思う。
彼女がいなくなった時、何か書くとしたら「以前にも書いたことだが」と毎度前置きがつくようにしたい。家が汚く写真も下手であまり撮らないのだから、せめて自分が楽しくできる方法で猫ちゃんを記録しておくほうがいい。
感傷的な気持ちで猫ちゃんを撫でるのだが、今は撫でられる気分ではないようで、そういう時に限って後ろ足で手を押しのけられてしまうのだった。