ボトルシップ
「そういや、子供生まれたわ」
「へぇ、第二子か」
「うん。俺もそうだけどさ、お前も反応薄いよなぁ」
送ったメッセージにはすぐ既読がついた。
今、電話を掛けたら、アイツは出てくれるだろうかと彼は考える。
友達として一言、指先ではなく、声で直接伝えるべきではないかと悩む彼は、喫茶店の窓際の席でカレーライスを食べていた。それは、煮込みすぎて最早、豚肉の食感しか残っていなく、実家のカレーを想起させた。
窓際にはボトルシップが飾られている。
外ではあまり見かけないため、何となく気になってしまい、マスターの趣味だろうかと、考えているうちに彼の興味は親友の子供が産まれたことから、ボトルシップへ移っていく。
縦に置かれたブランデーの空きビンの中には一隻のヨットが収まっている。
ボトルシップとネットで検索し、出てくるのは、どれも映画に出てきそうな大型客船ばかりだが、窓際のものは随分と小ぶりだ。マスターはまだこの趣味を始めたてばかりだった。
ピンセットを使い、一つずつ部品を拾い、接着する。マスターは仕事以上の集中力を費やし、没頭した。目頭を時折、摘まみながら夜通し取り組むこともあった。
一か月後、やっと模型が完成する。だが、船体に対してマストが垂直ではなく、少し傾いていた。そのことに気づいたのは、達成感に浸りながら窓際に飾った3日後だった。
以来、マスターは客がボトルシップを見ているのがわかる度、緊張し、意識がどうしてもそちらへ逸れて、その度、妻にわき腹をつつかれてしまう。
マスターからの視線が背中に刺さり続けているが彼は気付かない。そしてマストの僅かな傾きにもまた、気づいてはいない。
彼は月曜の朝にふと見かけた猫の寝姿を見るように、ボトルシップを眺めている。
彼は他人から一気に指示をされると、何から手をつけていいのかわからず、パニックになってしまう。その為、仕事を変えては辞めてを繰り返してきた。そんな自分に嫌気がさして夜の公園で泣くことも何度かあった。
そんな彼は今、知り合いに紹介してもらった会社でライターをやっている。向いているのかは未だ分からないが、パソコンの前に座ると自然と手は動いた。
三十五歳、独身。
波風のない穏やかな毎日が続いている。
趣味の喫茶店めぐりも再開できるようになり、職場内の人間関係で悩むことも少なくなった。
彼はそれなりに幸せだった。だが、カップに指先が触れないように取っ手を摘まみ、恐る恐るコーヒーに口をつけるとき、向かいに誰かいたらなと、時折思うことがある。
人との関わりは、良いことだけが起きるわけではない。穏やかに保てていた自分の心に波風を立て、揺さぶってくる時もある。そのため、波が大きければ、風が強ければ、マストが折れることもあり、船体に穴が開くことだってある。だが、ボトルシップはたとえ、マストが少し傾いていても折れない。なぜなら、ガラス瓶が外界から守ってくれているからだ。
マストが傾いたヨットを眺め続けてきたマスターも、最近は処女作として見るならば可愛げがあるんじゃないかと思い始めている。
彼はボトルシップを眺め続けている。お前はいいよなと羨みながら、彼は今の自分もそうかと思う。すると、なぜだかガラス瓶の中に飾られた一艘が頼りなく見えた。
彼は最後の一口を掬い、食べ終えると荷物をまとめて席を立った。会計を済ませ、店を出る。鋭く冷たい風が彼の頬を掠める。残暑はあまりにも早く立ち去ってしまったようだ。こうしている間も、冬は近づいてくる。時は容赦なく流れていく。
スマートフォンを耳に当てる。
繰り返される呼び出し音が彼の鼓膜を揺さぶっていて、
「あのさ、」
知り合ってから10年以上も経つ親友に向けての一言に彼は戸惑っている。乾いた風で彼の唇はかさついていた。