「海に眠るダイヤモンド」を見返す。
【2時間目】
海に眠るダイヤモンド(第1話)
①
塚原×野木×新井チームのスピード
すでに2回見返している。
塚原あゆこ監督・野木亜紀子脚本・新井順子プロデュースのチームといえば、アンナチュラルやMIU404などが有名だ。そしてミステリーや刑事物といったイメージが強い。だが、その布陣が日曜劇場にやってきた。
これは見逃せまいと思い、バイト帰りの電車ですぐに視聴を始めた。
相変わらずだ。
相変わらずこのチームの物語は速い。
なぜこれほどまでに展開がスピーディーであるにも関わらず、魅了されてしまうのか。そんなことを考えながら視聴していると気づいたことがあった。
まず、動のシーンの後には必ず静のシーンが差し込まれているため、常に緩急が生まれているということだ。
僕は常々思っているが、人々を惹きつけるのにギャップという要素は非常に効果的だ。それは何も映像だけでなく、音楽、小説、絵画、全ての表現物に通ずるだろう。
この物語でいえば、端島の炭鉱夫の過酷な労働環境を映し出した後に、舞台を現代に移して家族が長崎ちゃんぽんに舌鼓を打つシーンが差し込まれている。こうして緩急をつけることによって両シーンが際立つ編集がなされている。
また、この物語はいわゆる、軍艦島と呼ばれた端島の人々が生きてきた時代と現代を行き来しながら人間ドラマが繰り広げられる。こういった時代の軽快なスイッチングも魅力の一つと言えるだろう。
次に気づいたのは、展開のスピードを優先させてシーンを端折っているわけではないということだ。
良質な物語を生み出すとき、精査は必ず必要だ。また選出したシーンや順番によって、素材が同じでも印象はいかようにでも変わる。
その点において、このドラマは本当に過不足がないように見える。
改めて思う。やはり作り出したシーンに優先順位をつけるのは物語を作る上で一番重要な工程だ。
以上のことからこのチームの物語は展開が本当に速いのではなく、シーンに詰め込まれたギャップに魅了されているうちに次のシーンに移っているため、鑑賞者はまるであっという間に終わったように錯覚してしまうのではないかと思った。
当たり前だが、この体感速度は多くの情報を一度に映し出せる映像だからこそなせる。だが僕が書くのは小説だ。多くの情報を描写するとなれば、行数は嵩み、説明ばかりで退屈になることは必至だろう。
だからこそ、緩急は大事だ。
やはりこれだけは全ての表現物に通じている。私小説や純文学ならまだしも、エンターテイメントに則した表現をしたいならこの要素は外せない。
このシーンを強調したいならその前を引っ張ってみる。
逆にここは伏線となるシーンだから埋もれさせるようにサラッと書く。
そういったリズム調整が大事なんだと学んだ。
②
ナレーションや舞台セットだけに
頼らない時代背景描写
物語の第一話というのはいかにわかりやすくその世界観を語り、受け手に本筋を追わせるかが課題となってくる。
その背景部分を一手に担ってくれるのがナレーションだ。これは小説にも共通している。だが、このギミックを多用すると物語は途端につまらなくなる。
海に眠るダイヤモンドを視聴していると、なんてことないシーンが目についた。
それは主人公の鉄平が炭鉱夫として働く兄、進平と再開するシーンだった。鉄平は兄と喋りながら、何のきなしに外壁にサイダー瓶の王冠を引っ掛けて開栓した。
現代では必ずではないがほとんどの人々が、栓抜きを使って開栓する。だが鉄平は外壁に引っ掛けて慣れた様子で開栓した。
僕はそのシーンを見て、そこで暮らす人々が自然にとる行動にこそ、時代やそのキャラクターの感性を物語る力があるのではないかと感じた。
ナレーションや説明文を多用するとつまらなくなるのは、キャラが生きていないように感じてしまうからだ。であれば、動かすしかないし、その世界で何を思って、どう暮らしているかを描写するしかない。その工夫なしで魅力的なキャラクターは生まれないだろう。
③
「あなた、人生で本気で逆らってみたことある?」
物語の中盤、謎の老婆、泉が玲央に向かってそう言うシーンがある。
「本気で逆らう」とは何だろうか。
そう思った時、僕は最近バイト先の方が口にした一言がよぎった。
「今の日本人で、死ぬ気で頑張ってる人なんていないでしょ」
その人はそう言っていた。それは大袈裟すぎると僕は思った。
だが、反論できなかったのは時代のテーマが「頑張る」から「共存する」に移行していっているように感じたからだ。
死ぬ気で頑張る。
言い換えるならば、本気で頑張る。
海に眠るダイヤモンドは戦後が舞台である。それは僕の祖父にあたる齢の人々が生きていた時代だ。現代から戦後に思いを馳せるにはあまりにも遠い。だから正直、「何となく大変だったのだろう」としか思えない。
敗戦した日本はGHQによって大まかな方針が決まったものの、復興というあまりにも大きな課題を抱えていた。目の前に広がるのはどこまでも続く瓦礫だ。そんな荒地を開拓してきた人々の意志はまさに本気と言えるだろう。
対して現代の日本。直近の出来事で時代性まで食い込む事柄といえば、やはり、コロナウィルスによって起きた世界規模のパンデミックだ。おそらくこの出来事は311のように日本に根深く刻まれ、物語にも多大な影響を今後も与え続けるだろう。
それは人々の考え方をガラリと変えたからだ。
原因不明のウィルス蔓延によって、僕たちは環境に逆らえなくなった。人間が自然を相手どれるわけがない。よって共存を余儀なくされた。
つまり、人々の考え方が「環境に逆らう」から「環境と共存する」に移行していった。その発想の転換は素晴らしく、またあの状況下では仕方のないことだったと思う。
だが、どうだろうか。
共存する、あるいは慣れるという考え方を何かもに当てはめるのは間違っているのではないか。
作品の話に戻るが、海に眠るダイヤモンドのキーワードは何となく「忘れてしまった本気」がテーマのような気がする。
なぜなら端島で生きている人々を目にした時、炭鉱夫はもちろん、ちゃんぽんを作る亭主も、子供を育てる母親にも、あるいは演者にすらも、開拓者のような意志が瞳に宿っていると感じたからだ。
そういった本気の人々の活劇を日曜に刮目できるのは僥倖と言えるだろう。
相変わらずエンディングテーマの入りが素晴らしい。