9/14「灯台と会話」
LIGHTHOUSEを見たので
思ったことつらつらと、書いていきます。
LIGHTHOUSEとは、星野源さんと若林正恭さんがお互いの悩みを持ち合って、ただ話すだけの番組です。
多分、ラジオが好きだからだと思うんですが、表現者の方がただ話すだけの番組って個人的にはすごい好きで、友達の話を又聞きしているみたいでいいんですよね。
こういう番組、もっと、もっと増えないかな。
おそらく今抱える苦悩や迷いの震源地であろう、高円寺・阿佐ヶ谷をテーマにした初回。
よかったです。
すごく抉られて、よかったです。
個人的に響いたのは「いつも芸を介して、人と繋がってきた」という星野さんの発言と「(別に深刻なつもりもなく)できなきゃ死ぬしかないな」という若林さんの発言でした。
このシーンが予告に切り取られ、テロップ処理されていたからこそ、視聴を決めたと言っても過言ではありません。
そうなんですよ。
「(別に深刻なつもりもなく)」なんですよ。
何が言いたいかっていうと「できなきゃ死ぬ」って雑に言い換えれば「命を賭ける」ってことにもなりますよね。
でも、
別にそんな意気込んでるつもりはないんです。
いやぁ、お二人の発言を聞いた時、
「そうなんだよなぁ」って思わず呟いちゃいましたよ。
僕も、星野さんが言っていた通り「芸を介して繋がってきた」実感がなんとなくあります。
人と人が話している時、「ああ、今、僕(私)は会話してるな」なんて思わないと思います。だけど、僕にはその感覚があります。
人間である以上、コミュニケーションを取らないとならない、その一番手っ取り早い方法が日常会話です。
「今日天気いいですね」とか「好きな女優誰?」とか「ご職業は、」など
日常会話は、沈黙の間であり、魔を埋めるための作業だと思っています。だからそういう会話をしている時、僕は「会話している」実感が薄いです。
じゃあ、いつなら会話してる気になんだよって話なのですが、それが「芸を通して」につながってくるわけです。
先日、「読者の好きな夏ソングを物語にする」という企画をやりました。これはスマートフォンの向こう側にいる顔も知らない相手と「会話」がしてみたかったから始めた企画でした。
だから僕にとっての言葉は「作品」そのものなんです。で、それを介して行うやりとりが僕が思う「会話」です。
作品って、自分を見つめ、時には睨み、創り出していくものだから、その作品ができた時、やっと本音が言えた気がするんです。
だからこそ、それ以外の会話はどこか上澄のような気がしてならなく、「芸」というフィルターを通してでないと人と繋がってる実感がしないんです。
多分、星野さんはこんな、こんがらがった意味を含ませてはないと思うんですけど、でも「芸を通して人と繋がってきた」という発言を聞いた時、何にも見えない暗闇の中で突然、手を取られたような安心感があり、とっても嬉しかった。
だからこそ、別に信仰な感じではなく「できなきゃ死ぬしかないな〜」て思っちゃうんです。
だって、切り捨てて、切り捨てて残っていたものが、これなんですから。
斜に構えたことを書きましたけど、結局は、あれなんです。
言い換えると「それでしかコミュニケーションが取れない」ってことなんです。
難儀なもんですよ。
ま、自分で自分の首絞めてるんだけなんすけどね。
僕が思っているコミュニケーションのとり方は「昨日行ったあのお店美味しかったね」って言えばいいだけなのに、「昨日行ったあの店をテーマにした作品書いてきたから、読んで」という感じです。
こんな面倒な奴と話したいな、知り合いたいなって思わないですよね。
ほんと。
じゃあ、変えればいいじゃん。
て、思ったあなた。
その通りなんですよ。そう思って色々やりました。
でもねー、自意識がね、脳から剥がれなくて、
あのさ、実家とかにある大昔に貼ったシールあるじゃないですか。
こう爪でさ、カリカリってやっても全然剥がれねぇのってやつ。
あの感じと一緒で、いくらカリカリやってもさ、ダメなんすよ。
だから、もう認めちゃおうと思って、
そしたらほんの少しだけ楽になった。
人間性がないってことを認めたら楽になったなんて、
皮肉なもんですよ。
そうなったら「言葉」を磨くしかないんですよ。なんとか僕がしたい「話」を聞いてもらうために、相手からの返答がもらえるようにやるしかない。
だからさ、人と繋がってるって思えるこの方法がダメなら死ぬしかないじゃんって話なんですよ。
ぼっちでいるのすごい好きなんだけどさ、やっぱり誰とも繋がれないってそれこそグッバイしたくなるほど辛いと思うんです。寂しいと思うんです。
だから誰のためでもなく仕方なくさ、「ただ光って」いようかなって。
そう思ったり、思わなかったりの毎日です。
おわり