【努力不要論】と【悪戦苦闘能力】
池江璃花子選手がオリンピックに選ばれたた時「努力は必ず報われる」と言いました。そこで中野信子著『努力不要論』を読んでました。以前から「努力したら負け」とまでたたみかけるこの本が気にかかっていました。『巨人の星』や『明日のジョー』世代としてそんなことあるかと。しかし、この本には「自分を痛めつけることを努力だと思っているのが日本人という傾向はあるようです。」と書いています。そうかもしれません。
また、この本には「『努力は報われる』は半分本当である」と書いてあり、表紙のタイトルと合致しません。この本の「努力」には著者が設定する条件や定義が含まれるのでした。常識と異なるドキリとさせるタイトルはタブロイド誌のようで好感を持てません。
「努力という言葉を広義にとらえてみますと、彼らは、人生を楽しくするために非常に努力しているということがいえるでしょう。」(彼ら:フランス人のこと) 「努力をしない努力」のような表現はありがちですが納得させます。泥臭いことはするなという意味かもしれません。一方、立花隆の「悪戦苦闘能力」という言葉はともするとスマートにだけ振る舞おうとすることへの警鐘として私のような者にはどすんと来ます。
筆者は「ひとは見返りを求めるとろくなことがない」と言う明石家さんまさんの発言を支持しています。努力しているのに見返りを求めない心境は本当に在るのでしょうか?仕事は軽妙洒脱に楽しんで才能だけで遂行する類いのものだけはありません。たとえばオリンピックに出るには日々の鍛錬が必要です。今東京五輪を見ながら書いていますが多くの選手が「努力」という言葉を口にしています。メダルを取れなかったら悔しくて涙して当然です。そのような彼ら彼女らに「見返りを求めるな」と言えるでしょうか?どん底を否定してはなりません。むしろそここから這い上がってくる力こそが大事だと思うのです。だから多くの人が池江選手や序二段から返り咲いて横綱になった照ノ富士に感動したのです(一時は酒浸りだった)。
また、「無駄な努力」は事前に判断できないことも多く、後でうまくいった時は無駄ではなかったと思うものです。そして成功は必ずしも才能が呼ぶ努力だけで成り立っていないとも思うのです。その上成功は「生きる」営みにおいてはほんの一部分です。吉田沙保里さんは「負けて良かったわけではないが負けた人の気持ちがわかった」と打ち明けています。もし成功や勝ちだけの人間がいたら相当に嫌な奴です。失敗と悪戦苦闘はヒトという生物に仕込まれた「成長因子」と思います。
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