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【掌編小説】 日曜日の朝のラザニア

 黄色とオレンジのガーベラを挿した陶器の花瓶をテーブルに置いた。部屋は整ったので、あとは料理の準備をするだけだった。玉ねぎとにんじんとセロリのみじん切りを弱火で炒めたあと、牛挽肉を入れて塩で味を整えて、缶入りのトマトを加えて煮詰めて作るラグー。溶かしたバターに小麦粉を篩い落として、薄く色づいたところで温めた牛乳を注ぎ、ていねいに混ぜて作るベシャメル。茹でたラザニア。ガラスの耐熱皿に順に敷き詰めて、いちばん上に擦り下ろしたパルミッジャーノをかけて、十二時に食べやすい温度になるように、予熱しておいたオーブンに入れた。

「今週の土曜日、十二時くらいに着くと思う。お昼作ってくれるならまたラザニアが食べたいな」

 携帯に彼女からそういうメッセージが届いていたので、前もって食材を買い揃えておいて、午前十時にはキッチンに立って準備を始めていた。

 東京の大学を卒業したあと、生まれ育った海辺の町に戻って小学校の先生になった彼女と、卒業後も東京に留まっているぼくが会えるのは、月に一度くらいになっていた。土曜日の昼か午後に東京のぼくの部屋に来て一泊して、日曜日にはいっしょに街を歩いたり美術館に行ったりして過ごし、彼女はその夕方には帰りの新幹線に乗る。たがいに仕事で忙しいなか、そんな慌ただしい生活が数年続いていたので、そろそろ籍を入れて、離れていてもせめて形の上では家族になろうかという話を、どちらからともなく仄めかすようになっていた。

 また手土産に生牡蠣を持ってきてくれるかもしれないと思って、レモンを用意してあるし、手頃なチリ産の白ワインも冷蔵庫で冷やしている。 時計の針が十二時を回るけれど、彼女はまだ来ない。電話もないしメッセージもない。五分。十五分。三十分。電話をかけても繋がらない。一時。一時半。二時になったところでようやく諦めて、オーブンのなかで冷めきっていたラザニアを半分より少し多く切り出し、自分の皿に盛り付ける。本当は空腹で倒れそうだった。残りは明日の朝に食べようと、フォークを口に運びながら考える。

 気紛れだし、何かに夢中になってしまうと他のことはすべて忘れてしまうような人だから、約束を忘れただけなのかもしれない。あるいは、もうぼくに会いたくなくなったのかもしれない。ぼくがきつい言い方をするとか、彼女の気持ちを理解していないとか、そういえば彼女は何度も言っていた。これからは絶対にそういうことがないようにすると、次に会うとき言おうと固く心に誓う。

 *

 土曜日が来るたびにラザニアを作るようになって、十年が経っていた。約束した十二時に彼女は現れず、残りのラザニアも毎週、翌朝にぼくが食べる。家族や友人は、もう彼女を待たなくてもいいんじゃないかと、ためらい、戸惑いながら言ってくる。彼女はたぶんもう二度と来ないから、と。そんなわけない、絶対来るよ、とぼくは笑って答える。誰もぼくと彼女のことを知らない。ぼくたちがこの先ずっといっしょに暮らそうと考え始めていたことも。

 二人掛けソファの座面は、いまもなお微かに窪んでいて、彼女が座った跡が残っている。バスルームの洗面台には、彼女が使っていた歯ブラシも化粧水も保湿クリームもある。洗濯して畳んであるバスタオルには、彼女の髪の香りが仄かに残っている。読みかけの小説には栞が挟んである。その結末を知らないままいなくなるなんてあり得ない。

 土曜日の昼十二時に来ると言っていた彼女からの最後のメッセージには、二〇一一年三月十日の日付がある。その二日後、彼女が姿を見せなかった三月十二日から何通メッセージを送っても返信はなく、電話をかけても繋がらない。単にバッテリーが切れているとか、電車に乗っていて出られないとかということも考えられる。彼女が来る土曜日を、ぼくは待ち続けている。

 もう長く待ったんだから、他のところで幸せを探したらいい、と言ってくる人もいる。何もわかってないな、と思いながら黙って聞き流す。これまで生きてきた年月のなかで、ぼくがいま以上に幸せだったことも、これほど希望で胸が膨らんだこともなかった。

 日曜日の朝、ガラスの耐熱皿を冷蔵庫から出すと、きのう入れたときよりもラザニアが少なくなっている気がする。彼女がいつのまにか来ていて、味見したのかもしれない。隣に寝ていたのに、ぼくが気づかなかったのかもしれない。そう思いながら寝室のドアの前に立って、彼女の名前を呼ぶ。まだ眠っているなら起こさないように、目覚めていたら聞き取れるくらいの小声で。

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