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掌編小説「午前三時のハモンドオルガン」

 コンクリート造りの部室に差し込む九月の西陽をスネアドラムのリムが反射して、白い光が目に刺さった。セッティングを終えた尚樹のレスポールは、すでに一時間あまりスタンドに立てかけられたままになっている。約束の時間を四十分は過ぎていたけれど、ハルが来る気配はなかった。「また寝てるんだよ。先に始めよう」と尚樹が穏やかな口調で言いながらギターのストラップを肩にかけた。大学四年生のぼくたちにとっては最後の定演に向けたリハーサルだったし、サークルでずっと使っていた六本木のジャズバーはその年一杯で店じまいすることが決まっていて、気持ちは自然と昂っていた。ぼくはハルの遅刻に苛立ちつつテナーサックスを持ち上げた。「オルガンが必要な曲があるのに」と漏らした不平には、誰も何も答えなかった。

 ハルには二度と会えないと知ったのは翌日のことだった。毎日のように顔を合わせ、言葉を交わし、音楽を分かち合っていた友達のことを何も理解していなかったという事実に、二十一歳のぼくは打ちのめされた。自分が本当にハルの友達だったと言えるのかもわからなくなっていた。世界はその日から様変わりした。

   *

 ぼくたちが二十八歳になる年の春、尚樹から数年ぶりの連絡があった。群馬の高原にあるキャンプ場で開かれるジャズフェスのオーディションにデモテープを送りたい、と。大学を出たあとサックスのケースを開けることが稀になっていったのは、ハルのことがあったからだけではなかった。仕事に慣れること、諦めて仕事を探し直すこと、また仕事に慣れること。そんな日々の目紛しさを抜け出せないぼくから、音楽はいつのまにか遠ざかっていた。尚樹の口から出るスタジオとかレコーディングとかという単語が、胸の奥に残っていた熾火をかき立てた。

 東京の街路樹がまだ青々と葉を繁らせている季節に、その高原の木々は赤や黄に染まり始めていた。小さいキャンプ場の小さいフェスと聞いたけれど、陽が落ちる前から色とりどりのチェアが広い芝生を埋め尽くしていた。参加するバンドは二十組もあるという。準備も終わらないうちからクラフトビールを飲みつつ主催者と話していた尚樹は、少し飲んだほうが緊張しないからと、買ってきたビールをぼくにも差し出した。

 午前三時前、ぼくたちの出番が来る直前に、ふたつあった大きなダウンライトひとつが、故障したのか、突然消えてしまった。暗闇に放り込まれた聴衆はむしろ大きな歓声を上げた。明かりの乏しいステージに上がって震え出したぼくの指は、演奏が始まると、自信たっぷりにサックスのキーを押さえていた。

 最後の曲で尚樹のギターが三コーラスめのアドリブソロを取り、終わりの四小節に差しかかった。ぼくがマウスピースを咥えようとしたとき、それを押し留めようとするように、柔らかく丸い音色で、十六分音符を連ねて上行を繰りかえすフレーズが、足元のモニターから聞こえ始めた。自分がソロをやる番だと主張するような旋律。手を止めて振り返ったけれど、暗くて、どこからそのハモンドオルガンの音が聞こえてくるのかはわからなかった。隣に立つ尚樹も辺りを見回しながらコードを鳴らし続けている。足元から聞こえるアドリブソロが勢いを増す。シンコペーションしている短七度のブルーノート、三連符で連打されるオクターヴ。一音一音にハルの名前が手書きされているような、大学時代に何度も聴いたオルガンの響き。ソロの終わりを告げる長い音のあと、ぼくがテーマを吹いて、出番は終わった。

 控え室になっているテントで、ぼくたちは言葉を失っていた。「ハルが来てたよね?」と尚樹は呟いた。慌ただしく録音を聞き返してみると、たったいまステージ上で聞いたはずのオルガンのソロは入っていず、ギターソロの直後にサックスのテーマが続いて演奏は終わっていた。高揚感と酔いのせいで、聞こえないはずの幻を聞いたのかもしれなかった。最後のバンドがステージを降りたときには、東の稜線から白い光が洩れ始めていた。二十一歳のときに何も気づかなかった自分の罪が赦される日が来るとは思わなかったけれど、ハルのオルガンの音はぼくたちの耳の奥に残っていて、いまでも新しい音楽を奏でようとしているのだと、眠気に抗えず薄らいでゆく意識のなかで考えていると、緩やかな角度で差す朝の光が遠い日の西陽に重なって、ハルを待ち続けているあの部室の光景が目に浮かんだ。


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