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短編小説「無人地帯」

 土曜日の朝、図書館に行く途中に、その家もまもなく取り壊されることに気づいた。住人だった老人はヴァイオリン製作を趣味にしていて、窓際にはいつも何台ものヴァイオリンがぶら下がっていたけれど、それがいつのまにかなくなっている。家財も運び出され、中は空っぽになっているらしいのも窓の外から窺える。道路に面したポストの投函口はビニールテープで塞がれ、表札は外されている。そこにあった名前が何だったのか思い出すことはできなかった。まもなく工事車両の列がやってきて建物を解体し、ここは更地になるだろう。
 周囲にあった家の多くは既になくなっていて、ひと気もなくなり、町があった場所が無人地帯になろうとしている。三メートル近い高さの白い防護壁が更地を取り囲む。立ち退きがどこから、いつ始まったことになったのかもわからなかった。数軒で同時に解体工事が進んでいるのを、最初は偶然かと思って見ていた。それから家々が、何かの伝染病に蝕まれておのずから倒れていくかのように、空き地が広がっていった。
 住人が国から受け取る立ち退き料はかなりの額で、近場に土地を買って同等の家を建ててもお釣りが来る、という噂もあったし、逆に、狭い築古の中古マンションを買えるくらいしかもらえない、という噂もあった。国が何のためにその辺りの土地を買い上げているのか、正確な理由をぼくたちのように無人地帯の外の縁に住む者たちは知らなかった。立ち退きを余儀なくされた人たちも同じだったと思う。
 その辺りの深度百メートル以上の地下で地底都市の実証実験が進められていたものの、想定していなかった陥没が起こってしまい、大規模な地盤補修が必要になったせいだと言う人がいた。直径数十メートルの大きさの隕石がその地点に落下することが予測されているためだと言う人もいた。隕石の衝撃波で付近の建物は粉々になるとか、一帯が一瞬で火に包まれるとかと。他にも、古代の遺跡が見つかったとか不発弾があるとかいろいろな話が広がっては消えていった。懸念を抱く住民の会が作られて、国に事情説明を求めたこともあったものの、個別の案件についての回答は差し控えるとかという回答があっただけだった。
 真偽不明の噂を信じたのかどうかはわからないけれど、やがて、買い取り対象の地域の外側でも、引っ越してこの付近を離れる人が現れ始めた。理由はばらばらだった。遠くに住む老いた親と同居することになったから。家族が増えて手狭になったから。都心によりよい物件を見つけたから。仕事の都合で。本当のことかどうかはわからなかった。
 誰もが、ぼくが知らずにいることを知っているような気がした。引っ越しの最後の挨拶をする人たちの表情に、ここに住み続けようとしているぼくに気を遣って、わずかでも傷つけるようなことを口走らないために言葉を選ぶ慎重さの微かな陰が浮かんでいるように見えた。それは疑心暗鬼に過ぎなかったのか。
 ぼくは自分の家が気に入っていた。広くはないけれど、陽当たりはまあまあだし、芝生のごく小さな庭もあるし、駅にも近い。家具も整ってきた。円いダイニングテーブル、それとセットのラウンドベンチを、引っ越しでここから運び出すことを考えたくない。最後までこの家で暮らす想像がつくようになってきたところだった。それに、家を売り買いする手間を二度と経験したくもなかった。住宅ローンや不動産売買の契約で、真剣に聞いてもすぐに抜けてゆく説明に耳を傾けたり、読み切れない書類に目を通す振りをしたりして、何十箇所も印鑑を押すと考えるだけで気が滅入る。もし仮にここが危険地帯なら、買ってくれる業者もいないだろうし、いたとしても二束三文にしかならないだろう。
「引っ越さないんですか?」とぼくに聞いてくる人もいた。
「どうしてですか?」と聞き返すと、相手は目を泳がせて答えに詰まる。
 白い防護壁が道の両側に続くところが増えてゆき、この町、というかこの町のあった場所は、巨大な迷路のような様相を呈していた。気づくと、近辺の十数の区画で残っているのはぼくの家だけになっている。昼間は工事車両や作業員が通ることもあるけれど、夜間は何の音もしなくなる。東京の街中に数百メートル四方の無人地帯ができていた。以前は近所迷惑になるので控えていたけれど、今では敷地内で焚き火をしたり炭火で肉を焼いたりすることもできる。深夜に大音量で音楽をかけることもできる。
 小さな庭に植えたミントは夏にたくさんの葉を繁らせる。早朝に水をやると陽を浴びて煌めく。庭で取ったミントの葉とホワイトラムで作ったモヒートを、焚き火の傍らでローファイヒップホップでも聞きながら飲む夕暮れ時は何ものにも替えがたい。薪のはぜる音。電話越しで曇って聞こえるようなビートとピアノのリフ。氷がグラスに触れる音。炎の揺らめき。オレンジ色と紺色のあいだの空の翡翠色。一帯が陥没して数百メートルの地下に飲み込まれたり、巨大隕石の落下で劫火に包まれたりする夢も、見ないことはない。それでも、現実として想像することができないせいなのか、そういう日が来るとしてもここで迎えたいと思いながら、紺色に沈んでゆく空から目を離さずにいる。

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