見出し画像

これからもきっと

 こんにちは。さちこです。本日、父の一周忌です。こういう機会なので、1年前のこと、少し書いてみようと思います。1年経ったから書けること、あるよね。しかし長文になってしまった〜。

はじまり

「お父さんが仕事中に倒れたらしい。」
 
翌日から一週間休暇をとって海外に行く日の仕事終わり。母からラインが入っていた。
 病院に駆けつけて、そのまま緊急手術をすることに。脳梗塞を起こし、結構やばい血管が詰まってしまっているとのこと。病院の寒い廊下で、4時間くらい待ったのではないだろうか。
 それから看護師がきて、今後の説明をしてくれた。中国人のおばちゃん看護師だった。手術が成功したのか、うまくいかなかったのか、それは伝えられずに、この先のリハビリのこと、要介護認定されたらどうするか、自宅で介護はできるのか、いろいろなことを深夜1時に矢継ぎ早に質問された。
 「ああ、これから介護生活が始まるのか」とぼんやりと、でもかなりショックを受けた。父と母は別居してもう10年だ。これからどんな生活になるのか、見当もつかなかった。
 かなり参っていたわたしと母は現時点ではわからないことだらけで、「ちょっと今はわからないです」と答えると「だーいじょうぶよ!急がなくてだいじょうぶ!今度でいいよ!」とやたらハイテンションに中国人のおばちゃん看護師が答えてくれた。「じゃあ今聞くなよ」と思いつつも、暗いトーンで話されるよりはマシだったなと今では思う。

 その後先生からの説明があり、とりあえず手術は成功。ただし、これからいろいろなことが起こる可能性があるし、元通りになる保障はない、ということを言われた。
 どうでもいいことほどよく覚えているもので、とにかくこの時のわたしは眠くて眠くてしょうがなかった。休暇を取るために毎日毎日残業して、あまり寝ていなかった。先生の話を聞いている時にあくびが止まらない。あくびをするから涙も出るし、寒いから鼻水も出る
 「マスクしててよかった〜。」と思うと同時に、先生には悲しくて泣いているのだと思われ(そりゃそうだ)、やたら気を遣っていただいた。すみません。あくびです。結局この日は深夜3時ごろ帰宅。

翌日

 海外旅行はもう諦めていた。言わば親が危篤。行けないよね。奇跡でも起きない限り行けるわけがない。ああ、旅行のために1年頑張って働いてきたのに……。
 朝一で母と叔母が病院に行ってくれた。
 まさかの意識がハッキリしていて、会話もできた、とのこと。
奇跡じゃん!!!
 母と叔母から大丈夫そうだから行ってきたほうがいいよ、との電話。心に引っかかるものがないと言えば嘘になるが、じゃあ行ってくる〜、となんとも薄情な娘よ。

帰国後

 一週間後に帰国し、とりあえずこの日は病院に直行。聞くとこの一週間でかなり回復してリハビリまでしていたそうだ。もちろん後遺症のせいであまり呂律が回らなかったり、動かせない部位があったりするが、奇跡的に回復しているとのことだった。
 ただ、わたしが帰国した日に高熱。顔を見たらかなり辛そうで、でも娘がやっと見舞いに来てくれたことがかなり嬉しそうで、頑張って起きあがろうともしていた。
 ちなみに父はわたしが海外に行っていたことは知らない。もともと不仲だったため海外に行くなんてことも前々から話していなかった。すまん。「さちこは来ないのか?」と聞かれても、母がなんだかうまいこと誤魔化してくれていたそうです!すまん!
 でも、術後、初めての対面は、やっぱりショックだった。それでも、わたしの兄が脳の手術をしたときの術後はもっとひどかったなあ、とか(今はめちゃくちゃ元気)、まあ、大丈夫だろうなとなんとなく思っていた。

その翌日

 母と出かけていたら病院から電話。誤嚥して、容態が急変。人工呼吸器をつけてよいか、確認の電話だった。母の声色が変わって、「ああなんかあったんだな」って、頭がクラクラする感覚。

それからのこと

 それから亡くなるまでの一週間強の間は本当につらかった。昼でも夜中でも病院から「すぐに来てください。」と呼び出される。この時期はスマホの着信音、バイブが本当に恐怖だった。
 人工呼吸器が外れたり、またつけたり。病院に行くたびに先生や看護師さんから説明を受け、結局それが何を意味するのか、どういうことなのか、確かめるためにググってみる。「血圧(数値)  余命」とか「血尿 余命」とか。まだ大丈夫と安心したり、やばいのでは、と怖くなったり。

父とわたし

 父とは本当に仲が悪かった。というか一方的に嫌っていた。
 他人の話は一切聞かず、自分の話ばかりする。話し合いができない。身の回りのこと、何もできない。「ありがとう」「ごめん」が言えない。酒に酔うと暴言・暴力を繰り出す。プライドが高い。人を馬鹿にする発言が多い。家族を大切にしない。人の痛みがわからない。ペットの犬を蹴飛ばす。犬が死んだ時に清掃工場で処理してもらえと言い出す(今でも許せない)。外面だけはいい。何度注意してもパンのカスを床に落とす。などなど。今でもこんなに嫌いなところが列挙できるなんてやばいよね!(しかももっとたくさんある)
 そんなわけで母は10年前に家を出て、わたしも必要最低限の会話しかしていなかった。父の分の洗濯物を干したり、父の分の料理を作ったりするのが本当に嫌だった。早く死ねばいい、と思ったことは数えきれないほどあった。

 でも、父が亡くなったとき、ああ、もうこの関係を良くすることはできないんだ、どうすることもできないんだって思ったら、立ち尽くしてしまった。父と仲良くできるなら、してみたかった。心のどこかで、この関係をどうにかできるとしたらきっとわたしが結婚するときかな?なんてことも考えたりしていた。
 こんなに大嫌いオーラを出していたのに、父は気づかないのか、よく話しかけてきた。(気づいていないフリをしていた説もあるけど、そういうことに全く気づけない人だったので本当に気づいていなかったんだと思う)わたしは嫌いだということを察してほしくて、返事もろくすぽしなかった。そんな自分もいやだった。その度、なんでこうなっちゃったんだろうなって思っていた。
 父の病室に行って話しかけると、わたしの時だけ反応があったり、葬儀で「娘さんがかわいくてしょうがなかったみたいだよ」とか、「彼氏と一緒にお酒を飲んだのが嬉しかったみたい」とか、「花嫁姿見たがってたよ」なんて後日談を聞かされるのも最悪だった。
 そんな想いがあったなら、生きている間に伝えてくれ。

亡くなってからのこと

 それからもいろいろなことがあったけど、振り返れば社会勉強になることばかりだった。
 そしてひと段落ついてからは遺品整理が待っていた。ほんとーーーに、人の持ち物を見るのは嫌ですね。
 父の、熟女ものアダルトビデオを見つけたときの娘の気持ち、わかりますか?あ、コンドーム、こんなきれいな箱に入れてたんだね!じゃねーんだよ!
 ミニマリストになることへの利点、心から実感しました。みなさん、見られたくないものはほんとに持たないほうがいいですよ。急に下品なトピック、すみません。

すっきりしました

 しかし一年、早いなあ。
 これからも父への想いは苦いものであり続けると思うけど、どうか向こうで楽しくやってくれていますように。
 ちなみに父が亡くなってからと言うものの、霊的なものを感じたり、夢に出てきたりしたこと、全くありません。この世への未練、ないんだろうなあと安心。それなら、わたしも健康に、楽しく生きていこうと思うよ。
 父の生前に、わたしがこの文章を読んだとしても、父との関係を改善する努力はきっと(絶対)しなかったと思うけど、どこかのだれかの、いつかの、何かの役に立てればいいです。

いいなと思ったら応援しよう!

はいるとさちこの交換エッセイ
サポートしてもらえたら、はいるとさちこの楽しいことに使わせて頂きます。主に飲酒です。飲酒ですが、何かしらnoteにも還元できるように飲みます。