失うことを失う
自動詞として失っていた私が失い終えるということは、カラカラになった歯磨きのチューブのように、少しずつ失われ続けていた何かがもう絞り出せなくなったよということではなくて、単純に失うという行為の期間が不意に途絶してしまうということだ。私は目的語たりうる「なにか」を失っていたわけではない。
記憶は象徴化して具体性を失い、それによって妄想は彩度を損なわれ、へだたりだけが現実感を増していく。つまりは喪失の全てが言葉として定着してしまったから、私の思いはそこから出られなくなってしまった。
思いを言葉にしたのは私だ。できるだけ正確な言葉を当てはめて、捉えがたいものを照らそうとしたのは私だ。だから言葉への固着は私が望んだことですらあったのだ。
そして今、私が言葉を介さずに感じ取れるものは、午前2時の飢餓感に似た、どんな代替物をあてがっても結局は埋めることのできない穴だけだ。それは確かにここにある。でもこの穴はずっと昔からあったような気もする。
現在進行形で失っていたあの時の私は、充実していたのかもしれない。
少なくとも心が何か作動はしていて、それを観察することができた。
今はその動きを丁寧にトレースしようとして、自分が下手なパロディをしている芸人のように感じられるだけだ。
沈鬱で甘美なその時間は、知らないうちにひっそりと終わっていた。
失うという行為自体を失うことで痛みに陶酔することは、もうできない。そんなメタ的で副次的なものは、偽物の痛みだ。
いつの間にこんなに遠くに来てしまっていたのか。綺麗な回転運動を意識したペダリングだけに集中していた私は、目の前で自転車道が途切れていることに突然気づく。
代替の道はない。いや、本当はあるのかもしれない。見えないふりをしているだけかもしれない。自転車を抱えて土手を降り、一般道を走る。そんなごく普通の選択をすればごく普通の生活は再開するのだろう、たぶん。
失い終えた私につくのは「失った」という修飾語ではない。
確固たる何かを喪失したならそういう修飾もできようが、私は更生もせず恨みも野望ももたずに刑期を終えて出所した囚人のように、ポンと別の場所に置き忘れられただけの存在だ。
入所する前に描いていた未来図はもはや全く思い出せず、目の前にあるのは索漠とした現実、定期的にお腹が空き、寝所を確保しないといけないというような、事務的なタスクだけだ。
ただ時間だけが律儀に過ぎ去っている。
そうだ、年はとった。それだけは確実に言い切れる、私に起こった変化だ。
死に近づいたという感覚はない。死はいつでもそこに転がっているからだ。ただ、老いていくのはしっかりと感じ取れる。なくなっていくのは時間ではなくて能力だ。
慣れてはいけない忘れてはいけない、繰り返す畳句は自分に言い聞かせるためのもので、そうやって何とか鮮度を保とうとしてきた。しかしより過激な見世物を求めるローマ市民のように、わたしの脳は新しい刺激を求めるのだった。
はっきりとした輪郭のある喪失。
他動詞として対象物を定めた上で失うことを完了すること。
塞がることのない傷から少量ずつ血を流し続けていたわたしに必要なのは、あるいは全く別個の箇所をバッサリと斬り落とす介錯なのかもしれない。
それが本当に終わらせるためのたったひとつのやり方なのかもしれない。
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