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問いかけとアンサー【yes,mama ok?】 (日本語ロック/ポップの歌詞について①)

yes,mama ok?の楽曲は(カバーなどを除いて)全て金剛地武志氏によって手がけられたものだ。彼の書く歌詞はリリカルで時に切なく、時にユーモアに溢れ、何よりイメージを喚起する力にすぐれている。

yes,mama ok?は決して多いとは言えない音源の中で、自らの曲への「アンサーソング」を(少なくとも)2つ発表している。
同じミニアルバム『砂のプリン』に収録された表題作と『Farewell gritty pudding』、
アルバム『modern living』に収録された表題作と、アルバム『Q&A65000』に収録された『最終定理‐post modern living-』、
これら二組の楽曲の歌詞を参照しながら、その魅力を探っていきたい。

『砂のプリン』と『Farewell gritty pudding』
『砂のプリン』は幼なじみ(”マイハックルベリーフレンド”)のような関係性の男女が、大人になってから再会し、恋愛関係が始まろうとする瞬間を描いたと思われるラブソングだ。
恋の始まりあるいは予感を描き、その感情の揺れが現在進行形で、男女それぞれの視点から描かれる。
過去の回想では砂浜と思われる場所で”膝まで水につかって”砂のプリン(てっぺんが平らになっている砂山だろうか)を男女が作ったシーンが描かれ、”かがんで橋をくぐれば”という表現や、女性の涙を示唆するのであろう”コンタクトレンズずれただけよ”、”飲み干せグラッス”など、全体的に水気を想起させるイメージに満ちている。
ちなみに砂で山を作ろうとする場合、相当量の水分も不可欠となる。特にトンネルを掘ったり、凝った城をつくるなど、造形物に一定の硬さを求めるときはなおさらである。(c.f.『ゴリパラ見聞録DVDPart3』特典「福岡旅」※傑作)

『Farewell gritty pudding』では『砂のプリン』で描かれた情景から時が経って、男性の方が当時を思い出しているようだ。恋愛関係は解消されたか最初から上手くいかなかったか、現在は女性とは離れており、女性の視点からの言葉はない。
『砂のプリン』とはうって変わって冷徹に自己や世界を俯瞰するような言葉が続く。
”三年たって十年たって変わらない事など無い”と突き放したように過去を振り返り、直後に”月の軌道は少しずつ遠く離れてく”と、マクロな視点で「不変のなさ」の普遍性を強調する。ここで「月」というモチーフが登場していることにも注目しておきたい。

”恋していたってことにしよう”、”――なんて僕は言った”
”口笛のメロディ思い出せたら”、”(忘れたわ)って君が笑ったあのメロディは肺の奥にうつろな響きたてつづけている”
”街燈が今灯きはじめた”、”街燈が消え始めるころ”
”あなたの踵照らし出して”、”後ろ足で砂をかけよう思い出すことのないよう”
(前者は『砂のプリン』、後者は『Farewell gritty pudding』)
など、二つの歌詞はシンプルに対比できる言葉が多いが、イメージとして最も強く想起される対比は、水分と乾き、ウエットさとドライさだ。

『砂のプリン』で”ラベルを付けよう”と提案された”宙吊りのままの日々”(恋人とも友達とも言えない期間のことか)は、『Farewell gritty pudding』では”宙吊りのままの足跡は静かの海に今柔らかく降りていく”という形で応じられ、砂浜から月面へ、個人的な思い出から歴史的客観的な事実(アポロ着陸)へとイメージが変換される。そこにあるのは月の地表=完全なる乾燥であり、思い出の相対化・一般化による個人的感情の喪失だ。
前に触れたように月のモチーフがすでに歌詞中に登場していることも効果を発揮している。

先ほど述べたように、プリン型に砂山を作れるのは水分があるからであり、完全に乾いた砂でプリンは形作ることすらできない。
不可能と乾燥のイメージを聴き手に植え付けきった上で、曲の冒頭にも歌われた言葉がもう一度繰り返される。
”The proof of the pudding is in the eating”
(※この部分は歌詞カードには未掲載。ただしアルバム『砂のプリン』ではtrack8にも収録されていて、そこでは【プリン道とは喰うことと見つけたり。】(英諺)と日本語訳が書いてある。実際にある諺で、「味は食べてみなくちゃ分からない」という意味で使われるようだ。)
砂のプリンは食べられない。当たり前のことだが、食べることを想起させることで、乾ききった砂が口に入る不快感、それによる口内の乾燥すらも連想されることになる。極度に乾燥した居心地の悪い世界を創出した後は、曲の最後まで英語詞が続き、
”How long has this been going on”
”Though how much I could bear to lose”
と、喪失と痛みが歌われる。
文字にすると直截的な表現に過ぎるようにも読めるこの歌詞は、しかし確かに聴く者の心を揺さぶる。
もちろん曲自体、演奏自体の素晴らしさもあるが、歌詞によって丁寧に積み上げられた「かつてあった水分(感情)が完全失われてしまった世界」というイメージによって、聴き手は深く感情移入せざるを得ないのだ。

二曲とも単体でも素晴らしい詞であるが、聴き比べることでより深いイメージに浸ることが出来るという点で、他に類を見ない輝きを発している詞であると私は思う。

『modern living』と『最終定理‐post modern living-』
『最終定理‐post modern living-』はその題名からすると『modern living』の後の日々を描いた作品のようだが、上記の2作品のような歌詞の「対称性」は高くないように思える。
共に温度は低く、悔恨や喪失感を描いている点で共通しており、『modern living』が雨と晴れ間の風景を描くのに対し、『最終定理‐post modern living-』雪と雪解けの風景が描かれる。前者の試合?は雨で流れ(”The game is rained out”)後者は雪で順延される(”The game is snowed out”)という英語詞部分のわかりやすい相関はあるにせよ、真逆の概念の対比という感じはない。

『modern~』では『砂のプリン』同様、男女の視点が交じり合う形で歌われる部分があるが、『最終定理~』には男性の視点だけしかない。
また『modern~』は”多分届くことのない答えを待つ”としながらも、最後には”君がまだあの部屋を出てないことを祈りつつ電話を探す”と希望をにじませるのに対し、『最終定理~』では”後になって笑えるなら君にも話そう”と希望があるかのように見せながら、最終的には”決して証明され得ぬ定理”、”問いに答える声はない”、”すべて静かに凍ってゆく”とコミュニケーションの断絶を思わせる言葉で締めくくられる。
ここにあるのはわかりやすい対比というよりも、似た心理状態のある段階と、より深く進んでしまった段階の描写ではないか。端的に言うと、「一定の対象が想定された(まだ女性の視点があるのだ)コミュニケーションの断絶」から、一歩先へいった「一般的/常時的なコミュニケーション不全」へとテーマが深化しているように読める。

二つの楽曲に共通するモチーフに「水たまりと、放り上げるコイン」というものがある。
『modern~』では”水たまりに映る晴れ間を横切る雲の上に放り上げたコイン”、『最終定理~』では”水たまりに放り上げたあの日のコインの答えはあった筈”と歌われる。
前者は水たまりというワードで足元(下方)に視点を誘導しながら、雲の上にコインを放り投げるという動作で視点を一気に上方に転換させ、聴き手に否が応でも晴れ間がのぞく空を見上げさせる。この技巧や、女性の視点で歌われる”きょうも口をとんがらせて 空を見上げてるだろうね”という詞によって、まだわずかに繋がりへの前向きな可能性を感じさせる。
しかし後者は”答えはあった筈”としながらも最後までそれは提示されず、前述のように断絶を示唆して歌詞は終わる。
そこではまた、『modern~』の最後で希望を提示した”電話を探す”という言葉が『最終定理~』では”押し当てる受話器”、”耳に残る受話器の温度”という言葉で見事に応じられて、関係の修復ができなかったことも暗示されている。

対比構造というより進化(深化)構造とでもいうべきこの2曲は、やはり合わせて聴くことでより深く作品世界を味わうことが出来る。
そしてまた、yes,mama ok?において中心的に描かれるモチーフを踏み込んで描いているという点で、重要な作品だと私は思う。

問いと答えというモチーフ
『砂のプリン』と『Farewell gritty pudding』は、もともと同じミニアルバムに収録されており、発表時期は同じ(1995年8月)である。しかし、『modern living』と『最終定理‐post modern living-』は収録されたアルバムが違い、前者は1996年1月、後者は1997年5月にそれぞれ発表されている。
同時期の発表であれば楽曲制作も近い時期であると想像されるし、制作時期が違っていたとしても、同じ音源に収録するということから、『砂~』にたいしての『Farewell~』は、明確なアンサーソングとしての位置づけがなされていると思われる。
一方で『modern~』は最初からアンサーソングを想定して書いていたかは疑問だ。もともとアルバムの表題曲でもあるように、アルバム全体の色彩を決定づける作品で(ボーナストラックを除けばラストに収録されている曲)、このアルバム制作時には一つのアンセム的な存在だったのではないだろうか。
自らが立てた金字塔に挑むという形で『最終定理~』が作られたのだとすれば、対比よりも進化(深化)という道を選ばざるを得なかったことも納得できる。

さらに『modern~』と『最終定理~』という曲には、「問いと答え」というモチーフが使われている。
”多分届くことのない答えを待つ”(『modern~』)
”あの日のコインの答えはあった筈”、”証明され得ぬ定理”、”澄んだ空に答える声はない”、”僕にもわかんだろうきっと”、”言いあぐんだ答えは深く肺に巣食うだろう”、”問いに答える声はない”(『最終定理~』)
上記のように、『最終定理~』のほうがそのモチーフが(一部のものは繰り返し歌われる)頻出しているのがわかる。

ずばり『問と解』という楽曲があったり、アルバム名『Q&A65000』、そしてグループ名自体など、yes,mama ok?の歌詞において問いと答えというモチーフは重要だ。(コロムビア時代のコンプリートボックスも『Incomplete Questions』と名付けられている)
その重要なモチーフに正面から向き合い、自らのアンセムへのアンサーソングを書くという、たぐいまれな強い覚悟で書かれたのが『最終定理~』という歌詞なのではないだろうか。
その言葉が、聴く者の心を動かさないはずはない。

”~”は歌詞よりの引用。
ミニアルバム『砂のプリン』、アルバム『modern living』、再発ボックスセット『Incomplete Questions』を参照した。

※この文章(書き続けていければ今後も)においては楽曲の歌詞についてのみ書くつもりだが、もちろん作品は音楽という形式で完成しており、楽曲全体としての印象が歌詞への評価を(良くも悪くも)曲げてしまっている可能性は十分あると考えている。

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