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蔓延る

セフレってどう思う? と聞かれて、文脈から切り離されたある一単語について私は感情をもったりしません、と正直に答えてみる。いい加減うんざりしていたのだ。それをもう隠すつもりがなくなっていた。
目の前の私たちより5つだかそのくらい上の先輩社員2人は、見分けがつかないほど似通った薄ら笑いをずっと浮かべていて、この飲み会に途中から参加した私は当初それを酔いのせいだと思っていたが、そうではなかった。
部署の直接の後輩で新入社員の男の子、そして私の同期である彼に命令し、私をこの場に呼び出した2人。同期の手前気を遣う私からプライベートの話を思うさま聞き出し、あわよくばという思いを隠そうともせず半端に口説き、自分たちの乱れた異性関係を自慢し、挙句にこのセリフだ。そんな人間が纏うべき表情は薄汚れた半笑いでしかあろうはずもなかった。
あの時は本当に悪かった、と彼はあれから10年以上経った今でも私に謝罪する。あなたが悪いわけではない、私は自分の意志で飲み会に参加したのだし、あなたも配属直後であの2人があのように振る舞うことも予想できなかっただろう、と私は言う。
飲み会の直後でさえ、私はあなたに怒ってはいなかったよ、むしろ弱い立場ながら私を守ろうとしてくれていたのもよく伝わったし。
彼は笑顔で、しかしそこに一抹の苦みを足して、まぁあの後は同じ過ちは繰り返さないようには努めたよ、と言う。でも、僕以外もあの2人に“使われた”若い社員はいた。むしろ2人と共犯関係を築くようなのもいたよ。碌でもない部署なんだ。
しかし彼の部署は社で最も業績を上げ続けている。
私たちは新入社員時の苦い記憶の舞台となった、気取っているだけで大して美味しくもなくワインの知識もまるでない店員がいたイタリアンとは真逆の、質素なつくりだが丁寧で間違いない料理を提供してくれる店で、空豆のラグーが絡んだパスタに舌鼓を打っていた。
あの人たち、2人とも偉くなったよ。
彼は感情のない声で言う。言った後に何らかの追加情報のように声を上げず笑う。
一人は同じ部署のナンバー2に、もう一人は管理部門に異動していわゆる出世コースに乗ったと言う。会社の事情に全く疎い私は、へーと単純な驚きの声を上げる。そして同じ調子の知性の低さを維持して、なんでーと訊いてみる。
僕が思うに偉くなるには、と彼は笑みを消して、
権力の掌握方法に敏感で、またそれを普段から躊躇なく行使できることが必要なんだと思う、と言う。
なるほど私たちは確かに権力を行使された、と私は再びあの夜を思い返す。
そう、しかもそれだけじゃない。あの人たちが異性関係の豊富さを披露していたのは、自分が意のままにできる、つまり権力を行使できる関係性を多く保持していることを誇示していたんだと思う。
でもそれに憧れる人もいるわけだね、と私が言うと、彼は顔の動きだけで残念ながらイエスだと答える。
むしろ周りはそういう人ばかりだよ、僕はケンカの一つもしたことのない平和的な人間だけど、腕力がイコール権力である社会の方がどんなにマシかとすら思う。と言って私を見て、まぁうちは男性しかいない部署だから、と付け加える。
彼は新入社員時に研修を共にした頃から、類い稀なコミュニケーション能力の持ち主で、どんな同期とも同じ姿勢で対等に話すことができた。現在でも、彼に近しい周囲の人間は口を揃えて高く評価する。社内だけでなく、取引先や同業者にも、彼を悪く言う人を見たことはないと評判だ。その人格に見合った仕事を与えられ、着実に成果も出していると聞く。
でも、偉くなるというのはそれとは違う次元にあるものなのだろう。それは私のような人間にも理解できる。理解と納得とは別物だけれど。
うちの会社はダメだよ。
若手社員が業績の悪化や社内システムの硬直化を問題視して言う言葉。そこから改革への希望と野心をすっかり取り除いて絶望と諦念をのせた同じフレーズを、彼は口にした。
私はそもそも組織というものに何の希望ももたない人間だけれど、彼のような人がこのように傷ついていることに悲しみは覚える。
牛肉のタリアータを彼とシェアしながら、前菜からずっと料理を楽しんでくれている彼に、私はこのお店がもうすぐ閉店することを言い出せなくなる。最後だから、美味しいものを分け合いたい人を順繰りに連れてきてたんだ、ということを明るく口に出せない。
あの糞みたいな夜の舞台の糞みたいなイタリアンは、まだ繁盛していると聞くのに。

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