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再適化2

カーテン、開けましょうか。
いや、桜が散ってるかもなぁと思って。
ーー雨は降ってませんねぇ。よく見えないですけど。月もこの角度からだと見えないと思いますよ。
桜は…、なんかもういいです。結局このベランダへのサッシの窓という画角内に映し出すことができる美しさには限界があるんですよ。
いや、限界を自分が決めちゃってるだけなのかな、もしかして。

「私に内在する無限の可能性…!」みたいな話をしたいわけではないですよ、もちろん。
そうじゃなくて、私の能力の不足から見出せていない美があるのではないかという可能性の話です。

やめましょう。美についての話は苦手なんでした。
なんというか、コンプレックスがあるんですよ。
それについてはうまく話せそうならいずれ話させてください。

ええと……職業の話でしたっけ。
これについても、ある少年が「将来就きたいのはラクして儲かってカッコいい仕事」だと素晴らしくキレのいい言葉を残していましたね。最小限の苦労で最大限の収入、というのは当然として、肝は「カッコいい」ってとこです。
これをどう捉えるのか。
自己実現できる仕事? 少なくとも私はそうは考えません。
自己実現というのは、この社会において「自己を実現」するわけでしょうから、そもそもこの世界が正当なものだと思えない私にとっては無縁な言葉というか、その感覚の一端すらも理解できないものなのです。

私は「カッコいい」というのはイコール「カッコ悪くない」、つまり恥ずべきところがない、或いは少ない仕事のことだと考えています。
人を騙したり陥れたり出し抜いたり、そういう卑劣な行為を伴わない仕事。また、嘘や誤魔化しやお追従が必ずしも必要とされない組織。それが実現されていれば十分だと思うのです。実際はそれこそが難しいのでしょうけど。
なるべく自分の倫理観に悖らない範囲で口に糊したいものです。私が労働について思うのはそれだけです。

世界が正当だと感じられないなら、その世界を正当なものへと変革することが自己実現になるのではないか。
それはその通りかもしれません。
革命?いやいや、中学程度の歴史教育でそんな運動に意味がないことは解ります。
中学生の頃は、世界的な宗教を立ち上げればよいのかなと思ったりしてましたね。無茶苦茶ですが、筋はそんなに悪くなかったんじゃないかと今でも思います。
私の理想とする世界、私の自己とやらが実現された世界は、誰一人偉そうにせず、つまり権力という権力が存在しない無政府状態で、なおかつ誰も卑劣なことを実行しない人を出し抜こうとしない場所です。
一瞬の無政府状態ならそれこそ革命で実現できる可能性もあるのでしょうが、永続はさせられない。権力は必ず生まれるし、卑怯な行いも必ず為されます。これはもう倫理というフィクションで縛るしかない。だから宗教、というわけです。
まぁその能力も根気もなかったので早々に諦めましたが。

そもそもこの世界って正当なものだと感じられます?
デザインがかなり良くないというか、ゲームバランスが最悪というか、選択肢は実はほとんどないし、不義や無道やチートはまかり通るし、私には欠点しか見えません。

世界を変えるにはある一点を変えるだけでいい。
そんな言葉を実は私は信じています。
世界には秘匿されたある致命的な弱点があって、そこを突けば、二重にして膨らませていた色の違う風船の外側だけをパンと割る手品のように、一瞬で世界の様相が一変する、そんなことがあり得るかもしれないと。
でもそのためには世界を知らなくてはいけませんよね。少なくとも、ある程度は。

大学に入るまでは「歴史」を学べば世界を総体的に知れるかと考えてました。
でもいざ学ぼうとすると、どうやら一部地域の一部の時代を学ぶだけで人生を全て消費しそうだと分かった。
で、じゃあ言語学を学ぼう、と。この観点からなら包括的に世界を理解できそうだという素人考えです。世界の秘密を手っ取り早く見つけたかったんです。
まぁもちろん挫折して、というか言語学自体に入門することもなく、大学という場所のあまりの「社会性の高さ」に辟易して逃げ出すように就職したわけですが。
なんでしょうね、あの感じ。いわゆる実社会からは隔絶されてるはずなのに、どの社会よりも悪い意味で「社会的」な大学(の研究室)という場所は。悪口や党派作りや足の引っ張り合いや追従や反目や裏切りや糞みたいな男女関係やなんやかんや…。

就職した人間はだいたいそうなるように、私も消費社会のまっとうな一員となり、時間と精神を売ってカネと消耗を与えられ、その消耗に蓋をするためにカネを使いました。
モノばかり買わされる人生のできあがりです。
買ったモノで「自分」というものが形作られてるような気さえしてたんですから、呑気なものです。

ただ現実は、そうして生きているだけで知らないことがどんどん増えてゆきます。
日々、知ることの数万数億倍くらい知らないことが立ち起こっていくので、その差の開き方は絶望的です。
世界を全部知れると思ってたのか?と訊かれたら、いや、そんな、まさか、はは、って頭を掻いてもちろん否定しますけど、
でも本当は心のどこかでそう思ってたのかもしれません。少なくとも自分が興味あること(ありそうなこと、今後興味をもちそうなこと)については全部。
冷静に考えれば無理に決まってるんですが、その不可能性に実のところしっかりと気づけていなかったような気がします。

読めば面白そうな本、聴けば楽しそうな芸人のラジオ、観れば心が動きそうな映像作品…。
負債だけが溜まっていって、取り返せそうにありません。
私は不渡りが出たことを急に聞かされた零細企業の社長のように、ただ呆然としています。
売れない在庫の前で佇む社長の絶望と、読み切れない本棚の前で佇む私の絶望は似ているのではないでしょうか。

こんなことでは「世界」を知ることなんてできません。

そんなふうに絶望感を味わっていたところで、ちょうど私はある大きな喪失を味わいまして(それで同じことばかり考える迷宮に住みついたりしてたんですが)、落ち込んだ人間が皆そうするように、私もかなり久しぶりに自分を観察する時間を過ごしました。
内省、なんて高尚なものではなく、さっきも申し上げたように、単に自分を憐れんでいただけですが。

それで気づいたことがあります。
そもそも世界を知る前に、実現すべき自己、つまり自分というものが、どんな形をしてどんな方向へどんな速度で移動するどんなエネルギーなのか、それもまるで分かってないんじゃないか。
まず自分の輪郭をなぞる線を引くところからが、その外側、つまり世界を知るスタート地点なのではないか。

そうして私は言葉を紡ぎ始めたのです。

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