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惚気る

「真面目な人なのよ。律儀過ぎるっていうか」
夫が会社を休養することになった友人は、特に落ち込んでいる様子もなくそう言った。まだ肌寒さが残る季節、テラス席を選んで座った私たちを午後の陽射しが柔らかく包み込む。
私は、本心からではあるが、発した言葉だけ聞けば通り一遍のお見舞いを述べて、
「あなたは大変じゃなかったの?」
と訊いてみる。
ありがとう、でも大変ではない、と柔らかな笑顔で言った後、少し申し訳なさそうに、
「ちょっと、面白いのよ」
「何が?」
「律儀さが。昔っからそうなの。本人の前では絶対言わないけど、見てて笑える時もあるのよ」
そんなふうに捉えているならと私は安心する。どうあれ彼女が笑顔になれるなら、それは良いことに違いない。
テーブルに飲み物が運ばれてくる。私は紅茶、彼女はカフェラテ。彼女は外ではいつも牛乳を入れたコーヒーしか飲まない。昔からそうだ。
「昔ね、結婚するより前、彼とよく一緒にトレッキングしてたの。そんな本格的なやつじゃなくて、ほんとに近場の山道を歩くだけ。で、ある時、熊っぽい動物を見かけたの。すぐに走り去ってったから熊かどうかは今でもわからないんだけど。その時彼がね」
彼は山を降りるまでずっと歌を歌い続けたという。人間の声で熊を遠ざけようとしたのだ。それはおそらく正しい対処法だろう。
「日本のポップスを歌うんだけどね。私が知ってる曲を選んでくれてるのかなと最初は思ったけど違ったの」
彼の選曲の基準は
・歌詞が完全に頭に入っていて間違わず歌えること
・歌いしろが多い(間奏部分が少ない)こと
だったという。そして歌詞を一切間違えることなく歌い、少ない間奏部分はハミングか口笛で繋いだのだという。
「音の空白部分がないようにしてたんだろうけど、それで彼はきっとすごく真面目にそうしてたんだろうけど、なんか私、可笑しくなっちゃって」
私は彼女に共感し、その上で「悪いけど」と前置きして、
「旦那さん、生きづらそうだね」
と軽い口調で言ってみる。
そうなの、と彼女も軽く明るく、
「でもはたから見てるとちょっと面白いのよ。悪いけど」
いい夫婦だなと、私は少し羨んだ。

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