絶望したって、なにも始まらないんだなあ。大切なのは、そこからなにを得たか
『チ。』という漫画に登場するキャラクターは、観客の視点から眺めると、死んでしまったり、拷問されたり、と不幸な人生を送り、不幸な最期を迎えるように見えます。
けれど、もしあなたが、当事者の視点に立って読んでみると、どうでしょう?
つまり、そのキャラになり切って読んでみると?
不幸とか幸福を語ること自体がそもそも論外だと感じるように、わたしは推測します。
漫画を読んでいて思うのは、絶望した人を救い上げるのは、希望ではなく、さらなる絶望だということです。
このまま絶望に浸っていると、さらに状況が悪くなるぞ、と心から感じることで、今まで感じていた絶望は希望へと転化するように感じます。
この話を書くと思い出すのは、『シュタインズ・ゲート・ゼロ』の主人公、岡部倫太郎です。
詳細なあらすじを省きますが、タイムマシンによって世界線を移動できる岡部は、幼なじみが死んでしまう未来から、彼女を助けるために、恋していた女性を犠牲にして、新たな世界線に移動します。
しかし、その未来もまた最悪に至る未来でした。
いずれ訪れる第三次世界大戦
岡部はそれを自覚し、仲間たちからも奮起することを期待されつつも、そこから目を逸らしていました。
なぜなら、恋した女性の犠牲を無駄だと思いたくなかったからです。
岡部は、その最悪の未来が訪れるまで、どうせまだ時間があるのだから、と安寧とした日常を送ります。
静かに絶望しながら。
しかし、岡部は事故によって、その最悪の未来に移動してしまいます。
その未来では、東京は焼け野原のように燃え尽き、銃声の音が鳴り響いており、仲間たちは深く傷ついています。
そして、昔からの仲間が目の前で殺されて、岡部は初めて、自らの判断の甘さを悔やみ、深く絶望します。
(引用開始)
「……分かってた。鈴羽から何度も聞かされた。俺の選んだ世界線の先には、こんな未来が待っていることは。
分かっていたハズだったんだ。だけど、分かっていたつもりになっていただけだ……!
分かったつもりで、現実から逃げていただけだった! 紅莉栖を見殺しにした挙句、まゆりや鈴羽もいなくなって、カガリも、雪さんも、ルカ子も! 俺は何一つ分かってはいなかったんだ……!」
(引用終了)
岡部は、こうして、最悪の未来から、ずっと目を逸らし続けていたツケを食らいます。
でも、わたしたちは、この岡部倫太郎という男を非難することはできるでしょうか?
わたしたちもまた、岡部と同じように、望んでいない未来がやって来ることを、心のどこかで予期しながらも、それを変えようと奮起せず、緩やかな絶望に浸る日常を送ってきたのではありませんか?
わたしは、生来、怠け者なタチでしたから、勉強とかが面倒くさくて、ほどほどにサボって、テストも受験も乗り切っていました。
でも、そうして訪れる……その先の未来が怖かった。
勉強しないと、いい大学に入学することも、いい会社に就職することもできません。
それが分かっていてなお、わたしは本気で勉強しようとは思いませんでした。
ずっと、わたしは、自分が望んでいない未来が訪れる、という絶望から目を逸らしていました。
あなたはどうでしょう?
『チ。』の名も知れぬ占星術師は、そんなわたしたちのことを指して、こう言いました。
(引用開始)
「君らが絶望“を”突き放しているのだ」
(引用中断)
この言葉を読んで、わたしが連想するのは、苫米地博士の拙著『ドクター苫米地の新・福音書』のある一文です。
(引用開始)
私がなぜ、「奴隷になるな、奴隷になるな」としつこく繰り返すか。それは逆説的に言うと、奴隷が一番幸せであることは間違いないからです。 自分で何も考えずに、社会の思惑通りに生きるなら、それほど簡単なことはありません。社会や他人に操られていればいいわけですから、何も自分で考えなくていいし、何も自分で決定する必要はないし、自分のしたことに対して何ひとつ責任をとることもない。だからお気楽だし、ハッピーなのです。 元来が怠け者にできている、楽なほうに流れたい人間にとって、これほど強烈な甘い誘惑はありません。そのために、人はついつい「奴隷の幸せ」を求めてしまう、という見方もできます。でも、本書ではそこに、 「それでいいんですか?」 という一石を投じたい。「いいわけがない」ことは明快過ぎるくらい明快だからです。 これまで再三お話ししてきたように、奴隷はある意味で社会や他者にだまされた状態のまま、そうとは気づかずに、自分の夢や幸せとはこういうものだと思いこまされているだけです。哲学的に言うなら、単純に、 「奴隷の幸せは、幸せではない」 ということです。 それは「間違った知識は、知識ではない」のと同じ。たとえば、あなたが誰かから携帯の番号を教えてもらったとして、相手が番号を言い間違えたにせよ、自分が聞き間違えたり、メモリに入力し間違えたりしたにせよ、相手の携帯につながらなければ、その番号は知識と言えるでしょうか? 答えは「ノー」です。正しい知識でなければ知識ではないのです。 同様に、自由な幸せしか幸せとは言えない。よって、「奴隷の幸せ」は幸せではない、ということです。
(引用終了)
奴隷のままでいれば、絶望から目を逸らしていられます。いざ悲惨な目に遭っても、他人のせいにできます。お気楽で無責任でハッピーでいられます。
『チ。』の世界では、貧困の格差が激しいので、日々絶望を繰り返し、「こんな日常は嫌だ!」と思い、奮起することもできるでしょう。
しかし、現代日本に生きるわたしたちは、ある程度のお金があれば、娯楽を用意して気晴らしできます。
そして、ある程度のお金は、奴隷のように思考停止して働いても、手に入ります。
TwitterやInstagramなどを漁っていると、お金は無限に溶けていき、ソシャゲを始めれば、お金もまた無限に溶けていきます。
そして、それが気晴らしになります。
だから、自らが今、絶望しているという事実に、現代日本人は気づきにくいように思います。
(引用開始)
退屈を刺激で埋めていくような生活になると、それは悲惨です(とパスカルが「気晴らし」と「人生の悲惨」というキーワードで描いています)。
小林秀雄のこんな評論というかエッセイを思い出します。
ロンドンオリンピックの話です。
選手たちはそれまでヘラヘラしていたのに、競技に入ると聖なる顔になる。それに対して、超えるべき自己を持たない観客の表情は醜悪だ、という内容です。
古代ローマのパンとサーカスを思い出します。サーカスですね。
(引用開始) 先日、ロンドンのオリンピックを撮った映画を見ていてが、そのなかに、競技する選手たちの顔が大きく映し出される場面がたくさん出て来たが、私は非常に強い印象を受けた。カメラを意識して愛嬌笑いしている女流選手の顔が、砲丸を肩に乗せて構えると、突如として聖者のような顔に変わります。どの選手の顔も行動を起こすや、一種異様な美しい表情を現わす。むろん人によりいろいろな表情だが、闘志などという低級なものでは、とうてい遂行し得ない仕事を遂行する顔である。相手に向かうのではない。そんなものはすでに消えている。緊迫した自己の世界にどこまでもはいって行こうとする顔である。この映画の初めに、私たちは戦う、しかし征服はしない、という文句が出て来たが、その真意を理解したのは選手だけでしょう。選手は、自分の砲丸と戦う、自分の肉体と戦う、自分の邪念と戦う、そしてついに征服する、自己を。かようなことを選手に教えたものは言葉ではない。およそ組織化を許されぬ砲丸を投げるという手仕事である、芸であります。見物人の顔も大きく映し出されるが、これは選手の顔と異様な対照を現わす。そこに雑然と映し出されるものは、不安や落胆や期待や興奮の表情です。投げるべき砲丸を持たぬばかりに、人間はこのくらい醜い顔を作らねばならぬか。彼らは征服すべき自己を持たぬ動物である。座席に縛りつけられた彼らは言うだろう、私たちは戦う、しかし征服はしない、と。私は彼らに言おう、砲丸が見つからぬ限り、やがて君たちは他人を征服しに出かけるだろう、と。また、戦争が起こるようなことがあるなら、見物人の側から起こるでしょう。選手にそんな暇はない。
(引用終了)
pp.122-123
(引用終了)
気晴らしは、当事者意識を希薄化させます。
自分の人生が、誰かのものという錯覚を増幅します。
それは、やっぱり不味いですし、そういった人たちを小林秀雄先生は、はっきりと「醜い」と称しました。
あまり声を大にはできませんが、わたしも同感です。
以前、友人と『すずめの戸締まり』を観に行きましたが、その際の友人の感想が、
「でも、すずめが要石を抜かなかったら、こんなことにはならなかったよな。全部すずめが悪くね?」
というものでした。
正直、絶句しました。
あまりにも、当事者意識に欠けているとしか思えない発言でした。
彼は、「すずめの戸締まり」をフィクションだと思っているのでしょうが、わたしにとっては紛れもない現実です。
映画は、もうひとつの現実を描いています。
すずめは、映画の主人公ですが、同時に、わたしでもあります。
すずめは、わたしの一側面であり、今まで必死に目を逸らしてきた裏側です。
(引用開始)
だから、僕らはフィクションを必要とします。
物語を必要とするのです。
物語だと安心して、その臨場感にひたれます。
その臨場感にどっぷりと浸ったあとに、その奇妙な世界が、実は僕らの現実だったと知らされるのです。
(中略)
グラウコンがソクラテスの譬え話を聞きながら「奇妙な情景の譬え、奇妙な囚人たちのお話ですね」と言いたくなる気持ちは分かります。
しかし、果たしてそれは僕ら自身の鏡像なのです。
(「われわれ自身によく似た囚人たちのね」)
だからこそ、安心してフィクションとして、SFを楽しみ、映画を楽しみ、小説を楽しむべきなのです。
楽しんだあとに、奇妙な情景の譬えだったなー、奇妙な囚人たちのお話だったなーと思えば良いのです。
そしてそれは「われわれ自身によく似た囚人たちの」物語なのです。
物語を楽しみながら、ふわっと自分の視野を広げていきましょう!!
(引用終了)
それが分かっているのなら、自分の人生のために、必死にその果実を得ようとするハズです。
当事者意識があるのなら、「結局すずめが全部悪いじゃん」という戯言は出てきません。
ならば、当事者意識を養うことで、はじめて現実に絶望することができるのではないでしょうか?
そして、その絶望は、ある占星術師によると、希望へと転化し得るのです。肥やしとなるのです。
(引用再開)
「――2000年前 アテナイの老人が毒杯を呷った惨事から今の哲学が生まれた。」
「1500年前 ナザレの青年が十字に磔られた無念が今のC教を形作った。」
「人は悲劇を肥やしに、時に新たな希望を生み出す。」
「その場しのぎの慰めなんか現実を変えやしない。」
「だが、」
「芯から湧き出た苦悩は、」
「煮詰められた挫折は、」
「或いは君の絶望は、」
「希望に転化し得るのだ。」
(引用終了)
この感覚は、シュタインズ・ゲート・ゼロにも繋がるように感じます。
最悪の未来を知り、芯から絶望した岡部は、昔からの仲間に諭されます。
そうして、岡部は過去へと帰還し、もう一度未来を改変することを決意するのです。
(引用開始)
「ずっと、そう言ってたよ。何も自分は分かっていなかった、って」(ダル)
「でも、こうも言っていた。無意味なことなんて、ないんじゃないかって。いくつもの失敗した未来。取り戻せなかった過去。でもきっと、全てのその先に、シュタインズゲートにつながる道があるんじゃないかって」(真帆)
(引用終了)
べつに、だから、絶望することがいいこと、という話ではありません。
絶望すること自体が目的ではないのです。
そうではなく、スコトーマが外れることが目的で、その体験こそが果実なのです。
無意味なことに、意味があったんだと再認識すること。
大切なのは、ゴール達成に重要な情報を得ることです。
それこそが目的であり、だから絶望は一瞬で十分で、浸る必要はどこにもありません。
絶望に浸ろうとした瞬間、それは煩悩と化します。
たとえば、もしあなたが、砂漠で迷い、喉がカラカラになったとき、ようやく飲めた水は甘露のように感じるハズです。
でも、あなたは、水が甘露だから飲むのではなく、体が水を欲しているから、飲むのです。
身体が水を欲していることと、水が甘露だと感じることは別です。
そして、わたしたちは、身体が水を欲しているから、飲むのです。
そこを間違えてはいけません。
つまり、絶望するから頭が良くなるのではなく、スコトーマが外れることで頭が良くなるのです。
でも、スコトーマが外れる体験に付随して、絶望が訪れるので、「絶望したくない」と思うと、スコトーマを外す機会を失うのです。
だから、逆説的に、絶望するのはいいことだと仮定してみます。
絶望こそを求め、絶望ウェルカムになります。
そうして絶望に耐性をつけることで、スコトーマを外す可能性を高くしたいのです。
絶望というと、まといのばのブログのある文章を思い出すので、それを引用して、締め括らせていただきたいと思います。
(引用開始)
正直なケプラーは「ああ、ああ、私は何と頭の悪い老けた鳥だったことか!」と嘆きます。
こんな話です。
「ケプラーは、火星の軌道が円ではなく楕円であるという衝撃的な結論に至らざるを得なくなるまでの、思考過程のすべての紆余曲折を書き残した。ケプラーは自分の苦闘を『ああ、私は何と頭の悪い老けた鳥だったことか!』と表現した。」(p.215 「ファインマン計算機科学」)
ファインマンは自身のノーベル賞記念講演で同様にこう語ります。
「私は、はっとしました。なんておれはとんまなのだろう。私が計算をしたのは、つまり普通の光の反射じゃないか。輻射の反作用なんかではない。」
(p.288 R.P. ファインマン 江沢洋訳 物理法則はいかにして発見されたか)
(中略)
自分の過ちや愚かさに気付ける瞬間というのは、自分の視点が抽象度方向にスライドした瞬間でもあります。それが新しい発見につながるかどうかはともかくとしても、抽象度は上がるのです。間違いを認めた上で、その先を発見すれば「ユーリカ(εὕρηκα)」になるのでしょうが(アルキメデスの初版本も並んでいます。ユークリッドと並んで!!)、そこまでいかなくても間違いを発見することこそが重要です。
我々の喜びとは「ああ、私は何と頭の悪い老けた鳥だったことか!」「 what a stupid fellow I am」という叫びの中にあるように思います。
(引用終了)
それでは、また。
またね、ばいばい。