つい人の死から逃げてしまった「わたし」です
気功を学び始めると、親しい人間の死を経験する。
そう、まといのばの主催は仰いました。
以下より、引用させていただきます。
(引用開始)
「いやいや、自分にはそんな深い絶望も無ければ、怒りも、衝動もない、、、、、」というのは、本当でしょうか?
何の話かと言えば、昨日の記事でヒーラーとして独り立ちする人の多くは、気功を学び始めたころに、自分の親(ちか)しい人を亡くしているという話をしました。
これはオンラインメンターという講座のコンテンツ冒頭での忌々しい「予言」でもあります。
多くのプロのヒーラーが伏せている公然の事実でもあります。
気功によってなんとかその親しい人をなんとか癒やしたいと思い、それが半ば成功した時もあり、手応えも感じているのに、最後は力及ばずで、手のひらから砂がこぼれるように、命を失ったという経験です。
自分の無力を痛感し、気功の無力を痛感し、取り返しのつかいないことに長いこと絶望する経験です。それは怒りであり、哀しみであり、絶望であり、無力感であります。やりようのない感情に身を焦がすでしょう。
でも「そんな経験がない自分には、ヒーラーとして本気で独り立ちするのは無理なのでしょうか?」、と悩む人も多いでしょう。
しかし、それは本当なのでしょうか?
自分にはそんな経験が本当にないのでしょうか?(まあ、これからかもしれないということはありえますが)。
いや、嘘をついているのではなく、忘れているだけなのかもしれないということです。
https://ameblo.jp/matoinoba/entry-12430282438.html
(引用終了)
気功を学び始めたとき、わたしのじいじ(わたしの家族は祖父をじいじと読んでいました)が、癌にかかりました。
じいじは一度、十メートルの高さの煙突から落ちてから、両足が動かなくなり、車椅子で生活をしていました。
それなのに、ガンにまでかかってしまうなんて……と、なぜか平然とした顔で、愕然とした心境になったことを覚えています。
そのとき、わたしは気功を学んでいましたので、「気功で治してやる!」と奮い立ったのかと言えば、ざんねんながら答えはノーになります。
たしかに初めは、わたしも気功でじいじを治そうとしましたが……心のどこかではあきらめてもいました。「私なんかにできるわけがない」と。
だから、すこしだけ気功を試して、「やっぱり効果なんてないなぁ……」と、すぐに辞めてしまいました。
これは、きっと、わたしの短い人生における、最大の後悔でした。
じいじなんて治せないと思ったわたしは、無意識に気功の存在をわすれました。これは、今だから思い出せますが、当時はほんとうに無意識でした。
気づかない間に、気功の重要度が下がっていたのです。
そして、じいじとの会話も少なくなりました。
少しずつ体調が悪くなり、部屋から一歩も出られないじいじを前にして、わたしは話しかけることを明らかに避けていました。
目をそらしていたのです。
そして、じいじは亡くなりました。
最後に、じいじが亡くなる数時間ほど前に、わたしが言った言葉を、今でも覚えています。
「じいじ。じいじは、大人になったら、どうせ宗教のことなんか信じなくなる。そう言ったよね。たしかにもう信じてないよ。でも、じいじの言ったその言葉は今でも覚えてるよ。これからも覚えてる」
この言葉がちゃんとじいじに届いていたら。そう思わずにはいられません。ずっとずっと、じいじに言いたかった言葉で、でも最後になるまで言い出せずにいました。
届いて欲しい、そう願います。
それから、わたしはいろいろなことから逃げて、ただ時間をつぶすためにだけに、ネット小説を読み漁っていました。
わたしは、気功を避けていました。
わたしは、じいじの死から逃げていました。
そして、その事実をまといのばの記事を見るまで、忘れていました。
忘れてしまっていたのです。
なぜ、こんなことが起こったのでしょう?
わたしは、その答えは、クリエイティブ・アヴォイダンス(創造的回避)にあると思います。
クリエイティブ・アヴォイダンスについては、苫米地博士が分かりやすく語ってくれていますので、それを引用させていただきます。
(引用開始)
「クリエイティブ・アヴォイダンス」という言葉があります。日本語に訳すと「創造的回避」という意味です。
モチベーションが高まっていないと、人間の脳は「クリエイティブ・アヴォイダンス」の方向に活性化します。つまり、目の前のタスクを回避する(サボる)ために、さまざまなアイデアを編み出すのです。
たとえば「忙しいときほど部屋の掃除をしたくなる」と言う人がいます。それは目の前の仕事があまりにも忙しくて、その現実から逃避するために、「部屋がきれいになれば、いいアイデアが思い浮かぶかも」というロジックを脳が構築して、部屋の掃除をしろと脳が指令を出すのです。
もちろん、部屋の掃除をしたからといって、気分転換にはなるかもしれませんが、目の前の問題を解決するためのアイデアを思いつくはずがありません。
モチベーションが低く、サボりたいという気持ちが強ければ強いほど、脳は創造的なサボる理由・言い訳を思いつきます。
(引用終了)
わたしは、モチベーションが低いというのは、エフィカシーが低い、と言いかえることができると思います。
エフィカシーとは、「自己のゴール達成能力に対する自己評価」のことです。
簡単にいうと、エフィカシーとは「わたしはゴールを達成できる!」という確信です。
エフィカシーという言葉を聞くと、わたしたちはつい根拠を求めてしまいます。
「わたしは今までろくに成功していなかったのに、こんなすごいゴールを達成できるわけがない」
つい、そう思ってしまいます。
でも、過去の実績は関係ありません。
何故なら、ゴールとは未来のことだからです。
エフィカシーについて、苫米地博士がYouTubeで無料で解説してくれていますので、その一部を引用させていただきます。
(引用開始)
エフィカシーの定義っていうのは
実績とか関係ないし
もしくは…わかる?
実績っていうのは
実際にこうなりましたとか
何でかっていうと
これは未来のことだから
過去はどうでもいいのね
実績って過去の話じゃん
実績は逆になくてもいいのね
俺は達成できる奴だ
私には達成できます
それがエフィカシーなのね
だから根拠はいらないのね
(引用終了)
わたしは、じいじがガンになったとき、エフィカシーを上げることを怠ってしまいました。
「こんな気功初心者のわたしに、じいじを助けられるはずがない」というのが、当時のわたしの自己評価だったのです。
そんな状態で、わたしはじいじを助けようとしました。
しかし、実はこれは「have to」なのです。
「できるわけがない」
「だけど、しなくちゃ」
「じいじが死んじゃう」
そんな思考で行動したせいで、見事にクリエイティブ・アヴォイダンスの罠にハマり、気功もじいじも記憶から消去し、逃げてしまいました。
あなたはもしかしたら「わざわざ逃げるために、記憶を消すの?」と疑問に思うかもしれません。
しかし、脳というのは、とてもクリエイティブな器官なのです。
「have to」から逃げ出すために、記憶を消してしまうなんて、脳にとってはわけないことです。
わたしたちは、「したくない」と思ったことから、つい逃げるための理由を創り出そうとしています。
それは、無意識の内に行われることです。
だから、気づけば、大切にしたかったことからも逃げてしまいます。わたしのように。
ならば、どうすればよいのでしょうか?
コーチングの創始者であるルー・タイスが、簡潔に答えを示してくれています。
(引用開始)
自分が生きる姿勢を変えた瞬間のことは、よく覚えています。それは、私の人生を永遠に変えた瞬間でもありました。スタジアムに車で向かっていたときのことです。赤信号を止まると、すぐ横に酒場(タバーン)がありました。
もう三十年も前の出来事ですが、今でも鮮明に記憶に残っています。私のセルフトークが始まります。「試合なんて行かなくていい。ここで車を停めて、あの店に飲みに行けばいいじゃないか。試合になんて行くな。行く必要なんてないんだ」
しかし、私の中の別の声が言います。「『行かなくていい』って、どういう意味だ?『行くな』って、どういう意味だ? おまえは九歳のときからコーチになりたがっていたじゃないか。『行く必要はない』じゃなくて、『行きたい』だろう? 誰かにこの仕事を取り上げられそうになったら、必死でそれを守るだろう? だから黙って進め。おまえは行くことを選んだ。行きたいと思っているんだよ」。これは本当なことですが、私はその日以来、大きな重圧を感じることはなくなりました。
プレッシャーをつくり出すのは自分自身です。仕事や目標や家族や人生を、「しなければ」を基準に考えてしまうからです。そのプレッシャーを解き放ってしまえば、今よりずっと効果的に行動することができます。自分の行動を流れに乗せることができます。そうしないと、「しなければ」の状況を避けるためのネガティブな創造性ばかりを発揮することになります。
(引用終了)
いつどこでも「したい」を基準に置くことで、わたしたちはクリエイティブ・アヴォイダンスの罠を回避することができます。
当時のわたしは、「have to」を基準に置いてしまったことで、じいじからも気功からも逃げてしまいました。
そう気づいてから、とてもビクビクしています。
また、いつクリエイティブ・アヴォイダンスにハマってしまうのか。
わたしは、また「have to」な行動を取ってやしないか。
先生に対して、失礼な行為を働いていないか。
そして、いつまで、この記憶を忘れずに、自分を律していけるのか。
正直に白状すると、怖いです。
けれど、そのように思考していて思ったことは、「恐怖」という感情は、もしかしたら意外と役に立つのでは?
ということでした。
過去の過ちはもう変えることはできませんが、未来の行動を変えることにつながると思います。
そして、それだけが、あの日死んだじいじに、わたしが唯一してあげられる報いなのでしょうか。
そんなことをふと思ったので、今日noteに書かせていただきました。
長い文章を読んでいただいて、ありがとうございます!
それでは、また。
またね、ばいばい。