ルー・タイスの文章読解問題への回答
私の人生はかつて思い描いたものとは、まったく異なるものになっています。あなたの成功も思ったとおりの形では訪れないかもしれません。しかし、将来振り返ったときは、私のように「わからないものだね。今、コーチをしているんだ」と言っているかもしれません。つまり、大きな理想を描くときには、細かい計画をしないほうがいいのです。方法や手段を固定するのも良策とはいえません。結果を思い描き、方法や手段には柔軟性を持たせましょう。(p.295-296 ルー・タイス『アファメーション』)
Q.ここで、なぜ「しかし」を用いているのか、説明しなさい。
A. 私は、〈私の人生〉と〈あなたの成功〉が並列関係であることを否定するために、〈しかし〉が用いられたのだと回答します。
もし、この二つが並列関係であるとするならば、あなたは既に、私と同じような人生を送っていることになり、私(著者)はあなた(読者)に対して、〈しましょう〉と勧誘する必要性が無くなります。
だから、〈しかし〉を用いることで、並列関係を否定しました。
そして、それによって、〈かつて思い描いたもの〉と〈あなたの成功〉が並列関係となります。
すると、〈あなたの成功〉が〈私の人生〉と対比関係になったり、
はたまた二文目と三文目が対比関係になったり、
〈あなたの成功〉と〈大きな理想〉が対比関係になったり、と〈そして〉という順接を使うと表れなかった関係が見え、文章全体の意味が立ち現れます。
だから、私は、この文章は〈しかし〉を用いなければならないと考えます。
回答に至った論拠
『私の人生はかつて思い描いたものとはまったく異なるものになっています』の読解
・私の/人生は/かつて/思い描いた/ものとは/まったく/異なる/ものに/なっています
まず、この文章の主語は〈私の人生は〉であり、述語は〈なっています〉です。
主語の〈は〉は主題を示す副助詞〈は〉ですが、他の要素を排除して強調する各助詞〈が〉とは違い、この〈は〉は多くの事柄から何か一つを区別する機能を持ちます。
つまり、その主題の背景を暗に示しているのだと推測することができます。
また、〈かつて思い描いたものとは〉の〈とは〉における〈と〉は、関係などの対象を表す各助詞です。
この〈と〉だけでも十分意味が通りそうですが、〈は〉が使われている理由は、〈は〉が主題だけでなく対比も表す副助詞だからでしょう。
つまり、〈私の人生〉と〈かつて思い描いたもの〉は対比関係にあると考えることができます。
そして、〈私の人生〉は主語ですので、〈かつて思い描いたもの〉は〈なっています〉と主語と述語の関係になりません。
述語といえば思い出すのは、多くの述語は目的語を必要とする、ということです。
日本語には目的語はありませんが、「目的語としての役割を果たす連用修復語」はあります。連用修復語とは用言(動詞・形容詞など)などを修飾する語のことです。
たとえば
・私は/リンゴを/食べます
の場合、〈私は/食べます〉だけだと、意味が通りません。なぜなら、動詞の力の向かう先が〈私〉ではないからです。故に〈リンゴ〉を目的語として置くことで、動詞の力は〈リンゴ〉へと向かうことになります。
「なっています」という述語に対する目的語とは、〈かつて思い描いたとのとは、まったく異なるもの〉です。
なぜ、〈かつて思い描いたもの〉だけでも、また、〈まったく異なるもの〉だけでも、目的語にはなり得ないのでしょうか。
それは、〈まったく異なるものに〉の『に』は、変化の結果(帰着点)を表す各助詞だからです。
変化する前の状態を言い表すために、〈かつて思い描いたもの〉が必要になるのです。
これらの考察を元に、一文目の文の成分を書き表すと、こうなります。
・〈私の人生は=主語〉+〈かつて思い描いたものとは→まったく異なるものに=目的語〉+〈なっています=述語〉。
それを文意は同じにして、より簡潔に言い表すのであれば、
私の人生≠かつて思い描いたもの
私の人生=かつて思い描いたものとはまったく異なるもの
つまり、
私の人生は、かつて思い描いたものではない。
私の人生は、かつて思い描いたものとはまったく異なるものになっている。
になります。
『あなたの成功も思ったとおりの形では訪れないかもしれません』の読解
・あなたの/成功も/思った/とおりの/形では/訪れない/かも/しれません。
主語は〈あなたの成功〉。
述語は〈訪れないかもしれません〉。
この〈あなたの成功〉につく『も』は並列を表す助詞になり、〈私の人生〉と並列関係にあることが推測できます。
まず、この文章に目的語はありません。
なぜなら、〈あなたの成功も訪れないかもしれません〉で意味が通るからです。
この場合、〈訪れないかもしれません〉という述語の力の向かう先は、〈あなたの成功〉になります。
であれば、〈思ったとおりの形では〉という連文節は、目的語ではない連用修飾語です。
〈で〉は動作や作用が行われるときの状況・状態を表す各助詞であり、その作用とは〈訪れる〉です。
故に、〈思ったとおりの形では〉は、〈訪れないかもしれません〉を修飾しているわけです。
そして、〈では〉の〈は〉は、対比か、もしくは文が何についてのみ語っているかを示しています。
訪れる対象を〈思ったとおりの形〉に限定しています。
そして、それは〈訪れないかもしれません〉のです。
助詞の〈かも〉の〈か〉は不確かな推定を表し、〈も〉はそれを強調しています。
〈しれ〉は〈知る〉という動詞の連用形で、〈ない〉という助動詞がそれを打ち消しています。
つまり、著者は「知らない」のです。
何を知らないのかと言うと、あなたに「思ったとおりの形の成功が訪れるか訪れないか」を推定するための材料がです。
〈かも〉はその対象を知っているから使えます。
たとえば、もしあなたに、よく遅刻する友人がいるとして、その友人と待ち合わせしたら、
「今日も遅刻してくるかもね」
と言えます。
それは、あなたには、そう推定できる材料があるからであり、断定せず、不確かに留めておくのは、「友人が訪れるか訪れないか」という事実は、未来になるまでは知り得ないからです。
しかし、著者が〈あなた〉を推論できる材料は、まったく持っていません。
なぜなら、〈あなた〉とは不特定多数の読者であり、著者は会ったこともない不特定多数の未来の読者のために、その文章を書いたからです。
著者は読者層を想定し、今までのクライアントのパターンと照らし合わせて、その文章を書いたのでしょうが、厳密には〈あなた〉の情報は、なにひとつ知りません。
男か女ですら分からないのです。
だからこそ、〈知れません〉と意味をつけ足すことで、〈訪れないかも〉という意味を打ち消したのです。
ここまで考察した上で、文意を同じにして、より厳密に意味を提示するなら、
・あなたの成功も、思ったとおりの形では訪れないかもと私は推定しています。その推定するための知識は知りませんが。
となります。
『しかし、将来振り返ったときは、私のように「分からないものだね。今、コーチをしているんだ」と言っているかもしれません』の読解
・しかし、/将来/振り返った/ときは、/私のように/「分からない/ものだね。/今、/コーチを/しているんだ」と/言っているかも/しれません。
〈しかし〉という逆説の接続詞は、今は無視し、まずは述語を取らせていただきます。
述語は〈言っているかもしれません〉です。
次は、主語です。
主語は〈(あなた)〉です。
この文章に主語は明示的に書かれていませんが、今までの文章の流れから、「私」と「あなた」のどちらかだと推測することはできます。
そして、この文章は、二文目と同じように〈しれません〉と不確実性を示されていますので、主語は「あなた」です。
主語と述語だけで文章を作るのであれば
「あなたが言っているかもしれません」
になりますが、目的語が抜けています。
目的語はまさしく、〈「分からないものだね。今、コーチをしているんだ」と〉です。
何故なら、助詞の〈と〉は、動作の内容を表しているからです。
動作が〈言う〉であるならば、その内容は「分からないものだね。今、コーチをしているんだ」以外にありません。
その内容について、言及いたします。
〈分からないものだね〉は、『だ』は断定・強調を意味する助動詞で、『ね』は終助詞で軽い感動を表します。
著者は何が分からないのかと言うと、〈今、コーチをしている〉ことです。
分かりやすくするために、このセリフの文章を前後に入れ換えてみます。
「今、コーチをしていることが分からないんだ」
すると、〈分からない〉という動詞に、〈今、コーチをしていること〉が修飾されているのは、容易に理解できると思います。
そして、ただ〈コーチをしていること〉が〈分からない〉と書くだけでなく、〈だね〉までつけ足すのは、それだけ著者が〈分からない〉という感情を強調したいからだと推測できます。
つまり、著者はなぜ自分がコーチをしているのか、まったく分からないのだ、と言いたいのです。
そして、〈私のように〉という修復語が〈言っているかもしれません〉を修飾したことで、〈あなた〉も将来的に著者と同じことを言っている可能性が示唆されています。
最後に、〈振り返ったときには〉という文章を考察していきます。
この文節は、文の成分で言うところの連用修飾語にあたります。
何故なら、この〈には〉という複合助詞における〈に〉は、各助詞にあたるからです。〈とき〉という体言に付いているので。
つまり、この修飾語は〈言っているかもしれない〉を修飾しているのです。
・将来振り返ったときに言っているかもしれない。
と。
〈振り返った〉の『た』は助動詞で発見・確認という意味もあります。
そして、〈ときには〉の〈とき〉は形式名詞であり、主として動作・状態を表す修飾語に続き「場合・時点」などを示します。
つまり、組み合わせると「振り返った時点」という意味になります。
それに付いているのが副助詞〈は〉です。
しかし、〈は〉が付いたことで、〈将来振り返ったとき〉は主題と対比、のどちらかを表すことになります。
表しているのは対比です。
何故、主題ではなく、対比を示しているのかというと、主題を示す副助詞〈は〉は、各助詞〈か〉や〈を〉が付く名詞にも付くからです。
三文目の〈は〉を〈が(を)〉に変えて、提示してみます。
・しかし、将来振り返ったときが(を)、私のように「分からないものだね。今、コーチをしているんだ」と言っているかもしれません。
(を)はもはや言わずもがなですが、多くの人はこの文章に違和感を覚えると思います。
〈が〉という各助詞は、特定する力が強く、他の要素を排除します。
つまり、この文章は〈が〉を使ったことによって、表では明記されていない、けれど大事な要素を排除してしまっているのです。
故に、〈とき〉という形式名詞に各助詞は使われず、副助詞〈は〉が主題を示している可能性は消えました。
とすると、ただ隠された背景を暗に示すだけでなく、それらを対比するために、〈は〉が使われたことが推測できます。
つまり、著者は本当に伝えたいことを、別のものと比べることによって、ポイントをより強調して伝えようとしているのではないでしょうか、
ここで問題なのは、何と何を対象に対比されているのか、ということです。
対比というと、二つのものを比べることですが、まず一つは〈将来振り返ったとき〉が挙げられます。
主語は〈あなた〉なので、〈あなたが将来振り返ったとき〉とも、〈将来振り返ったときのあなた〉とも書けそうです。
対比関係にある内の一つは、明示的に書かれていた〈将来振り返ったときのあなた〉であるならば、もう一つは示唆的なものだと推測できます。
しかし、ここで思い出されるのが、伏せられていた主語〈あなた〉です。
これまでの文章で推測できる〈あなた〉の属性は、主に二種類だと推測できます。
一つは、不特定多数の読者としての〈あなた〉。
二つは、二文目に登場した〈あなた〉です。
そして、〈将来振り返ったときのあなた〉と〈あなた〉は対比関係にあるのだとすれば、
〈ときは〉という文節が、〈将来〉という言葉によって未来を連想させ、二文目の〈あなた〉は自動的に未来から見た過去となり、つまり現在に位置づけられるハズです。
その現在を具体的に特定するのであれば、二文目です。
不特定多数の読者としての〈あなた〉は時間軸に縛られていないので、〈あなた〉を指すのは、二文目の〈あなた〉以外にありません。
そして、二文目のあなたとは、
・思ったとおりの形では成功が訪れないかもしれないあなたです。
〈将来振り返ったとき〉は〈言っているかもかもしれません〉を修飾しているので、
つまり、
・思ったとおりの形では成功が訪れないかもしれない〈あなた〉
VS
・将来振り返ったときは、私のように「分からないものだね。今、コーチをしているんだ」と言っているかもしれない〈あなた〉
この二つの〈あなた〉が対比関係にあることが推測できます。
ここでこの文章の考察を一旦切らせていただき、他の文章の考察に入りたいと思います。
『つまり、大きな理想を描くときには、細かい計画をしないほうがいいのです』の読解
・つまり、/大きな/理想を/描く/ときには、/細かい/計画を/しない/ほうが/いいのです。
三文目の〈しかし〉と同じように、上記の〈つまり〉も一旦無視して文章を分解していきます。
まず述語です。
〈いいのです〉が述語です。
〈のです〉は助動詞の〈のだ〉の丁寧語で強調を意味します。
そして、〈のだ〉と付ける場合、聞き手が「確かではないが、少し知っていること」が前提となります。
たとえば、自己紹介で「私の名前は田中太郎なのです」と紹介されると、どこか違和感を感じると思います。
これは、聞き手が、相手の名前について何も知らない状況だったので、「のだ」という付け足しの言葉が、不自然に力んだ印象を感じさせたからです。
逆に、今まで名前をひた隠しにしてきた友人が「実は、私の名前は田中太郎なのです」と告白してくると、どうでしょう?
少なくとも不自然さはなくなると思います。
これは、あなたが、友人が自分の名前を言うのを嫌っていることは分かる。でも、なぜ嫌っているのかは分からない、という不確かな情報が、「田中太郎」という確かな情報によって補完されたためです。
「田中太郎って名前は確かに嫌だよな」とあなたは思います。
だから、不自然さはないのです。
故に、〈のだ〉という助動詞は不確かな情報を補うために用いる、ということが理解できると思います。
そして、この〈のだ〉は、相手の認識が誤っているときにも使われることがあります。
読者は今まで『アファメーション』を読んでいて、著者が伝えたかったことを少し知っています。
例えば、
多くの人が、ビジョンやゴールを設定するときには必要なリソース(資源)がどこにあるかを知っておこうとします。それが、彼らが人生でわずかなことしかできない理由です。(p.46ルー・タイス『アファメーション』)
という文章を読んで、「そうか。ゴールを設定するときに、必要なリソースを探してはいけないんだな!」と知ります。
そんな読者に、著者は「大きな理想を描くときには、細かい計画をしないほうがいいのです」と、強調して伝えてきているのです。
ここから著者の意思を読み取るのなら、
「お前は相変わらず、必要なリソースを探そうとしているし、細かい計画を立てようとしてるんだぞ。分かってんのか?」
という意志を読み取ることができると思います。
何故なら、〈のだ〉は不確かな情報を補完する文章に使われているからです。
著者からすると、読者はいまだ不確かな情報しか持っていないのです。
なので、「お前の今までの理解は間違ってるからな。ここで修正しておけよ」という意志が上品に伝えられているのだと推測することができます。
とすると、この文の主語は〈(不特定多数の読者としての)あなた〉になります。
その主語と述語を繋げると、
・あなたが(は)しないほうがいいのです。
〈いいのです〉という述語の力の向かう先は、〈あなた〉ではなく、別の文章です。
つまり、目的語です。
目的語は「細かい計画をしないほうが」です。
では、また繋げてみましょう。
・あなたが(は)細かい計画をしないほうがいいのです
これだけでも意味は通りますが、しかし、どうも不自然な印象を受けてしまいます。
このままでは、人生のあらゆるときでも、細かい計画をしないほうがいい、という意味になりかねません。
著者の伝えたいことは、それではないはずです。
では、残った連文節に注目してみましょう。
〈大きな理想を描くときには〉
これは、連用修飾語です。
〈とき〉という形式名詞は、今回は時点ではなく場合を表していると考えるならば、こう書き換えることができます。
〈大きな理想を描く場合には〉です。
そして、〈に〉は動作・状況・感情の原因・理由・機縁を意味します。
すると、〈細かい計画をしないほうがいい〉という動作に対して、原因が〈大きな理想を描くとき(場合)〉となることが分かります。
つまり、
〈大きな理想を描く=原因〉→〈細かい計画しないほうがいい=結果〉
となります。
そして、これに付く〈は〉は、主題ではなく対比を表す副助詞となります。何故なら、〈が〉や〈を〉が付かないからです。
一度、〈が(を)〉が付いた文章を提示してみましょう。
つまり、大きな理想を描くときが(を)、細かい計画をしないほうがいいのです。
〈を〉は〈大きな理想を描くとき〉を目的語にしてしまっていますが、そもそも〈大きな理想を描くとき〉は述語の原因であることは分かっていますので、違います。
そして、〈が〉もまた言外の情報が排除されてしまっています。〈つまり〉は要約を意味しますが、これでは要約とはなり得ません。今まで書いてきた文章まで排除されてしまっているのですから。
よって、この文章は各助詞を使われず、〈は〉は対比を表す副助詞であることが分かりました。
では、何と何が対比されているのでしょうか?
この問いは、〈しかし〉の謎を解くまで後回しにさせていただきます。
『方法や/手段を/固定する/のも/良策とは/いえません』の読解
・方法や/手段を/固定する/のも/良策とは/いえません。
まずは述語を取り出しましょう。
〈いえません〉です。
では、主語はなんでしょう?
これも、先ほどの文章と同じように、〈あなた〉となるでしょう。
〈のも〉と並列を示す副助詞があるからです。
とはいえ、〈のも〉の〈の〉は形式名詞の〈もの〉の省略形でしょう。
なので、正確には〈も〉のみが副助詞です。
並列関係にあるのは、〈も〉の前文にある〈方法や手段を固定すること(の)〉と〈細かい計画〉でしょう。
理由は、どちらも否定されているからです。
〈方法や手段を否定すること〉は〈良策とはいえません〉
〈細かい計画〉を〈しないほうがいいのです〉
と、どちらも前文を否定されています。
故に、この二つの文は並列関係にあり、主語は〈あなた〉だと推測しました。
それでは、主語と述語を抜き出して、文章を構成してみましょう。
・あなたが(は)言えません。
何をですか?
ということで、目的語を抜き出します。
〈方法や手段を固定するのも良策とは〉です。
この文章の構成は非常にシンプルです。
〈方法や手段を固定すること〉=〈良策〉です。
〈とは〉は関連・関係などの対象などを表す〈と〉に、対比の意味を加えるものですが、対比の関係にある語はないので、ここでは命題における主題を示す、と解釈します。
〈方法や手段を固定すること=良策〉という目的語は、〈いえない〉という述語によって否定されています。
そして、〈方法や手段を固定すること〉の否定は、〈方法や手段を固定しないこと〉となります。
それをシンプルに提示するのであれば、
・方法や手段を固定すること≠良策
方法や手段を固定しないこと=良策
つまり、
・あなたが、方法や手段を固定することも良策とは、私はいえない
あなたが、方法や手段を固定することを良策と、私はいえる
になります。
『結果を思い描き、方法や手段には柔軟性を持たせましょう』
・結果を/思い描き、/方法や/手段には/柔軟性を/持たせましょう。
この文章の述語は〈持たせましょう〉。
主語は〈あなた〉です。
この文章は著者が読者を勧誘しています。
〈持たせましょう〉は動詞と助動詞で分割すると、〈持たせ/ましょう〉となります。
〈持たせ〉という動詞〈持たせる〉の未然形に、勧誘の意味を持つ〈よう〉の助動詞の丁寧語〈ましょう〉が付いた形です。
つまり、この文章は〈私(著者)〉が〈あなた(読者)〉を勧誘しているのです。
何をしようと勧誘されているのかと言えば、〈結果を思い描き、方法や手段に柔軟性を持たせること〉です。
誰が? と問われれば〈あなた〉であることは確実です。
なので、この文章の主語は〈あなた〉以外にあり得ません。
つまり、主語と述語を簡潔に並び立てると、こうなります。
・あなたは持たせよう。
〈持たせよう〉の目的語にあたるのは、〈方法や手段には柔軟性を〉です。
〈には〉という複合助詞は、行為の対象を取り立てたり対比させたりできます。
この文章の行為とは〈持たせる〉ことであり、何を持たせるのかと言えば、〈柔軟性を〉です。
つまり、〈柔軟性を持たせる〉という行為の対象が〈方法や手段〉になります。
故に、〈方法や手段には柔軟性を〉が〈持たせよう〉という述語の目的語になります。
では、また文章を並び立ててみましょう。
・あなたは方法や手段には柔軟性を持たせよう。
これだけでも意味は通りますが、著者の真意を伝えるには後一文足りません。
今まで著者は情報を書いてきましたが、これらの文章では読者に「させたいこと」が書いています。
これまでの全ての文章は、著者が読者に「させたいこと」に説得力を持たせるために書いたものに過ぎません。
では、残された最後の文章〈結果を思い描き、〉を取り出して、考察していきましょう。
この文章は、連用修復語です。
この文章もまた、目的語と一緒に「持たせよう」という動詞を修飾しています。
これをシンプルに置き換えると、
・〈結果を思い描き→方法や手段には+柔軟性を〉持たせよう。
となります。
これを文意を同じにして、文章を置き換えると、
・あなたは結果を思い描き、方法や手段には柔軟性を持たせよう。
となります。
『しかし』では意味が通らない理由
これまでの文章で、課題文の文章を全て分解し、意味を推察していきました。
ここからは、なぜ「しかし」を用いているのかの考察に入ります。
著者の目的は、主に最後の文章に提示されることが多いですが、この文章も、最後の文章に著者の目的が提示されています。
つまり、著者は、あなたに「結果を思い描き、方法や手段に柔軟性を持たせませんか?」と勧誘している訳です。
それこそが、著者の目的なのです。
故に、これまでの上記の文章は、最後の文章に説得力を持たせるために書かれていた、と考えるべきです。
では、それを踏まえて、なぜ「しかし」を用いるのか、「そして」ではダメなのかを推察していきます。
そのために、原文を提示します。
私の人生はかつて思い描いたものとは、まったく異なるものになっています。
あなたの成功も思ったとおりの形では訪れないかもしれません。
〈しかし〉、将来振り返ったときは、私のように「わからないものだね。今、コーチをしているんだ」と言っているかもしれません。
〈つまり〉、大きな理想を描くときには、細かい計画をしないほうがいいのです。
方法や手段を固定するのも良策とはいえません。
結果を思い描き、方法や手段には柔軟性を持たせましょう。
〈しかし〉によって、二文目と三文目は逆接関係にあります。
著者は、読者を勧誘するために文章を書いているので、〈しかし〉の後に続く文が、真に読者に共有したい情報であり、前文は偽の情報であることが推測できます。
何故なら、〈しかし〉の後に続く文が偽だと、〈私のように〉が含まれていますので、著者の主張そのものが否定されてしまいます。
それでは、勧誘することはできません。
だから、三文目が真で、二文目が偽なのです。
つまり、
・あなたの成功も思ったとおりの形では訪れないかもしれません→偽
〈しかし〉、
・将来振り返ったときは、私のように「わからないものだね。今、コーチをしているんだ」と言っているかもしれません→真
になります。
そうすると、問題になってくるのは、二文目と並列関係にあった一文目です。
二文目の〈あなたの成功も〉という並列助詞〈も〉によって、一文目と二文目は並列関係になっています。
並列とは、同じ(性質)分類のものを更に並び立てることを言います。
一文目と二文目は同じ分類なので、二文目が偽と否定されると、一文目までも偽と否定されます。
つまり、
私の人生はかつて思い描いたものとは、まったく異なるものになっています→偽
あなたの成功も思ったとおりの形では訪れないかもしれません→偽
しかし、将来振り返ったときは、私のように「わからないものだね。今、コーチをしているんだ」と言っているかもしれません→真
になります。
しかし、三文目は〈私のように〉と、一文目と同じ性質を三文目に持たせているので、三文目の文章も偽と否定されることになってしまうのです。
結果、
私の人生はかつて思い描いたものとは、まったく異なるものになっています→偽
あなたの成功も思ったとおりの形では訪れないかもしれません→偽
しかし、将来振り返ったときは、私のように「わからないものだね。今、コーチをしているんだ」と言っているかもしれません→偽
全ての文章が、偽と否定されてしまいました。
これが、私たちが〈しかし〉という逆接を使うと、意味が通らなくなる、と感じてしまう原因なのだと私は考えます。
『そして』では意味が通らない理由
では、この〈しかし〉という逆接を〈そして〉という順接に置き換えて、文章を読み解いていきましょう。
私の人生はかつて思い描いたものとは、まったく異なるものになっています。
あなたの成功も思ったとおりの形では訪れないかもしれません。
〈そして〉、将来振り返ったときは、私のように「わからないものだね。今、コーチをしているんだ」と言っているかもしれません。
つまり、大きな理想を描くときには、細かい計画をしないほうがいいのです。
方法や手段を固定するのも良策とはいえません。
結果を思い描き、方法や手段には柔軟性を持たせましょう。
〈そして〉と順接の接続語を使うことで、意味が通っているように感じられます。
実際に、通っているのでしょう。
前文だけを抜き出すのであれば、ですが。
〈そして〉という接続詞が規定する関係の種類は、主に継続・結果・並列の三つです。
この三つの役割を分かりやすく区別するために、文意を同じにして、接続詞だけを書き換えてみようと思います。
『継続』
あなたの成功も思ったとおりの形では訪れないかもしれません。〈それから〉、将来振り返ったときは、私のように「わからないものだね。今、コーチをしているんだ」と言っているかもしれません。
『結果』
あなたの成功も思ったとおりの形では訪れないかもしれません〈ので〉、将来振り返ったときは、私のように「わからないものだね。今、コーチをしているんだ」と言っているかもしれません。
『並列』
あなたの成功も思ったとおりの形では訪れないかもしれません。〈また〉、将来振り返ったときは、私のように「わからないものだね。今、コーチをしているんだ」と言っているかもしれません。
まず、『結果』を表した文章に違和感を感じると思います。〈訪れないかもしれない〉とはあくまで可能性に過ぎませんので、それを原因と言うには不確かに過ぎます。
同様に、『継続』を表した文章も、〈将来〉と時間軸が提示されているように見えますが、こちらも意味が通っているとは思えません。
何故なら、三文目には〈将来〉が含まれているので、二文目が過去であると定義するのであれば、〈かもしれない〉という可能性の記述は矛盾します。
過去の出来事は既に確定されていて、評価は変えることはできますが、可能性を論じることはできないからです。
なので、『継続』も無しです。
残った『並列』が真であるならば、三文目は二文目と同じ分類に属する、と考えることができます。
そして、一文目と二文目は並列関係にあるので、一文目と三文目も並列であると分かります。
つまり、
私の人生はかつて思い描いたものとは、まったく異なるものになっています。
⇔
あなたの成功も思ったとおりの形では訪れないかもしれません。
⇔
将来振り返ったときは、私のように「わからないものだね。今、コーチをしているんだ」と言っているかもしれません。
となります。
しかし、問題となるのは、〈私の人生〉と〈あなたの成功〉が同じ分類に属するのであれば、著者は、そもそも勧誘する必要性が無くなってしまう、ということです。
何故なら、既に、〈あなた〉は〈私〉と同じような人生を送っているのですから。
よって、〈そして〉という接続詞も使えないことが分かります。
真の並列関係の説明
であるならば、〈しかし〉の時点で、読解でなんらかの間違いを犯してしまっていたことを疑うべきです。
すると気になったのは、〈しかし〉と〈そして〉どちらの文章も、〈私の人生〉と〈あなたの成功〉を同じ分類に入れてしまったことで、崩壊してしまった点です。
もう一度、何故どちらの文章も崩壊してしまうのか、簡潔に解説してみようと思います。
1.〈私の人生〉と〈あなたの成功〉が同じ分類なので、三文目が〈あなたの成功〉を否定すると、〈私の人生〉も否定してしまう。
さらに、〈私の人生〉と〈私のように〉の三文目は同じ分類に入るので、三文目までも否定することになり、結果、文章が崩壊する。
2.〈私の人生〉と〈あなたの成功〉が同じ分類だと、〈私〉と〈あなた〉も同じ分類に入るので、〈私〉が〈あなた〉を勧誘する必要がなくなり、結果、文章は崩壊する。
となると、〈私の人生〉と〈あなたの成功〉は同じ分類、並列関係にあると扱うのは間違っていると推測できます。
私の人生はかつて思い描いたものとは、まったく異なるものになっています。
あなたの成功も思ったとおりの形では訪れないかもしれません。
私たちは、この文章を読む際に、〈あなたの成功〉と並列関係にあるのは、〈私の人生〉以外に無いと思っていましたが、よくよく読み返してみると、もう一つ〈あなたの成功〉と並列関係になれる言葉が見つかります。
それは、〈私の人生〉と対比関係にある〈かつて思い描いたもの〉です。
〈私の人生〉とは違い、〈かつて思い描いたもの〉こそが〈あなたの成功〉と並列関係にあるのです。
つまり、
〈あなたの人生〉
⇔
〈かつて思い描いたもの〉
であり、これに対比関係もつけ足すならば、
〈私の人生〉
≠
〈あなたの人生〉
⇔
〈かつて思い描いたもの〉
となります。
この考えになると、非常にスッキリします。
というのも、著者が〈かつて思い描いたもの〉を〈あなたの成功〉と見做すことができるからです。
つまり、かつての著者は、読者と同じように、『成功』を思い描いていたが、今はまったく異なるものになっている。
だから、読者が思い描く『成功』も訪れないかもしれない、と著者は予想しているのです。
『しかし』を用いる理由の説明
それでは、そろそろ〈しかし〉という逆接の接続詞がもたらす意味を読み解いていきましょう。
私の人生はかつて思い描いたものとは、まったく異なるものになっています。
あなたの成功も思ったとおりの形では訪れないかもしれません。
〈しかし〉、将来振り返ったときは、私のように「わからないものだね。今、コーチをしているんだ」と言っているかもしれません。
二文目と三文目が逆接関係となります。
つまり、
あなたの成功(⇔かつて思い描いたもの)も思ったとおりの形では訪れないかもしれません。
vs
将来振り返ったときは、私のように「わからないものだね。今、コーチをしているんだ」と言っているかもしれません。
となります。
この場合、〈将来振り返ったとき〉が真で、〈あなたの成功〉は偽となります。
何故なら、〈将来振り返ったとき〉が偽であるならば、著者の人生が間違ったことになり、勧誘自体ができなくなるためです。
よって、〈あなたの成功〉が偽となります。
しかし、〈私の人生〉は偽にはなりません。〈あなたの成功〉と並列関係にあるのは、〈かつて思い描いたもの〉だからです。
そして、〈私の人生〉と対比関係にあった〈かつて思い描いたもの〉は、〈あなたの成功〉と並列関係にあるので、〈私の人生〉と〈あなたの成功〉は対比関係にあると見なすことができます。
すると、〈あなたの成功〉が偽であるならば、対比関係にあった〈私の人生〉は真となり、〈将来振り返ったとき〜〉と同じグループに属すると推測できます。
つまり、
〈かつて思い描いたもの〉⇔〈あなたの成功〉→偽
vs
〈私の人生〉⇔〈将来振り返ったとき〉→真
となります。
これで〈しかし〉を用いることが、文法上正しいことが証明されました。
しかし、なぜ〈しかし〉を用いるのかは、未だ分かりません。
放置した二つの対比の説明
この問いを解く鍵となるのは、〈つまり〉の後に続く文章だと私は考えます。
〈つまり〉、大きな理想を描くときには、細かい計画をしないほうがいいのです。
方法や手段を固定するのも良策とはいえません。
結果を思い描き、方法や手段には柔軟性を持たせましょう。
接続詞〈つまり〉は、前文で述べた文の要約であり、何が伝えたかったのかを示す言葉でもあります。
要するに、これは前文の言い換えでもあって、故に、要約の文章は前文によって既に説明されている、といえます。
それでは、これまで後回しにしてきた二つの対比の謎に挑んでいきましょう。
1.
〈思ったとおりの形では成功が訪れないかもしれない『あなた』〉(以下、成功あなたと略します)
VS
〈将来振り返ったときは、私のように「分からないものだね。今、コーチをしているんだ」と言っているかもしれない『あなた』〉(以下、将来あなたと略します)
この二つの文章は対比関係にありますが、具体的な違いと、どちらが正しいか分からない。
2.
〈大きな理想を描くとき〉と何が対比されているのか分からない。
まず1.の問題では、『成功あなた』が偽で、『将来あなた』が真であることは、今までの推論から分かります。
すると、著者の目的は、『成功あなた』を『将来あなた』に移動させることであると推測できます。
何故なら、著者は〈私のように〉なって欲しくて、そのために勧誘しているからです。
ならば、『成功あなた』→『将来あなた』となることが著者の目的となるハズです。
『成功あなた』が〈結果を思い描き、方法や手段に柔軟性を持たせる〉ようになることで、『将来あなた』に変わるのでしょう。
そのために、著者は〈結果を思い描き、方法や手段に柔軟性を持たせよう〉と勧誘しているわけです。
つまり、この二つの『あなた』の違いは、〈結果を思い描き、方法や手段に柔軟性を持たせる〉人間か否かです。
次に2.の問題では、〈大きな理想を描くとき〉と対比関係にある文章を探さなければなりませんが、その方法はシンプルです。
同じグループに属する文章と対比することはできないので、〈大きな理想を描くとき〉と異なるグループに存在する文章を探せばいいのです。
まず初めに、〈つまり〉の後に続く文章は全て、同じグループに入ります。要約文なので。
次に、前文から探していきます。
私の人生はかつて思い描いたものとは、まったく異なるものになっています。→真
あなたの成功も(⇔かつて思い描いたもの)思ったとおりの形では訪れないかもしれません。→偽
しかし、将来振り返ったときは、私のように「わからないものだね。今、コーチをしているんだ」と言っているかもしれません。→真
〈私の人生〉と〈将来振り返ったとき〉は同じグループに属し、著者は〈私の人生〉と同じような人生へと勧誘したいので、この二つの文章も〈大きな理想を描くとき〉と同じグループに属することになります。
つまり、
私の人生はかつて思い描いたものとは、まったく異なるものになっています。→真
あなたの成功(⇔かつて思い描いたもの)も思ったとおりの形では訪れないかもしれません。→偽
しかし、将来振り返ったときは、私のように「わからないものだね。今、コーチをしているんだ」と言っているかもしれません。→真
つまり、大きな理想を描くときには、細かい計画をしないほうがいいのです。→真
方法や手段を固定するのも良策とはいえません。→真
結果を思い描き、方法や手段には柔軟性を持たせましょう。→真
となります。
この中で仲間はずれとなっているのは、〈あなたの人生〉だけですね。
ということは、〈大きな理想を描くとき〉と〈あなたの人生〉が対比関係にあることが分かります。
つまり、
あなたの成功(⇔かつて思い描いたもの)→偽
VS
大きな理想を描くとき→真
となります。
それでは、この二つの文章を対比させることで、一体どんな要素が浮き彫りになってくるのでしょうか。
これは、成功と大きな理想の違いです。
この二つの違いを明らかにするために、成功と理想の定義をWikipediaから抜き出してみましょう。
(引用開始)
成功は、計画などがうまくいき目標が達成できたことや、社会的に一定以上の地位を得たことを指す。
(引用中断)
理想(りそう)とは、考えられるうちで最高の状態のこと。
また、ある条件を定義し、それにあてはまったものを指して「理想」と呼ぶ場合もある。現実の対義語 (理想⇔現実) であるが、その現実を作る上で、目標となるものである。
実現可能な相対的な理想と、到達不可能な理想に分けられる。
(引用終了)
理想とは、実現可能な相対的な理想と、到達不可能な理想に分けられます。
そして、大きな理想とは、到達不可能な理想を指すと言えるハズです。
とすると、この〈成功〉と〈大きな理想〉の違いとは、到達可能性があるか否か、もしくは、計画が立てられるか立てられないか、であると推測できます。
つまり、
〈成功〉
・到達可能性がある
・計画を立てられる
〈大きな理想〉
・到達可能性が無い
・計画を立てられない
となります。
と思い出されるのは、一文目と二文目です。
・私の人生はかつて思い描いたものとはまったく異なるものになっています
・あなたの成功も思ったとおりの形では訪れないかもしれません。
〈あなたの成功〉と〈かつて思い描いたもの〉は並列関係にあるので、同質と見做すことができるハズです。
つまり、著者もかつては〈成功〉を思い描いていた、と解釈することができます。
しかし、著者は、「私の人生はかつて思い描いた〈成功〉とはまったく異なるものになっている」と述べます。
そして、それは〈あなたの成功も〉なのです。
ということは、
計画〈=思ったとおりの形〉が上手くいき、あなたの目標〈=成功〉が達成されることはない、ということです。
つまり、
私は、計画が上手くいって成功したことがない。
だから、あなたも、計画が上手くいって成功することはないかもしれない。
と著者は伝えているのです。
すると疑問になるのは、今まで著者は成功したことがないのであれば、なぜ読者を勧誘しようとするのでしょうか。
故に、〈しかし〉という逆接の接続詞です。
・〈しかし〉、将来振り返ったときは、私のように「分からないものだね。今、コーチをしているんだ」と言っているかもしれません。
この文章は、はっきり言うと勝利宣言です。
著者も、読者も、計画が上手くいって成功したことがない。
しかし、著者は「分からないものだね。今、コーチをしているんだ」と、その人生を肯定しているのです。
著者は読者を勧誘しているのですから、少なくとも、このセリフは否定では絶対にありません。
つまり、計画が上手くいって成功したことがなかった、という状態は著者も読者も同じです。
しかし、『将来』の二人の人生は異なっているのです。
そして、著者は、お前の人生より私の人生の方が良いから! と主張しているのです。
どうして、著者はその場所に来れたのか?
・つまり、大きな理想を描くときには、細かい計画をしないほうがいいのです。
と説明してくれています。
つまり、著者は、計画が立てられる成功を思い描くことを辞めて、計画が立てられないほど到達不可能な大きな理想を描くことにしたのです。
でも、それだけでは読者に伝わらないと思って、
・方法や手段を固定するのも良策とはいえません。
と更に補足してくれているのです。
何故なら、上手くいかないから。
計画の意味についてWikipediaから抜き出すと、
(引用開始)
計画(けいかく、英: planあるいはprojectあるいはprogram)とは、何らかの物事を行うために、あらかじめその方法や手順を考え企てること。
(引用終了)
計画通り行われないということは、そこに含まれている方法や手段も上手くいかない、ということです。
上手くいかないのに、その方法や手段に執着してしまうと、どこにも行けなくなります。
だから、
・結果を思い描き、方法や手段には柔軟性を持たせましょう。
と勧誘しているのです。
結果とは、この場合、大きな理想であり、到達不可能かつ計画が立てられない、でも到達したい最高の状態のこと=ゴールです。
まずは、それを思い描きましょう。
そして、そこに行くための方法や手段は固定せず、流動的に、ある種、無作為に変えていこう、と著者は伝えているのです。
つまりは、泥縄式です。「これでいける!」と思ったら、それを続けて、「やっぱり違った」と思ったら、すっぱり辞めなさい。
そうすれば、私のようになれます、というのが著者の主張です。
文章読解
課題文の文章を文意を同じにして、私が読解した形に置き換えるのであれば、
私は、計画が上手くいって成功したことがない。
私の人生は、かつて計画していた成功とは、まったく異なるものになっている。
だから、あなたも、計画が上手くいって成功することはないかもしれない。
しかし、将来振り返ったとき、あなたは、私のように「わからないものだね。今、コーチをしているんだ」と言っているかもしれない。それは良いことだ。
私は、大きな理想(=ゴール)を描くときには、細かい計画をしない。計画なんて立てられないし、そもそも理想に辿り着く方法が分からないからだ。
そして、方法や手段も固定しない。見出したと思った方法や手段でも、上手くいかない場合が多いからだ。私は、いつも泥縄式に上手くいく方法を探している。
だから、あなたも結果(=ゴール)を思い描くときは、方法や手段には柔軟性を持たせよう。
そうすることで、私のような人生を生きられる。
この読解文を踏まえて、なぜ、この課題文では〈しかし〉を用いるのでしょうか。
私は、〈私の人生〉と〈あなたの成功〉が並列関係であることを否定するために、〈しかし〉が用いられたのだと回答します。
もし、この二つが並列関係であるとするならば、あなたは既に、私と同じような人生を送っていることになり、〈しましょう〉と勧誘する必要性が無くなります。
だから、〈しかし〉を用いることで、並列関係を否定しました。
そして、それによって、〈かつて思い描いたもの〉の〈あなたの成功〉が並列関係となります。
すると、〈あなたの成功〉が〈私の人生〉と対比関係になったり、
はたまた二文目と三文目が対比関係になったり、
〈あなたの成功〉と〈大きな理想〉が対比関係になったり、と〈そして〉という順接を使っては、表れなかった関係が見え、文章全体の意味が立ち現れます。
だから、私は、この文章は〈しかし〉を用いなければならないと考えます。
【参考文献】
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