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『ホーランジア』05 さよなら弥生
私たちは近づいたり遠ざかったりする敵襲を警戒して、しばらく茂みに隠れていることにした。日が高くなってきて、暑さが増してきた。茂みの中はまだいくらかはマシなんだろうから、今、外に出たらきっともっと暑いに違いない。こんな中を2日も歩いてきて、その前からお風呂に入っていないとなれば、そりゃあ多少の臭いもするのは当然だ。だけど、自分だったらちょっと耐えられないと思った。
「お風呂、入れないのツラくない?」
「まあな」
「敵がいなくなったら、すぐそこで水浴びくらいしてくるとか」
「いや、そんな悠長にはしてられんよ。隊に合流しないと」
「合流?」
「この空襲でかなりかき乱されてな。皆散り散りになってしまったんだ」
そうか、仲間がいるんだ。
「ここはセンタニ湖という大きな湖なんだ。この西端のヤコンデというところが途中の合流場所になっている。その前にでも誰か会えると心強いが……」
「そうなんだ」
「まあ、遅くとも2、3日中に辿り着けなきゃ、死んだものと思われるだろうなぁ」
「死んだものって、そんな」
「未来ではそうそう死なんか?」
「事故とか事件は時々あるけど、戦争はないから」
「そうか。戦争がないのか、それはいいな。俺も早くこんなとこオサラバしたいよ。もう戦争は御免だ。……ここへ来るまでにも沢山死んだよ」
「…………」
昇さんが小枝で泥をつつきながら、ポツリと呟いた。こんなのって、ないよ。いきなり話題がヘビーだ。そりゃ戦争中なんだから当然だけど、急に死ぬとかそんなこと言われても困る。頭がついていけない。だけどこうしている間も、上空では本物の米軍機が飛び交い、地上を威圧している。風が吹くと、爆撃で燃やされた煙の臭い。南国の蒸れた草花の香り。明らかに、私の知っている日常とはかけ離れた臭い。
「そろそろ行くか」
「え?」
「弥生、お前はどうする?」
「えっと…」
どうする、って言われても、こんなところで置いていかれたら確実に死んじゃう。
「い、一緒に、行っても、いい?」
「見ず知らずの女を同行させるなんて、軍規違反だな。見つかったら俺は軍法会議にかけるまでもなく処刑かもしれん」
「そ、そうだよね……迷惑はかけられないよね」
どうする? なんて聞いたくせに、連れていけないなんて期待して損した。だったら最初から言わなきゃいいのに。
「かといって置いて行って敵に見つかりでもしたら、若い女がどういう目に遭うかなんてわかりきっているからな」
「ちょっ……嘘でしょ?」
信じられないことに、昇さんがまた短刀を抜いて、私に迫ってきた。刀と同じかそれ以上に鋭い眼差しに射られて体が強張る。敵の慰みものになるくらいならいっそ死ねってこと!? 冗談でしょ?
「やめ……っ」
さっきまであんなに優しくて、もう普通に打ち解けてたと思った昇さんが、私の髪をわしづかみにして強く引っ張り上げた。こんなの嫌だよ、助けて!
「今、この瞬間からお前は生弥だ」
「へぇっ?」
ザリザリと頭の上で鈍い音がしたと同時に、掴まれて皮膚が引きつっていた感覚が消えた。見上げると、昇さんの手から長い髪がパラパラとこぼれ落ちた。私の髪の毛、だよね。泥だらけの手だってことも忘れて、自分の頭を探る。
いく、や……
「手をどけてろ。髪は女の命というが許せ、軍規じゃ坊主なんだ。生きてりゃまた伸びる」
「う…うん」
刃が頭皮を滑る。頭まで切られそうで怖い。ヒヤヒヤしながら、落ちる髪をただ眺めた。頑張って伸ばしたのにな。
「それにしても、女にしておくのがもったいない顔だな」
「それ、褒めてないよ」
「あはは、すまんな」
すっかり坊主頭になった私を満足げに眺めて、昇さんが冗談めかして言った。どうせ男顔ですよ。結局、殺されるのかと焦ったのは取り越し苦労で、だけど女の弥生はここで一旦、死んだ。白い服は目立つからと、汚れていない部分も泥を付けてわざと汚した。
「だけど、このまま合流して、軍人じゃないってバレないかな? 服だって……」
「軍服なら道中でそのうち手に入る」
「どういうこと?」
「行けばわかる」
ちょっと言葉を濁すような昇さんが気になったけど、私たちは歩き出した。日が暮れるまでに少しでも足を進めなければならない。偵察機の目を盗むために、鬱蒼とした森の中を行く。森、なんてメルヘンな感じじゃなくて、ジャングル。なんとなく、裏の雑木林と感じが似てるかも。手入れされていなくって、道なんて言えないような獣道で、いろんな木が不規則に生い茂っている。
「トラとかいない?」
「そういうのはいないな。時々ヘビはいるぞ、毒があるのもいるから気を付けろ」
「ヘ、ヘビ!」
ヘビというワードに驚いてお腹に力が入った拍子に、お腹がキューと鳴ってしまった。
「腹が減ったか。そうだな、昼飯にしよう」
「う、うん」
聴こえてしまったみたいで恥ずかしい。まだいくらも歩いてないけど、湿度が高くて疲労感がハンパない。南の島は日本みたいにベタベタしないって、だれか言ってなかったっけ? 泥まみれのせいもあるんだろうけど、日本の夏より鬱陶しい。
「よっ、と」
「はぁー、疲れたぁ」
岩場に腰掛け、昇さんがリュックを降ろした。袋の周りにいろいろなものが括り付けられていて、いかにも重そうだ。
くるくると筒状に巻かれた毛布みたいな布に、もうひとつ同じく巻かれた堅そうな布、キャンプとかで使う感じの飯盒? にシャベル、そんな感じのがリュックの周りに紐でくっついてる。
「重たそう」
「お前とどっちが重いかな?」
「えっ、そりゃ人のほうが重いんじゃ」
「どれ」
「きゃぁ!」
言うが早いか、昇さんが私を肩に担ぎあげた。
「おお、思ったより重いな」
「何それ! そういえばさっきも栄養状態が良いとかなんとかいって、女の子に向かって失礼じゃない?」
「女? どこに女がいるんだ? なぁ生弥?」
「ばかぁ! 降ろして!」
「ははは」
降ろされた時、地面にドスンとならないように腕で支えてくれてた。
どきんと心臓が鳴る。顔が、近いよ。日焼けと泥で浅黒い肌に、瞳の白と歯が眩しい。鼓動が一気に加速したのがわかった。
「ほら、食え」
「えっ、あっ、ありがとう」
降ろされたところでそのままボーっと立っていた私に、昇さんがクッキーのようなものを手渡してくれた。
「これ……」
「乾パンだ。知らないか」
「ううん、知ってるよ。昇さんは食べないの?」
「俺はお前と会う前に食ったからいいんだ」
手の平に、ちょこんと乗った数個の乾パン。昭和19年なんていうからどんなものが出てくるのかと内心ヒヤヒヤだったから、見たことがあるものを見ることができて、なんだかホッとした。
カリカリの堅い乾パンを口の中で溶かすようにしながら噛む。噛んだら、小麦粉のかすかな甘みが次第に口の中に広がってきた。避難訓練で食べたときはつまんない食べ物だと思ったけど、結構いけるかも。うん、意外と。
「おいしい」
「そうか? なら良かった。俺はあまり好かんがな。日が暮れて敵機がいなくなったら飯を炊いてやるからな」
「お米、あるの? お米ってすごい貴重なんじゃないの?」
「そりゃ、本土の話じゃないか?」
「そうなの?」
「俺がいた頃は配給といったってまだ普通に食ってたが、後から来た奴の話じゃあ白い米を見るのは久方ぶりと言ってたからな」
「へえ」
「まあ、ここでも貴重には変わりないがな。他の食糧と合わせたって、せいぜい10日分くらいだからなぁ」
「そっかぁ」
なんとなく、お米って着物を売って闇で買うくらい貴重なイメージなのに。同じ終戦前でも、本土よりこっちのほうが食べ物が豊富ってことなのかな。食糧10日分ってことは、それくらいで目的地に着く予定なんだな。なんとなくそんなことを思った。
「あー、おいしかった。おかわりしてもいい?」
「また明日な」
正直、全然足らないけど、分けてもらって文句は言えない。
「さ、行くぞ」
「あ、うん」
手際よくリュックに毛布や何やらを括りなおして歩き出す昇さんのあとを追う。
雑草が足に絡みついて歩きづらい。素足の部分に当たって痛痒い。はぁ、サイアク。
「はぁ、はぁ……ちょっと、待って」
「大丈夫か? もう少し行ったら、まだ日はあるが今日は休もう」
「う、うん……」
普段だって別に運動してないわけじゃないし、通学だって毎日チャリ通だし、人並みには体力があるほうだと思っていた。
玲奈と東京に遊びに行ったら1日じゅう歩き通しだったりするから、歩くのも全然平気のつもりだった。だけど真っ平に見えてそうでもない土の上を蒸し暑さの中マリンシューズで何時間も歩き続けるのは、思っていた以上に疲れる。乾パンだけじゃスタミナがもたないのもあると思う。
水も昇さんが昨日沸かしたものをもう飲み切ってしまって、トイレに困るかもと心配したのにまるで出る気配がない。きっと汗で、みんな出てしまったんだ。これって熱中症なるんじゃない? もうなってるかも? っていう状態で、歩き続けている。息をして、足を前に出し続けるだけなのに、それが困難になってきてる。
前を歩く昇さんは、大きな荷物を背負って、ショルダーバッグも下げて、腰にもいろいろぶら下げて、そんな重装備でここに来るまでも歩き続けてきているっていうのに、元気そのものでずんずん進んでいく。対する私は、ポケットにスマホが入っている以外には何も持っていない身軽さで、この有様。男女差もあるとは思うけど、軍人さんは鍛え方が違うんだなって。
それにしても、身長が高いんだな。足も長い。なんとなく昔の人って背が低くて短足のイメージがあったから、ちょっと意外。
昇さんの後ろ姿を眺めていたらバサバサと頭上で木の葉を激しく揺らす音がして、また敵襲かと身をすくめた。
「ひゃっ」
「鳥だよ。心配ない」
見上げて目を凝らすと、枝葉に紛れてカラフルな鳥たちが留まっているのが見えた。
「わ、すごい!」
「空が静かになると、出てくるんだ。この辺りは特に多い。湖の側だからかもな」
熱帯植物園の鳥舎かと思うほどの絶景だった。まるでフルーツや宝石みたいな美しさに息をのんだ。そうか、熱帯、ってこの辺りのことだ。自然の中にいるのが普通なんだ。動物園とかペットショップにいるのが普通だと思っていた自分の常識の浅さが恥ずかしくなった。もともとは野生動物なんだってこと、考えたこともなかった。
「きれー…」
「女は色のついたものが好きなのは今も未来も一緒なんだな」
「今も?」
昇さんが言った今の女という言葉に、ずきりと胸が痛むのがわかった。誰か、思い浮かぶ女性がいるってことだよね。このほんの少しの間に、昇さんを意識しだしていることに、薄々の自覚はあった。それがまた少し確実に近づいたと思った。たぶん、好きに、なってしまっている。
優しくて、逞しくて、自分だって大変なのに冗談を言って笑わせてくれるこの人を、好きになるなと言われたらそれは無理だと思う。だけど、私より歳も上だろうし、こんな時代だし、もしかしたら日本に奥さんを置いてきていたっておかしくない。そしたら諦めるしかないけど。私は昇さんの次の言葉を、息を止めて待っていた。
「お前、歳はいくつだ?」
「じゅ、15」
「そうか。照子より上だな」
照子。その名を聞いて、乾いてあんまり出ない唾を飲みこみ、喉が鳴る。
「まだ10かそこらの子供のくせに、モガに憧れてな。赤い靴と帽子が欲しいって親にせがんでたりしていたよ」
「ふうん…」
10歳……ってことはまだ子供だよね。モガっていったら、まだ着物ばっかりのこの時代で洋服を着る女の人のことだよね。おしゃれが好きな子なんだな。妹さんとかかな? ホッと胸をなでおろす。
「……もう、13になるかな。歳は10離れているが幼なじみでね、兄妹みたいに育ったんだ」
「そう、なん、だ」
収まりかけた胸の痛みがぶり返して、キリキリと締め付けるような痛みに変わる。13歳の10歳上ってことは23歳……大人の男の人だ。お相手がいようがいまいが、中学生の私なんて相手にされないだろうと、気が沈む。
「どうしているかなぁ。弥生みたいに、髪が伸びているかもな」
「もしかして、好きだったりした?」
懐かしそうに目を細めて話す昇さんを見ていたら、つい、からかうように茶化して訊いてしまった。訊きたい、でも聞きたくない、そんな質問なのに。
「かわいい妹だから、そういう意味では好きだな」
「そ、か。元気にしてるといいね」
「そうだなぁ。皆、達者にしてるといいが……本土もあちこちやられていると聞くからなぁ」
「…………」
本土、つまり日本も、この戦争で攻撃を受けていたんだよね。
「なあ、本土は、無事だったか?」
「う、うん! 少しはいろいろあったみたいだけど」
「そうか、なら安心だな」
戦争の詳しいことなんて知らない。だけど、映画になっているだけでも、東京や広島、長崎、沖縄……って、いろんなところが辛い目に遭っていることは知っている。きっと映画の舞台になっていないところだって、相当な被害があったと思う。
だけど、今の昇さんには、言ってはいけないような気がして、また嘘をついた。
それから、歩きながら地元トークをたくさんした。会話があると、ないより疲れを感じない気がして、気が付いたら空が暗くなりだしている。いつのまにか結構な時間が過ぎていた。暑さもだいぶマシになってきていて、そのせいかさっきまでより体が軽い。
「軍にはな、独特の言葉遣いがあるんだ」
「あ、わかるよ! 『自分は、特攻隊に志願するであります!』とか言うんでしょ」
「あはは。少し変だけど、そうそう、そういう風だよ。そういえば、前に言っていたジエイ隊やそのトッコウ隊というのはどういう?」
昇さん、自衛隊はともかく、特攻隊を知らない? もしかしてまだこの時代にはなかったのかも。自分で自分の戦争知識の曖昧さに呆れた。
しかも面白がられちゃって、こういう時に出す話題じゃなかったって凄い反省。私の馬鹿。
「特攻隊は確か『特別攻撃隊』っていうのの略でね」
「ああ、潜航艇の事か。聞いたことがある」
「んー、それもあるけど。それって潜水艦でしょ?」
「未来ではそう呼ぶのか。潜って進む船のことだろ」
「うん、潜って進む。私が言ったのは戦闘機だよ。飛行機が爆弾と片道燃料だけを積んで敵に体当たりするの」
「そんなバカな……。爆撃機を使い捨てにするなんてあり得ない」
「それがあったんだよ。この作戦は日本が」
「日本が?」
もう優秀な操縦士も充分な燃料もなくて、と言いそうになって、慌てて口をつぐむ。負けたって、わかってしまう。
「えっとね……ええと、この無茶めの作戦で日本が勝ったんだよ。今の時点だとまだ行われてないのかも」
「そうか……楽には勝たせてもらえないんだな、体当たり前提で飛ぶなんて」
昇さんの表情は、もう暗くてよく見えない。だけど、それまでの明るいトーンの声じゃなくて。木の上の鳥たちも巣に帰ったのか、静まり返る森の中で昇さんの声が重く響いた。