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(3)サーモスタットを切る/20歳、はじめての転職

 【サーモスタットを切る:3月】

 店を出て路頭に迷った自分は、まずお店のある街にいるのが怖くなって、あてもなく橋本行きの電車に乗った。油くさいユニフォームに、ダウン一枚。荷物も全部おいてきた。平日のお昼の光が差し込む、ガラんとした電車に乗った。深呼吸をした。
 社会人として、とんでもないことをしてしまっている実感があった。自分が、まさかこんなことをしてしまうなんて、思っもみなかった。
 でも、意外と冷静に「さすがに、このまま戻れねえよな」「転職するとして、来月の生活費はどうするの?」「面接のときにすでに離職だったらネガティブな理由ばれそうだな」などと筋道たてて考えている自分もいて驚いた。
 いままで自分にかけていた”感じてはならない””考えてはならない”というサーモスタットを、やっと切ることができていたことに気が付いた。たまには、大号泣も悪くないかにしれない。
 となりの橋本駅につくものの2,3分で、結論にたどりついた。《医者に労務不能の診断書を書いてもらい、本社と連絡をとって無理やり休職にして、籍をおいたまま理由を濁し転職活動をしてしまおう。あわよくば、この間に有給の消化と病気の手当みたいなものをもらえば、なんとか食いつなげるっしょ》なかなか図々しい社会不適合者である。そんな自分に自己嫌悪の気持ちこそあったけれど、やっと図太くなれた自分に、ちょっぴり安心した瞬間だった。

 結論が出てからは早かった。すぐに新宿の心療内科を予約し、その日その足でそのまま新宿まで揺られて、油くさいまま受診した(先生ごめんなさい)。
 診断名はたしか適応障害、1ケ月の労務不能の診断書を作ってくれた。もうその日その後の記憶はあまりない。
 翌日、ネットで休職願の書き方を調べ、診断書と一緒にして、特定記録で本社に送った。 その翌日には、総務の方から電話が来て、無事に休職が受理された。

 【休職中にしたこと:3月-4月】

 もうあとは具体的なエピソードはなくて《1ケ月のタイムリミットの間に、こんな経歴でも採ってくれて、とにかく正社員で今までより待遇のいいところを決める》という課題をクリアするべく黙々と取り組んだ。
 翌日、早速スーツとネクタイを買い、髪を切って証明写真を撮り、面接対策の本を立ち読みした。媒体系の転職サイトを使いひたすら書類選考に応募。簿記の資格を持っていたため、経理の仕事を中心に探すも、高卒未経験社会人経験なしの20歳をとってくれるはずもなく、軒並み書類選考落ち。朝から晩までひたすら、自己分析、書類選考、想定問答。厳しい現実と自分の空っぽさに打ちひしがれる日々。
 住んでいた橋本のアパートの家賃が5万9千円と高く、万が一にも転職活動が長引き家賃が払えなくなるリスクを考慮し、アパートをすぐに解約。千葉から橋本への引っ越しですでに貯金は底を尽きていた。離婚し引っ越しをした父親のワンルームのアパートに部屋の隅っこに1畳ちょい、布団一枚引けるくらいのスペースを間借りした。金を返せと言いながら、同居させて欲しいというのは、なんとも複雑な気分だった。
 高校の頃から使っている中古のノートパソコンを、スマートフォンのテザリングに繋いでマイナビを開き、狭い空間で体育座りで必死になって仕事を探した。惨めだと思う心の余裕もなかった。

 総務の方から有給の全消化をすすめられ、計算すると10万円ほどでることがわかる。
 もし現場にいたままだと、人件費のノルマのせいで間違いなく取らせてもらえなかった。これは休職して正解だった。もう一つ、傷病手当金もすすめられる。これは、労務不能の期間の給料の6,7割くらいをもらえるもので、これも10万円ほど出ることがわかった。ただし、支払決定まで数か月かかるとのことだったが、もらえるだけ本当にありがたい。本当に総務の方には良くしていただき感謝しかない。

 転職活動をはじめて2週間ほどで、やっと一つ経理職で書類選考が通った。目黒にある小さな病院だった。大卒の人からすれば大したものではないだろうが、フリーター同然の自分にとっては十分すぎる待遇だった。かなりの熱を込めて面接に臨むと、あれよあれよと内定が出た。これでやっと肩代わりした借金の返済をはじめて、安定した生活がやっと遅れると本当に安堵した。4月7日、休職期間の終わる3日前、緊急事態宣言が発令された日だった。  転職先が東横線沿線だとわかり、家賃の安さとアクセスの良さと家族との距離のバランスを考え、南武線沿線に引っ越すことにした。すぐに矢野口に3.5万の物件をみつけ、父親の家を3週間で出て、入社3日前の4月17日までにギリギリ引っ越しを済ませた。これだけ家賃を抑えられれば、生活はだいぶ楽になる。

 【退職:4月半ば】

 前いたお店の営業課長から電話があった。「W店のM調理長と、T店のI店長が、自分を預かりたいと言っているから、戻ってくるなら選べ」という内容だった。どっちも昔、自分が高校生のころにいたお店にいた人で、とてもお世話になった人だった。
 とくにI店長は、自分にとってはじめての”店長”で、本当に仕事に熱い人で、ずっと憧れの存在だった。接客の仕事を好きにしてくれた人だった。あの会社にずっといた理由は、I店長の背中を追っていたからといっても過言ではなかった。

 とんでもない疎外感と低い自尊感情に晒されていた自分は、覚えてくれている人、気にかけてくれる人がいることが本当に嬉しくて、電話口にジワッと目頭が熱くなった。
 自分は、ほんの1ケ月前、指を切ってバックヤードで詰められ号泣し、そのまま仕事をバックれた人間である。そんな人間を、また育てたいと言ってくれている人がいる。そんな人間に、また戻れる道を用意してくた人がいる。忘れかけていた愛のようなものを不意打ちされ、感情を強く揺さぶられながらも、電話越しなのに思わず頭を下げながら、退職の意思を課長に伝えた。

 4月20日、転職した。本当に怒涛の1ケ月だった。やっと安定した生活を送れる。
 あとはもう、家のこと確実に、一つ一つ清算していこう。時間が経って落ち着いたら、二人にちゃんと謝りにいって、感謝の気持ちを伝えにいこう。
 初出勤の朝は、そんなことを考えながら、ネクタイを締めた。

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