先生と生徒

 四階建ての校舎の屋上に出ると、ゆるりと流れる秋の風が肌を撫で、それまで走って火照っていた体温を奪っていった。その風に乗ってやってきた、独特の不快な臭いが鼻腔にへばりつく。
 ところどころ剥げかけた緑の塗装が広がる屋上を見渡すと、大きなフェンスの下で煙草を加える学ランの生徒がいた。かっこいいとでも思っているのか、ボタンを全て外して、ズボンを腰の中間まで下げている。頭こそ黒髪だが、どこからどうみても不良少年だ。
「ナガシマ!」
 俺は大きく声を張り上げた。未成年の喫煙、素行不良の代表格といっていいこの行為を、教師の俺が見過ごすわけにはいかない。
 俺の声に小さく舌打ちをしたナガシマは、心底だるそうに立ち上がった。
「何?」
「その手に持ってるのは何だ。出してみろ」
「別にどうでもいいじゃん。プライバシーだよプライバシー」
 そうやってへらへらと嘯くのが、人の神経を逆なでするのを知ってか知らずか、ナガシマはよくこういった態度をとる。
「煙草は駄目だっていう基本的なことも分からないのか」
「分かったよ、止めればいいんだろ止めれば」
 右手に隠し持っていた火のついた煙草をフェンスの向こうへ放り投げ、またケタケタと笑う。
「何だその態度は。お前そんなことで卒業出来ると思ってるのか? 未成年の喫煙ってのはな、立派な法律違反なんだぞ」
「じゃあ別に退学にすればいいじゃん。お前に関係ないんだし」
 そう言うや否や、ナガシマは駆け足で逃げて行った。追おうとも思ったが、次の授業の準備をしなければ間に合わない。俺はため息をつき、ナガシマの背中を見送った。
 この高校に赴任してから三年目。やっと初めて担任を任されて嬉しさを噛みしめていたのだが、幸か不幸か今時珍しい不良にあたってしまった。喫煙を目撃したのはこれで二度目、無断遅刻や早退は当たり前のようにするし、授業はまじめに受けない。これでは進級できる単位数もギリギリだ。始めて受け持つクラスで、あんなに露骨に不良されるのは流石に荷が重い。
 職員室に入ると、うなだれる俺の姿から状況を察したのか、隣のクラスの先生が声を掛けてくれた。
「またナガシマ君ですか?」
「ええ、まあ。さっきちょっとトラブルが」
「トラブルなんて優しい言い方しなくても。大方誰かと喧嘩したか、煙草を吸っていたかでしょう」
 俺より数倍もキャリアのある先生は、そんなこと慣れっこというように言った。
「あんまり、おおごとにしたくないっていうのは、僕のエゴですかね」
「まあ、それが教師の本音だと思いますよ。先生だって、昔は彼と同じような」
「その話は勘弁してくださいよ」
 苦笑交じりに話を切り上げ、教材を持って職員室を出ると、予鈴のチャイムが鳴ってしまい、俺は早足で教室へ向かった。

 ・・・・・・・・・・

 予鈴が鳴ってもあいつは来ない。これ幸いにと教室の後ろで友達と喋る。
 さっきもあの先公に口うるさく説教されて、俺は気が立っていた。友達とあいつの悪口を言い合うのがどれだけ楽しいことか。
「まず顔面どうにかしろよって思うよな」
「気持ち悪すぎるっていうか、ただのジジイだよな、あれ」
「あの声どうにかならないの? マジで。さっきもあれだぜ、『ナカジマ!』って叫んでんの。あのしゃがれ声キモすぎ」
「お前の声真似上手いな」
 次々ととめどなく悪口が出てくる。こういう悪口は仲間内で共有するのが一番楽しいのだ。
 しばらくするとまたあいつが入ってきた。相変わらず同じセンスのない服で、恥ずかしくないのだろうか。
「ほら、席につけ」
 開口一番にそう言った。俺もすかさず――
「『ほらぁ、席につけぇ』」
 本人に聞こえるように声真似をする。クラス中からクスクスと笑い声が聞こえた。仲間の何人かも「それはやばいって」、「あいつ馬鹿だろ」と、笑いを押さえようともしないで言っている。
 ほら、また笑わせてやった。あいつをだしにして笑いを取るのは面白い。そしてあいつは別に気にしないといった態度で、わざとらしく澄まして見せるのだ。
「分かったから、授業始めるぞ」
 クラスはまたシンとなり、教科書を開く音だけが聞こえてくる。一番楽しくない時間だ。
「昨日どこまでやったっけ?」
「六十八ページです」
「ああ、そっかそっか。おっけー、じゃあ……そうだな、答え合わせからか」
 俺の席は教室の真ん中くらいで、あいつとはお互いによくく見える位置に居る。何かをやったらすぐにばれるけど、授業に興味はないから、真面目に受けるつもりもない。俺は授業が始まるや否や、すぐに寝る。
「おい、隣の席のやつ起こせ」
 隣の席の大人しそうな優等生気取りの女が、俺の肩を叩く。当然気づいてはいるが、あえて起きない。つまらない授業をただ受けるだけは馬鹿のやることだ。
「ナカジマ、起きろ」
「ん、何?」
「おい、教科書どうした」
「……忘れましたぁ」
「一昨日もそうだったろ、ちゃんとあんのか?」
「さあ」
 無意味な問答が続く。どうせあいつは無いのが分かってて俺を指すんだろう。
「さあじゃないだろう。無いと困るのはお前なんだぞ」
「じゃあいいだろうがよ。あんたが困るわけじゃないんだから。俺とばしてさっさと授業続けろよ」
「そういう態度をとってて、社会で通用すると思ってるのか!」
「だから関係ないって言ってんだろ? 馬鹿?」
「じゃあ出ていけ。真面目に授業受けてるやつの邪魔だ」
「分かりましたぁ」
 俺がすっとぼけてそそくさと教室を出て行こうとすると、後ろから「おい、ナカジマ!」と呼ぶ声が聞こえが、無視してそのまま逃げた。

・・・・・・・・・・

 シンとなる教室にナガシマの姿はない。うるさいやつが居なくなったので、授業は進むだろうが、クラスの一人が授業に出ないというのは問題だ。他の生徒のモチベーションも下がってしまう。
「じゃあ、四十四ページの例題をやってみようか。まずは……」
 教室には俺の黒板にチョークを打ち付ける音だけが響く。
 最近の子はおとなしい。それが担任になった感想だ。だから、ナガシマのような生徒は、結構珍しい。俺が高校生くらいのときはもっと、何というか賑やかだったはずだが。
 授業の終わりのチャイムが鳴り、次のSHRになっても彼は戻ってこなかった。
 数ヶ月前から親御さんまで呼んで何度も注意したのに、いっこうに治る気配がない。もうほとんどお手上げ状態だ。全員を俺が卒業させる、という意気込みで臨んだのに、真面目に卒業する気がない生徒が居たんじゃ意味がない。どうにかしないと。
 俺はまたナガシマを探すことにした。まだこれからする仕事があるが、そのまま放っておくわけにもいかないし、仕方がない。
 彼が行きそうな場所といえば、正直あそこしかないだろう。

・・・・・・・・・

 体育倉庫裏には、何本もの木が植わっており、外からの人の目を気にしないで喫煙できる恰好の場所だった。夏が終わり、葉っぱが散って何枚も重なり、まさに自然の絨毯といったところか。
 俺はポケットから煙草の箱を取り出すと、軽くなったその重さに少し寂しさを覚えながら、中から一本取り出した。
 咥えながら百円ライターで火を点け、大きく吸い込む。煙草の先端がちりちりと燃えていくのが面白かった。
「やっぱりここにいたか」
 聞き覚えのある低くかすれた声に驚き、俺は激しく咳き込んだ。慌てて煙草を壁に押し付けて火を消す。
「お前隠れる場所がいつもワンパターンなんだよ」
 してやったり、というその声にいらついた。
「隣いいか?」
「は?」
「俺も座るぞ」
 よっこいしょ、などとジジイらしく座りこむと、そいつはおもむろに煙草を取り出して火を付けた。
「なんだよ。いいのかよ、教師のくせに煙草吸っても」
 いつも偉そうに説教こいてんのに、結局煙草を吸うとか、説得力の欠片もないな。
「止めてたんだがな、まあ今は誰も見てないから」
「俺が居るだろ」
「ん? お前が言うわけない。未成年喫煙の現行犯だ」
 俺は盛大に舌打ちをかました。俺のできる抵抗といえばこの場ではその程度だ。
「ほら、お前も座れよ」
 言うとおりに座り、煙草をもう一本出す。
「あんたのせいで一本無駄にしたじゃねえかよ。残り少ないのに」
「はっ、隣に教師が居るのにいい度胸だ」
 そう言いながら、そいつはポケット灰皿を俺に出してきた。
「こんなとこで吸ってて、小火なんかになったら、俺は教師を止めることになる」
 そういって笑った。いつものうるさい雰囲気とは違っていて、なんだか居心地が悪い。何を企んでいるのだろうと勘繰ってしまう。
「……何?」
 俺の横顔をじっと見つめる先公を睨みつけてそう言った。
「いやぁ、何。俺の息子がこうなったらどうしようかと思ってな」
 子供が居る、というのがまず驚きだった。
「結婚してんのかよ」
「逆にこの歳で結婚してなかったらやばいだろうが」
 教師の私情なんて心底どうでもいい俺は、そのまま話を切り上げようとしたが、相手はそうするつもりは無かったらしい。
 懐から写真を取り出し、俺に見せつけてきた。
「見てみろ。これが俺の息子、んでそれを抱いてるのが奥さん」
 生まれたばかりの写真だった。少し古いので、現在はもう少し成長してるだろう。子供の顔は母親似だが、父親が今隣にいる男だということは分かった。
「今六歳でな、小学校一年生だ。親の贔屓目に見てもいい子だぞ」
 複雑な気持ちだった。今まで散々嫌ってきた教師が、今子供の写真を眺めて笑っている。その顔はもう父親の顔だ。何故こんな写真見せてきたか、俺には理解できなかった。
「親の気持ちからするとな、どこまでもいい子でいてほしいってのが本音だ。最初はただ、生まれてきてくれただけで良かった。幸せだった」
 俺はその話を、何故かちゃかしもせず、ただじっと聞いていた。
「それがだんだん成長してくると、我儘になってくる。親が、な。パパって呼んでほしい、頭が良くなってほしい、運動できるようになってほしい、って。ついつい自分が出来なかったことまで望んでしまう。俺なんて、ガキの頃は勉強なんて出来なかったし、悪さばっかしてたけど、子供にはそうは育ってほしくないんだわ」
「子供にとっては迷惑な話だな」
 ポロっと口に出した俺の言葉に、彼は何が面白いのか快活に笑った。
「そうだな。迷惑な話だ」
 けどな、と彼は続けた。
「大人ってのは子供に、子供が思ってる以上に期待するもんだ。そして子供が悪さすると、大人はそれはそれはショックを受ける。お前が今思ってる以上に」
 結局説教かよ、その言葉が音になって外に出ることはなかった。
「お前も大人になれば分かる。お前という存在が、親にとってどれだけかけがえのないものかが」
 それだけ言うと、彼は煙草を灰皿に押し付けて、よっこいしょ、とまた親父臭い掛け声で立ち上がった。
「火の始末だけはちゃんとしろよ」
 薄汚れたジャージーの後ろ姿を見送り、自分の人差し指と中指で挟んでいた煙草を見ると、もう半分以上が灰色に染まっていた。
「……まだ、全然吸ってないのに」
 とん、と一振りして灰を落とし、口に咥えて煙を吸い込むと、何故だか噎せ返りそうなほど不味かった。

・・・・・・・・・・

「やっぱりここにいたのか」
 案の定予想していた場所で煙草をふかしている。
 俺の声に驚いたのか、ナガシマは少し肩を震わせたが、またすぐに不機嫌そうに眉間に皺を寄せて俺を睨んだ。
「……隣いいか?」
「はぁ?」
 ナガシマの隣に座り、俺はポケットから煙草を取り出した。最近吸ってなかったので、銘柄が多くて買うのに悩んでしまった。良く分からないエンブレムのついた銀色のジッポーライターで火を点ける。
「なんだよ。いいのかよ、教師のくせに煙草吸っても」
 思わぬ言葉に、俺は吹き出してしまった。いや、当然の言葉でもあるのだが。
「止めてたんだけどな、まあ今は誰も見てないから」
 皮肉なものだ。恩師に言われた言葉を、俺がまた同じ立場で言うことになるとは。
「何お前笑ってんの? 気持ち悪」
「お前、じゃないだろ長嶋」
「中島先生」
 長嶋は一音一音区切って、わざとらしく発音した。
 屋上の風はまた一段と涼しくなり、背広越しにもひやりとするのが分かった。
「お前隠れる場所がいつも同じだからさ、すぐ見つかるわ。さっきと同じ場所なんだもん」
「知るかよ。関係ないだろ」
 長嶋の横顔は、十年前に先生に見せてもらった写真と同じように、母親に似ているが父親があの人だということがすぐ分かる。
 今年の四月。初めて受け持つクラスの中に、恩師の子供が居るということで、俺は少し緊張した。あの人に教師として恥ずかしくない振る舞いをしようと思った。しかし、その子は写真で見たときのような純真無垢な子供じゃなかった。まるで十年前の俺を見ているかのような不良少年だ。
 俺は彼に、先生からされたように向き合おうとした。でもいっこうに良くはならないし、それどころかますます素行が悪くなっていった。子供と接するというのは難しい、それを教師になって身にしみるほど分かった。大人でも子供でもない、とても繊細な時期。ほんの少しのことで機微に触れる。個性も人それぞれで、同じ人間など一人もいない。あの時の僕に、あそこまで積極的で居てくれた先生に、教師になった今はずっと深い尊敬を向けてしまう。
 今、俺の隣にいる生徒は、何も考えていないで迷惑をかけているように見えるが、それはほんの表層だ。その奥には、確かな思春期の悩みを抱えているはずだ。
「お前のお父さん、教師だったってこと知ってるか?」
「さあ、聞いたことあるようなないような。あんま家の事気にするような奴じゃなかったし、話もしなかった」
 家のこと気にするような奴じゃない、か。そんなわけがない。あんなに嬉しそうに家族の事を喋っていた人が。
「ってか、何で俺が小学校の時死んだ親父の事お前が知ってんの?」
 大学に進学してしばらく経った時、先生が亡くなったということを聞いた。なんとなく忙しくて、お葬式には行けなかった。その時は何かの病気だということを聞いただけだったが、最近になってようやく先生の奥さんに話を聞けた。まあそれも、長嶋の素行不良について話そうと思って読んだ時だったが。三者面談の予定が、長嶋がばっくれて二者面談になったので、彼が知らないのも無理はない。
「お前のお父さんな、実は俺の高校時代の担任だったんだ」
 明らかに表情が固まっていたが、本人は努めて気にしていないフリをしているようだ。
「ふーん……で何?」
「その時もな、俺が体育館裏で煙草を吸ってた時、こうやって並んで座って話したんだ」
 長嶋はじっと遠くを見つめるような眼して、しかし視線は下を向いていた。
「長嶋先生な、俺にお前が生まれたときの写真見せてさ、可愛いだろって嬉しそうに見せてきたんだ。面白い先生だったな」
「煙草吸ってる生徒を注意しないなんて、ただの職務怠慢だろ」
「俺に言ってんのか?」
 確かにその通りだ、と俺は笑ってしまった。
 冷たい秋風が、目の前の煙を吹き飛ばす。
「寒くなってきたな。家に帰らないのか? 部活入ってないだろ」
「別に」
「じゃあ友達と放課後どっか遊びに行ったりは」
「別に」
「俺が高校生のときなんかな、学校終わると真っ先にゲームセンターなんかに行ってて……」
「……ん」
「この学校の学園祭は凄いな、今でこそ賑やかだけど、俺の世代だと……」
 話しているうちに、長嶋は相槌を打つのも億劫になったのか、ただ黙って聞いているだけになった。
 長嶋が俺のように、更生するかは分からないし、難しいのは理解している。誰もが俺のように単純な頭をしているわけじゃない。しかし、それでも、俺はあの人のように、彼に話しかけ続けることにした。
 それが、何かの救いになるかもしれないから。

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