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内海海岸物語②歴史ある内海海水浴場を振り返る 尾州廻船内海船 伝説


尾州廻船内海船 
愛知県知多半島の内海。海水浴場で知られ、夏には多くの人々が訪れるこの地に、大きなお屋敷がある。
 尾州廻船内海船船主(びしゅうかいせんうつみぶねふなぬし)
内田(うちだ)家だ。
内海船を代表する有力船主であった内田家によって造られた明治初期の
建造物。
多くの廻船を所有していた「内田佐七家(さしちけ)」の家屋と、その船頭として活躍し、佐七家の娘婿となった人物を初代とする分家の「内田佐平二家(さへいじけ)」の家屋からなっている。
ここを訪ねると、内海が日本有数の古い歴史のある海水浴場になった歴史を
知ることができる。


内海船とは
江戸時代、物流の主役は船だった。尾張の国の人が所有する荷物運搬用の大型船を尾州廻船(びしゅうかいせん)といい、このうち内海やその周辺を拠点としたものを内海船(うつみぶね)と呼んだ。全盛期には100艘もの船を抱えた巨大集団で、瀬戸内海から江戸にかけて広く活躍した。また、商人や資本家からもまったく独立していたため、大きな利益を上げた。
 内田佐七家の主家や座敷は1869年(明治2年)の建築
 2017年(平成29年)旧内田家住宅 7月重要文化財に指定 
 2018年(平成30年)内田佐平二家 登録有形文化財に登録


廻船業から観光業へ
明治中期には廻船業から手を引き、4代目内田佐七は内海と武豊を結ぶ乗合自動車(知多バスの前身)を運行したり、名古屋の堀川銀行を移転させて内海銀行(後の東海銀行や三菱UFJ銀行のルーツのひとつ)を設立したりなど多数の地域事業に関与 観光業にも尽力した。
明治初期には潮湯治の場として内海海水浴場が開かれ、明治末期には海水浴客相手の観光旅館なども建設された。大正期には多くの別荘も建設された。
なんと内海海水浴場の歴史は明治初期に遡る!すごいではないか!
昭和初期には海岸からすぐの小高い山が日本初のサンドスキー場として
「内海サンドスキー場」が開かれ当時大盛況だったそうだ。

何!砂のスキー場 これも内海の砂が、細かく美しい白砂だからできたのだろう。内海サンドスキー小唄まであったそう。「内田家」には当時の木製のスキー板や、竹製のストックも展示されている。そして、スキーを楽しむ当時の様子を伝える写真が多数ある。さらに驚いたのが、スキー板を担いで電車に乗るスキー客や乗合自動車が内海を目指し走る様子、サンドスキーを楽しむ人々がフィルム映像で残っていること。この映像は、「内田家」で閲覧可能だ。なぜサンドスキーが廃れてしまったのか。それは、太平洋戦争末期
この美しい白砂が軍用目的で徴用されてしまったからだとか。なんということだろう。それにしても、4代目内田佐七さん、内海を一大観光地にするために事業を手掛け、さらにユニークなアイデアでそれを実現させてしまった。すごいことだ。しかし、この方の凄さは、これだけではない。
そのことは、また次回ご紹介したいと思う。




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