誰かに優しくする行為
人間はあらゆる場面で「道徳的に他者に優しくするべきである。」といった考え方をするが、そんな考え方をすると精神衛生上悪い影響を与える。
「優しくする。」これは自分自分自身に課す思考原理、行動原理ではない。
優しいという言葉は、
「優しくされた。」「優しい人。」と他者に対してかけるべく言葉である。
揚げ足取りのように聞こえるかもしれないが、善意的な自分自身の行動は褒められるため、評価を得るためにしてはいけない。
「人に優しくする。」という思考は見返りを求めている。
それ以外の善意は”当たり前”だということを、しっかりと自覚する。
その思考を持たなくてはいけない。
この思考を持たない場合、不測の事態が起きた時に、どんな行動をしていいか分からなくなる。
不測の事態というのは、例えば目の前で好きでもない自分の上司が困っている場合、快く助けるかどうか判断出来るかといった事態である。
感情論を交えてしまうと葛藤が強くなるが、「優しくする。」が見返りを求めた行動だという自覚があれば助けるかどうか、罪悪感なく簡単に判断をつけることが出来る。
助けたところで見返りがほぼないのであれば、良いように使われる人間にならないで済む。
近年の多くの人は、中途半端な「優しくする。」行動を取るために、良いように使われる人間が非常に多い。
そして、事実と悪口の境界線を見出すことが出来ず、つらつらと論理的ではない自己防衛中心の感情論だらけの答えが出ることのない愚痴を述べる人間になる。
「優しくする。」という概念を確立すれば、自身の社会的行動に一貫性が生まれる。
社会的評価、コミュニティの中での評価が明確になる。
また、自身の行動への責任に対しての線引きを付ける指標の一つを作ることが出来るようになる。