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ジャンゴ・ラインハルトのダブル・エラーと人間の音楽 Django Reinhardt - The Classic Early Recordings 1934-37

技術的に見て、人間の域を超えていると感じるギター・プレイヤーは、ジャンゴ・ラインハルト、ジョニー・スミス、ウェス・モンゴメリーの三人。

ウェスはときどき未発表のライヴ音源がリリースされることもあるが、それをのぞけば、当然、三人ともほとんどの録音を聴いた。それなのに未所持の盤に手を出す理由の第一は、古い音源、とりわけ第二次大戦前、大戦直後のものなどは、エディションによってマスタリングがぜんぜん異なることがあるからだ。

もうひとつの理由はさて措き、そういう音質面の動機から、もう聴いていないものなどないはずのジャンゴ・ラインハルトの5枚組、The Classic Early Recordings 1934-39を聴いた。


Django Reinhardt - The Classic Early Recordings 1934-39


◎難度の地平

昔、体操ではもっとも高い難度をCとランクしていた。最初の東京オリンピックのころ、技が複雑、高度化して、それではきかなくなり、「ウルトラC」というもうひとつ上の難度が追加され、日本体操陣が大活躍したために、これが流行語になった。

それが、いまではCだのウルトラCなんていうのは基本技術で、難度がどうのというレベルではない。「千早ぶる」「時そば」「禁酒番屋」クラスの前座噺扱いだ。

チャーリー・クリスチャンはC難度だったが、アメリカの外に目を向ければ、ジャンゴ・ラインハルトという怪物がいて、ウルトラCなんていうのは初歩よ、と云っていた。


チャーリー・クリスチャン
いまになって気づいた。フラット・ピッキングではなく、フィンガー・プラキングだったのか! いや、これ一葉ではたまたまかもしれず、なんとも云えない。もうちょっと写真を見てみないと。


いま聴いても、そんなプレイは逆立ちしても無理、という技を、ジャンゴ・ラインハルトは、弾きにくい太い弦で(昔のギター弦は太いため、張力をあげてチューニングしなければならず、当然、弦を押さえるのに強い力が必要で、その分だけ、運指もピッキングも難しかった。これを抜きにして、古今のプレイヤーを比較してはいけない)、しかも二本指のみという寡勢の運指で、精度高くやっていた。


ウェス・モンゴメリー
もちろん、ウェスはフィンガー・プラキング、それも動画で見たかぎりでは親指のみだ。フラット・ピックは使ったことがないと思われる。子供の時からずっと親指で弾いていたそうな。


ジャズ・ギターははじまったとたんに完成し、以後、技術的に衰えていって、最終的にパット・メセニーのペラペラ腑抜けギターで底を打った、なんて云ってしまいそうになるほど、ジャンゴはすごかった。

しかし、猿も木から落ちる、吉川尚輝だってイージーゴロをファンブルする、ジャンゴも「アイタ!」というミスをやらかしていた。

◎薔薇の部屋

このThe Classic Early Recordings 1934-39というセットの、ディスクE(CD5)トラック8、Rose Roomという曲の1:04あたり、c#-e-f#-g#-f#-eという6音の4分3連、アクセント拍のピッキングがアップ&ダウンの交互になる、ギターで弾くのは難しいフレーズの途中で、ジャンゴは一音飛ばしてしまったのだ。


Django Reinhardt - The Classic Early Recordings Disc E


間違った音を弾いたわけではなく、音がしないのだから、もともとそういう休符の入るフレーズを弾こうとしたのであって、ミスではない、と強弁できなくもないが、ギターを弾く人なら、誰でも、あ、やっちゃった、とわかる。高速パシージでピッキングが空振りになって、音をひとつ飛ばしてしまうのは、よくある現象なのだ。

この直前にも、不完全なピッキングがある。問題の3連のフレーズの最初の音も、強いアクセントが来るべき箇所なのに、音がひどく弱いのだ。通常、ピックの端より1、2ミリほど内側で強く弦を引っかけると思うのだが、この箇所はピックの端がかろうじて弦にかすっただけなのだろう。「スウィート・スポット」を大きく外れたのだ。

野球で云うとファウル・ティップ、バットの上端とボールの下端がかろうじてこすれただけ、というようなピッキングなので、ボールが前に飛ばないように、音がきちんと出ていない。3連符の最初の音だから、アクセント拍なのに、アクセントがついていないのだ。


Django Reinhardt - HMV Sessions 1936-1948
ジャンゴの左手は人差し指と中指のみで、他の指は使わなかった。いやはや、みんな、わざとのように難しいスタイルを選んでいるのは、どういうことなのやら。まあ、冷静に考えると、二本指のほうが、コントロールが単純で、四本指より速く動かせたのかもしれないが、それにしても……。


弾いたご当人は当然、このミスには気づいている。だから、(また野球だが)ゴロを捕球する時にグラヴの中でちょっとボールが踊って、あ、まずい、と動揺したために、捕球はしたのに、送球時にボールをきちんと握れず、その結果、スライダーを投げてしまい、一塁手が捕球できない、というエラーの連鎖と同じような形で、そこから数音先で、本格的なピッキング・ミス、ピックが弦にかすらない、空ピックをしてしまったのだろう。

エラーを犯すときの人間の心の動きというのは、スポーツも音楽も同じ。しまった、という心の動揺を抑え、乱れそうになる歩みを正常に維持しようとしたとたん、本格的に足を踏み外してしまうのだ。

いや、わたしはものすごく下手なので、ジャンゴのプレイをあげつらうのは千年早い。そうではなく、ジャンゴ・ラインハルトもやはり人間、ほんのわずかではあるが、動揺してしまうことはあるのだな、とホッとしたのだ。

◎粗放農業vs.集約農業

ジャンゴ・ラインハルトのRose Roomは、わが家のHDDには5種類あった。Djangologie CD3 1937、HMV Sessions 1936-1948 CD2、Django Reinhardt & Stephane Grappelli with Quintette of The Hot Club of France CD1、Intégrale Django Reinhardt Vol. 05 Mystery Pacific 1936-1937 CD2、そして、今回聴いたThe Classic Early Recordings CD5に収録されている。


Djangologie CD3 1937
20枚組のキャリア・ボックス。これを聴けば十分だと思う。Intégrale Django Reinhardtは曲が多すぎて、聴くのがしんどい。


この5種、マスタリングは異なるが、テイク違い、エディット違いなどはなく、すべて同じテイク、したがって、同じ箇所でミスをしている。

ということは、わたしは5回聴いて、やっとジャンゴのミスに気づいたことになる。面目ない、と頭を垂れるべきか……。

しかし、ふだんは、聴くでもなく、聴かぬでもなく、ただなんとなく流しているだけ、という粗放農業スタイル・リスニング、つまり「ざるで水を掬う」というヤツで、ろくに残らなくてもまあ仕方がない。それははじめから計算に入っていることだ。

それでも、おや? と耳を引っ張られて立ち止まることはある。そういうときだけ、意識を集中すればよい。9イニングを投げ通すには、そういう力の配分が必要だ。つねに意識を集中して、限られた盤を聴く1イニング全力投球ではなく、なんでもかんでも、薄く広く、この世にあるあらゆる音楽を少しだけつまみたいのだ。

そもそも、逆に考えれば、こんなチャランポランな聴き方でも、5回目にはジャンゴのミスを発見したのだ、better late than never、立派なものじゃないか。むしろ、粗放農業リスニングの正当性を証明している、と云いたい!


Django Reinhardt & Stephane Grappelli with Quintette of The Hot Club of France
ジャンゴのリード・ギターとリズム・ギター二人、ストリング・ベース、そしてステファン・グラペリのヴァイオリンというクウィンテット・オヴ・ザ・ホット・クラブ・オヴ・フランス。Rose Roomもこのメンバーによる録音と考えられる。


そしてこれが、どれもすでに聴いたトラックだろうと思っても、知らないエディションを聴く第二の理由だ。ざるで水を掬うのだって、数回やれば、それなりの量が得られる。

◎To err is human、ミスこそが人間

今は昔、受験勉強で研究社の「新自修英文典」というものの例文を、一年かけて一所懸命に訳した。授業でも出てきたが、その例文の中に「To err is human, to forgive devine」というものがあった。

これをどう訳すか。新自修英文典には「人は過ちを犯し、神はそれを赦す」とかなんとか書かれていた。この解釈に異議があるわけではない。そもそも、これはこういう文型がある(対句のようなものでは二つ目のbe動詞は省略されうる)という例文で、意味は附けたり。

記録された音楽、recorded musicと何十年も付き合ってきて思うのは、ミスをするからこそ人間であり、ミスが記録されているからこそ人間の音楽なのだ、ということである。To err is human、ミスをすることこそが人間の証明、と胸を張っていい。

誰でも知っていることだが、現代の録音では、あらゆるミスを修正できる。シンガーが高音部でフラットしたら、ちょいちょいと波形を動かしてやれば、正しいピッチに上げられる。


ジャンゴのRose Roomをエディターに読み込み、問題のミスの箇所を拡大した。ここまで拡大すると、波形描画モードにすれば、マウスで音を「描く」ことができる。


ドラマーがわずかに早くフィルインに入ってしまったら、正しいタイミングにズラしてやればいい。むろん、もっと単純に、その箇所だけリテイクして、パンチ・イン(テープ録音時代の昔話だが!)やコピー&ペーストすることもできる。

むろん、PCの発展、IT技術のおかげなのだが、これがいまやAIへと移行しつつあり、音楽の記録でも、映像の記録でも、テイクでのミスを心配する必要はなくなりつつある。

それでいい、という立場ももちろんあるだろうけれど、そんなことを肯定できない人もまたいるはずだ。


Intégrale Django Reinhardt Vol. 05 Mystery Pacific 1936-1937
全20巻で各巻2枚組なので、合計40枚。通しでは一度しか聴いていない。


◎まれびとの座

たとえば、楽器を弾きたいと思ったとき、われわれは何を考えているか? 「上手く弾けるようになりたい」と思うはずだ。俺はパンクだ、下手でいい、ワイルドにやりたいだけだ、と考えたとしても、その「下手」のレベルまでは「上手く」なる必要がある。何も弾けないのでは、下手に弾くことすらできないではないか。

上手くなろうと願ってスタートしても、到達できる地点は人それぞれの天分と努力に制約を受ける。誰もが上手くなることはできない。いっぽうで、ごく一握りの人間はとてつもないところに辿り着く。それがジャンゴ・ラインハルトであり、ジョニー・スミスであり、ウェス・モンゴメリーなのだ。

彼らのすごさにはいろいろな側面があり、それぞれに異なる意味ですぐれているのだが、共通点がひとつある。滅多にミスをしない、ということだ。高速かつ複雑なフレーズを、驚くべき技術で、ミスなしで走り通すことができる稀な人々なのだ。

すでにアラン・ケイが半世紀以上前に預言していたことだが、ディジタル・テクノロジーが音楽にとりこまれたことによって、演奏技術というものは、すくなくともスタジオ録音においては意味を失ってしまった。いや、そう断じるのはまだ早い、いまそう云うのは行き過ぎだとしても、「演奏技術の重要性は大幅に減じられてしまった」とまでは云って大丈夫だ。


「パーソナル・コンピューター」の生みの親、アラン・ケイ。1970年代半ばだろうか。
縦型ディスプレイは彼が設計した実験機Altoの端末。左端に見える白と黒の四角い物体は、「コード・キーボード」というもので、五~七つほどのキーのみで構成され、それを和音を弾くように組み合わせることでフルキーボードと同じことができるように考案されたもの。ケイはアルトの設計当初からミュージカル・キーボードをPCに組み込み、記譜アプリケーションやシークェンサー・プログラムの実験をしていた。「サイエンス」誌の略歴にはセミプロのギター・プレイヤーと書かれていた。実験機の名称「アルト」は、ゼロックス・パロ・アルト研究所で開発されたことに由来するが、ケイの意図としては、音楽用語の「アルト」の意味も込めていたのだろう。


だからこそ、昔の人たちの古い録音の価値が高まったのであり、ジャンゴ、ジョニー、ウェスの高度なプレイにスリルを感じるのだ。

むろん、未来の技術をもってすれば、古いシングル・トラックないしは、4トラック程度の録音から、各楽器の分離も可能になり、ギターの音だけを取り出して、ミスを修正できるようになるだろう。

しかし、そんなことはしなくていい。ミスをする恐れがある中で、完璧に弾きとおせることに価値があるのだ。ジャンゴも人間、たまには空ピックをやってしまう、という証拠は残さなければならない。

◎ルネサンス=人間復興

ほんとうは、本来の人間の力だけの音楽に戻ってほしい、と願っている。しかし、遠未来ならともかく、現在の文明が、核戦争などによる巨大な断絶なしに継続されているあいだは、それは起きないだろう。


ジョニー・スミス
この写真でははっきりしないが、スミスはフラット・ピックを使っていたと思う。音から考えても、あのプレイはフィンガー・プラキングでは無理だと思う。


テクノロジーの進展を逆転させられたものなど、何ひとつとしてない。それがビジネスである限り、ビジネスの論理に縛られる。音楽も、産業として成立させるのならば、品質とコストは管理される。したがって、局所的、散発的な試みならさておき、音楽産業全体をアナログ技術へと逆行させるのは不可能だ。

半村良『黄金伝説』のエンディング。ミュータントたちへの世代交代が起きることを認識した旧世代の人間が、リゾート・ホテルで、われわれはまもなく退場する、リラックスして残された時間を楽しもう、と思うあの姿……。

わたしも同じことを思っている。古い音楽、古い映画、古い書物がたっぷりある。俺はいま「バベルの図書館」にいるのだ。未来の芸術など知ったことではない。この無窮の図書館に横たわり、ときおりうたた寝しつつ、人類の遺産を楽しむだけだ――。

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