続・ボブ・ディランのBelle Isle:コードの不思議、歌詞の奇妙、出自の奇々怪々
(「ボブ・ディランのBelle Isle:コードの不思議、歌詞の奇妙、出自の奇々怪々」よりのつづき)
前回、Belle Isleのコードの検討をしたので、今回は歌詞のほうを検討する。その前に、Belle Isleに関するおっそろしくメンドーくさい研究論文を(途中まで、斜めに)読んで、同感し、自戒したことを。
以前、Dust My Broomだの、Stormy Mondayだのの各ヴァージョンを比較したことがあるが、ブルーズというのはしばしば伝承曲だから、歌詞はみな微妙に、あるいは大きく異なるし、枝分かれして別の曲になったりすることも多い。そのあたりは、口承芸能である落語と似ている(たとえば「お初徳兵衛浮名桟橋」が「船徳」に化けたことを想起されたし)。
だから、歌詞の検討をするときは、細かな字句の相違に拘泥しすぎない自制心が必要だ。現代の文学作品に相対するような厳密性、authenticityの意識は、伝承曲の検討には有害かもしれない。少なくとも、それを頭に置いておく必要はある。
◎面倒だから検証抜きの裸の結論
Belle Isleのソングライター・クレジットはボブ・ディランとなっているのだが、調べたらトラディショナルだった。こういう場合、クレジットはtrad. arranged byまたはadapted by 誰それ、という書き方をするのだが、Belle Isleはそうではなかったので、調べてみて、はじめてディランの作ではないことを知った。
ただ、昔から、ディランらしくない曲だとは感じていた。メロディーの流れもスムーズだし、クレヴァーなコード・チェンジがあるし、何よりも、歌詞がフォークロアのようで、輪郭のクッキリしたストーリー・ラインがあるし、きらびやかなイメージの奔流や、晦渋、難解なところはない。たんに、云いまわしが古く、現代の人間には難しく聞こえるだけだ。
そのほうが記憶できる、年を取ったので頭を使わないと馬鹿になる、そして、他人は信用できないという理由から、ビーチボーイズのSanta Ana Winds同様、今回も自分で歌詞の聞き取りをし、しかるのちに、手元の古い歌詞カードやウェブにある聞き取りを参照した。
当初は、この曲の出自をきちんと検討するつもりだったのだが、あまりにも錯綜していて、手掛かり、証拠の検証などしていたら、とうてい話が終わらないとわかってきたので、あっさりネタを割る。
まず、カナダのニューファウンドランド島の民謡が原曲だという説があった。ベル・アイルという、かつて捕鯨船の臨時補給基地などがあったほぼ無人の島がある、というのもひとつの根拠となっていたらしい。しかし、いくつかの説を勘案してみたが、これは当てにならない、せいぜいよくいって、「伝承の中継ポイント」、ただの通過点と結論した。
では、どこから来たかと云うと、アイルランド。言葉遣いから見て、18、9世紀にさかのぼるのではないか、という説が当を得ているように思われる。
ただし、特定の曲ではなく、複数の曲が離合集散しつつ伝わった可能性がある。それが20世紀になってカナダに伝わり、その後の数十年のあいだに、ディランが唄ったような形にまとめられたらしい。
◎古語の頻出
Belle Isleは七ヴァース、ものによっては九ヴァースもある長いフォーク・バラッドで、それを全部書きだし、別ヴァージョンも書きだし、などとやっていると、エラいことになるので、大昔のSelf Portrait国内盤に附された歌詞をJPGにして、見た目の長さを縮める、という姑息なことをする。
まあ、頑張ってはいるのだが、数か所、間違いがあるので、赤字で訂正しておいた。とくに、I've knownは駄目。歌詞サイトの多くもここをI've knownとして、無理やり意味を通そうとしているが、落ち着いて考えれば、それではうまくいかないことに気づくはずだ。
そもそも、どう聴いてもディランはそんな発音をしていない。はっきりオウンと云っている。ならば、ownだと思って解釈すればいいではないか。辞書を見ればいいだけのことだ。
own
vi. 自白する、認める 〈to a fault, to be guilty, to being wrong〉
ownは昔、動詞としてconfess、confideに近い意味で使われたことがわかった。これで"I own you are the maid I've loved dearly"と聞き取って、この行に矛盾、破綻のないことが確定した。
◎ストーリーライン
第三ヴァース以降は、ディラン・ヴァージョンではほぼすべて若者と乙女の対話だが、第一および第二ヴァースは「地の文」で、一人称で語られている。以下、そのふたつのヴァース、起承転結の「起」の部分を要約する。
「ある宵、わたしは気晴しに、風光明媚で興趣あることで知られるエリン湖のほとりに出かけた。わたしは立ち働いている美しい乙女を見初めた。まるで美の女神のようだった、花のように光輝くベル・アイルの星」
どうでもいいような記述だが、あとで、この一人称のふたつのヴァースは奇妙だと感じるようになった。その考察は後回しにして、以下、第三ヴァース以降を一気に。
「『美しいお嬢さん、あなたはどこのお人でしょうか。あの美しい天使の座から天下ったのですか』『お若い方、わたしの秘密を明かしましょう。わたしはただの貧しい娘なのです。誓約をやぶるなど、わたしにはとうてい耐えられることではありません。それで、こうして働き、辛苦と艱難に耐えながら、このベル・アイルの畔でただ独り、わたしのもとを去った人を待ち続けているのです』『お嬢さん、あなたをからかうつもりなど毛頭ないんですよ、じつは、わたしは変装してここにやってきたのです。昔の約束を果たすためにね。あなたを驚かすためにやってきたのですよ。わたしには、あなた以外に尊い乙女などいないのです、花のように光輝くベル・アイルの星よ』」
◎覚醒か憑依か
歌だから、いろいろなことが省略されているのだと思う。それで、矛盾に見えるものが生まれているのだろう。
たとえば、まだ求愛もされていないのに、わたしには約束した人があります、あの方を裏切ることはできません、などというのはおかしい。たぶん、その点を語った行があったのに、伝承されるうちにが略されてしまったのだろう。
しかし、そういうことを差し引いても、やはりこれは変だ。
In Search of the Blooming Bright Star of Belle Isle(リンク先を開こうとすると、いきなりPDFのダウンロードがはじまるので、それを承知のうえでどうぞ)や、ほかのソースによると、船乗りなどの、恋人や婚約者を置いて長い旅に出た男が、それとわからぬように姿を変えて戻り、愛する女が心変わりしていないかたしかめる、という民謡はめずらしくないのだそうだ。
よろしい、Belle Isleもそのタイプの歌だということにしよう。たしかに、'tis true I came here in disguiseと男も認めているのだから、その点はいい。しかし、であるならば、語り手の一人称による冒頭のふたつのヴァースは何なのだ?
「One evening for pleasure I rambled to view the fair fields all alone」=「ある宵、わたしは気晴しにひとりで散歩に出かけた」だと? 何をすっ呆けてんだよ、お前、わざわざ変装して出かけたんだろう、気晴しだなんて、嘘をつきやがって、と糾弾したくなる。
これが探偵小説だったら、ルール違反確定。冒頭で登場人物が、わたしは絶対に犯人ではありませんと宣言しておいて、最後に、じつはわたしが犯人でした、というようなものだ。麻雀ならチョンボで上がれない。
しかし、何を書くのも作者の勝手、どう解釈するのも読者の勝手、最初にこの歌のディテールを意識しながら歌詞を聴き、「じつはわたしは変装しているのだよ」というところで、全体の構造が見えた時に思ったのは、ぜんぜんべつのことだった。
◎久生十蘭の疑似フォークロア
久生十蘭に「生霊」という短篇がある。すでに青空文庫に収録されている。ごく短い話なので、お読みになるといいと思う。以下、その話の結末まで書くのでそのつもりでどうぞ。
画家・松久三十郎は飛騨を旅して、旧盆の前の日に木曽は荻町(白川郷)に辿り着き、商人宿に旅装を解いた。宿の老爺は三十郎の顔を見るなり、「貴方《おこと》、弥之《やの》さんではござんしないか」とびっくり仰天してしまう。
あとでわかるのだが、あまりにもよく似ているので、この老爺は松久を戦争で死んだ近所の関原弥之助という人間と取り違えたのだった。
夕餉のあと、所在なさのあまり出かけた盆踊りで、松久はある女と出会い、あなたは先ごろ中国で戦死したわたしの兄に瓜二つだと云われる。
孫に死なれた彼女の祖父母には、もう彼女しか残されておらず、二人があまりにも寂しがるので、彼女は東京から故郷に戻ったのだという。そして彼女はこの土地の風習のことを話す。
このあたりでは、新盆に新仏が家に戻るので、御斎をあげて帰す風習があるのだが、彼女の兄はまだ戻らず、祖父母はそれをおおいに悲しんでいる。今夜、あなたが兄の身代わりになって、迎え火をまたいで家に戻ってくれれば、祖父母がどれほど喜ぶことか、ぜひ、その役をしてください、と松久は頼まれてしまう。
「高山の奥の、こんな月魄《つきしろ》の光の中では、平凡なことも詩のように美しく心を搏つのかもしれない。
そんな縹眇たる話を聞いていると、自分の心が太古の巫術の世界へ引込まれていくようで、とりとめがないほどぼんやりと頭が霞んで来た」
かくして、画家・松久三十郎は、関原弥之助の生霊となって、その夜、苧殻の烟をまたぐようにして関原家の土間に至ると、祖父母は卒倒しかねんばかりに驚き、とうとう弥之助が帰ってきてくれたと涙を流して喜ぶ。三十郎は、二人の老人とその孫娘に見られながら、一家の心づくしの鶉と柿の葉鮨を馳走になる。
「そのうちに三十郎は、自分は松久三十郎なぞではなくて、冥土の便宜で、あの世から三人の肉親を慕ってはるばるこの世へ戻って来た関原弥之助自身なのかも知れないというような不思議な気持になって来た。
心づくしの柿の葉鮨を、眼を伏せながら口へ運んでいると、去年の秋、見て来た滕県城の煤色《ビチューム》の重々しい城壁のすがたがありありと瞼の裏に浮んで来た。
二十四日の朝、一里余にわたるあのトーチカの間を、孔を穿って敵の弾丸を避けながら遮二無二強行前進し、水濠の前で散開して決死の突撃に移る十分ほど前、水濠の岸に生えている枯れた野菊を写生したという関原準尉の行動が、自分がそこでそうしたように、しっかりした記憶の中から思い出されて来るのだった」
松久三十郎の自我は消え、入れ替わるようにして、関原弥之助の自我が出現したのだ。いかにも久生十蘭らしい、冥界と人界との交流を描く、これは好短篇である。
ある意味で、やはり新盆を題材にした「黄泉から」よりも明快で、骨組だけならば、こちらのほうが面白いようにも思う。
◎人格の消滅/出現
Belle Isleの歌詞は、この久生十蘭「生霊」を思いおこさせる。
繰り返しになるが、参照した資料には、長く旅をしていた男が変装して愛する女が心変わりしていないことをたしかめる、というのは民謡のひとつの型なのだ、と書かれていたが、それではあまりにも凡庸、あまりにも俗、面白くもなんともない。
そんな馬鹿馬鹿しい、下品な型のことなど知らなかったわたしは、この曲をまったく異なったものに解釈していた。
男が、わたしは変装して来たのだ、と云ったところで、お前、さっき、徒然に散歩に出たって云ったじゃないか、変装したのなら、彼女に会うつもりで出かけたんだろうに、と憤慨した瞬間、アッ、そうか、と膝を打った。
彼は宿を出た時は、ほんとうにぶらっと散歩するつもりだったのであり、正直にそう云っただけなのだ。そのあとで、彼の精神は崩壊したか、あるいは、「転換」したか、あるいは何者かに憑依されたのだ。
旅先で何か事件があって、男は記憶を失い、(まるで『モンテ・クリスト伯』=エドモン・ダンテスのように)すっかり面変わりし、無意識に導かれてこの島に帰って来たのだ。
それが散歩の途上、素晴らしい美女に会って、激しく心を揺さぶられ、卒然とアイデンティティーを取り戻し、自分のことを認識してくれない彼女に受け入れてもらうために、とりあえず、変装していることにしてしまったのだ……こりゃすげえ話だな、と(勝手に思い込んで)驚いた。
いや、B案もある。彼は彼女とはまったく無縁、旅先で宿の周囲を眺めに散歩に出ただけなのだ、それがはからずも絶世の美女に出会って、魂をこの世の外に飛ばされ、誰か別人のアイデンティティーを獲得し、自分はかつての誓約を果たすために、この島に帰ってきた彼女の恋人だ、と思い込んでしまったのだ――。
さらにこのB案のヴァリアントとして、じつは彼女は真の男を欲して、魔力でこの男をベル・アイルに惹き寄せ、目が合った瞬間に男の魂を奪い、意のままに操ってしまったのだ――なんていうのも思いついた。(トム・リーミーの秀作「サンディエゴ・ライトフット・スー」の盗作の気なきにしもあらず!)
繰り返すが、つくるほうは勝手に何でもつくる権利を有しているし、受け取るほうも勝手にどうとでも解釈する権利を有している。
わたしには、そういうファンタスティックな、神話的、あるいは謡曲的(男は彼女を見た時に橋掛かりを渡って異界に入った)、神韻縹緲たる物語として響いたのだ。これ、そのまま能として上演できるではないか。
◎どうでもいいC案:与話情浮名美島
冒頭のwhere beauty and pleasure were known、美と愉しみで知られた、というフレーズを頭の中で転がしているうちに、世にもくだらない置き換えが浮かんできた。
これは「美しい景色は喜びを与える」というふつうの意味なのだろうが、わが内なる下品な人間は、「美と快楽で有名な場所」と云えば、遊郭に決まってるじゃん、と笑った。
そこで、この18世紀ごろの言葉遣いで描かれたBelle Isleという物語は、18世紀末、天明年間の江戸へと飛んだ。
ある宵、男は美と快楽を求めて吉原に向かい、花魁道中に遭遇し、そこで素晴らしい美女を目撃してしまった――。といえば、あなた、これはもうあれ、『紺屋高尾』または『幾代餅』そのまま。
いや、そっちに行ってはいけないので、本線に戻ってつづける。でも、これ、廓噺の構造なのは間違いないのだが――いやいや、それはさておき、花魁道中で見たその美女(仮に高尾太夫としておく)に、「あなたはどこの見世のおかかえ花魁でしょうか」("Young maiden, where do you belong?)と尋ねたら、
「ぬしさんへ、わちきは貧しい家から売られてまいりましたどすえ、所詮、買われた身、あるじに逆らうわけにはまいりません、だからこの苦界に身を沈めたまま、じっと年季が明けるまで独り耐えているんでありんす」(Young man, I will tell you a secret, 'tis true I'm a maid that is poor, and to part from my vows and my promises is more than my heart can endure, therefore I stay at my service and go through my hardship and toil)
まだつづけられるが、馬鹿馬鹿しいから、ここで打ち止め。つまり、フォークロアなのだということじゃないだろうか(無理矢理まとめた)。
異なる文化にもっていっても成立する普遍性があり、そういうものはアイルランドの民謡にもなるし、謡曲にもなるし(この話、三島由紀夫『近代能楽集』に入っていなかったっけ?)、廓噺にもなりうる構造を持っているのだろう。
◎余談1 細部の精度
冒頭に書いたように、字句の細かな異同に拘泥してはいけない、とは思うのだが、一か所だけ、どうしても引っかかるところがある。第五ヴァース三行目はディラン・ヴァージョンでは以下のごとし。
And wait for the lad that has left me
しかし、原曲というか、別のエディションでは、この行は、
And wait for the lad that do love me
となっている。いくら細部に拘泥するなといっても、これはさすがに考えこんだ。「わたしのもとを去った人(が帰ってくるの)を待つ」と、「わたしを本当に愛してくれる人を待つ」では、話が根本から変わってしまう。
「去った人」は特定の人間、この世にただひとりしかいない。しかし、「真に愛してくれる人」は不特定多数、早い話が誰でもいいのだ。どっちなんだよ?
いや、ここをhas left meと変更した人間、それはディランか、誰か別の人間かわからないが、とにかく、彼はクレヴァーな判断をした。
伝承するあいだに多くの人間が書き換え、その中にはひどい愚か者もいて、ストーリーラインを乱し、筋道を混乱させてしまったに違いなく、has left meとすることによって、意味が通るように正したのだ。
◎余談2 エヴァリー・ブラザーズ
もうひとつ、ささやかなこと。Belle Isleが収録されたディランのダブル・アルバム、Self PortraitにTake a Message to Maryという曲がある。元はエヴァリー・ブラザーズのヒットで、作者はかのブードロー&フェリース・ブライアント。
ギターなしでBelle Isleを唄っていると、たとえば、I spied a fair maiden at her labourのラインで、You can say she better not wait for meなどと、いつのまにかTake a Message to Maryのほうを唄っていたりするのだ。
それくらい、部分的には似ているところのある二曲で、ひょっとしたら、それでディランは双方をカヴァーしたのではないか――Take a Message to Maryを唄っていて、似たような曲があったなあ、あっ、Belle Isleだ、と思いだして、この録音が生まれた可能性もあるなあ、なんて思ったのだった。
Self Portrait、およびその落穂拾いのようなDYLANというアルバムには大きな意味があった。ディラン信者は「おのれが信ずる神の像とは異なっている」というくだらない理由で、このふたつの興味深い音楽的打ち明け話に耳をふさいでしまったのだ、ということを、いずれ改めて書きたいと思う。