Oregon Guitar Quartet - Covers:ビート・ミュージックのクラシックへの逆流
『エスタニスラオ・マルコ:知られざる純粋ギター・コンポーザー』でふれた、近年のクラシカル・ギターのポップないしはビート・ミュージックへの接近のサンプルをまたひとつ聴いた。オレゴン・ギター・カルテットなるグループによる、その名もCoversというアルバムである。
「カヴァー」という言葉自体がポップ・ミュージックのものであり、クラシカル・ミュージックの世界では使わない。それは、云うまでもなく、「オリジナル・ヴァージョン」というものが存在し、それに対して、追随する(ほぼコピーする、解釈し直す、大きく改変するなど、さまざまなタイプがある)ヴァージョンを録音することを「カヴァーする」というからだ。
original recordingという概念がなく、かわりに「初演」という概念が存在し、他人がすでにプレイした曲を再演するのはごく当たり前のことで、取り立てて意味を持たないクラシカル・ミュージックの世界では、「カヴァー・ヴァージョン」という概念は成立しない。
オレゴン・ギター・カルテットが、あえて、カヴァーという言葉をタイトルにしたのは、従来の概念のクラシカル・ミュージックとは異なる音楽だということを明快にしようという意図があってのことだろう。
◎九つのスタンダード
まず、トラック・リスティングをあげる。末尾に作曲者名を付した。
My Funny Valentine - Richard Rodgers
On a Good Day - Joanna Newsom
Fly Me to the Moon - Bart Howard
Tequila - Daniel Flores (A.K.A. Chuck Rio)
Sleepwalk - Johnny Farina & Santo Farina (Santo & Johnny)
All the Things You Are - Jerome Kern
Summer Saltarello - Bryan Johanson (となっているが、原曲は間違いなくエディー・コクラン&ジェリー・ケイプハート作のSummertime Blues)
St. Thomas - Sonny Rollins
Autumn Leaves - Joseph Kosma
Watermelon Man - Herbie Hancock & Jon Hendricks
Jesus Gonna Be Here - Tom Waits
以上、11曲のうち、9曲は8ビートまたは4ビート界の古くから広くプレイされてきたスタンダード曲で、わが家にも二桁、場合によっては三桁のカヴァー・ヴァージョンがある。
ジョアナ・ニューサムとトム・ウェイツの曲はスタンダードではなく、わが家にオリジナル・ヴァージョンもないので、検討対象から除外する。
◎クラシカライゼイション/バッハ化
うちのHDDに何十ヴァージョンもあるほどの有名曲だから、プレイヤーの表示を見るまでもなく、どれもはじまったとたん、それとわかるはずなのだが、じっさいには、ええ? これ何? と考えるトラックもいくつかある。
とくにわからなかったのはTequila、小学校の時からよく知っている(最初に聴いた/買ったヴァージョンはヴェンチャーズ盤)、ストップ・タイムで「テキーラ!」と(記憶の中ではスマイリー小原が)叫ぶあの曲なのに、一巡目では気づかずに終わり、Tequilaなんてあったっけ、というんで、こんどはプレイヤーの表示を確認して再生しなおした。
うーん、それでもなお、Tequilaだと書いてあるのだから、たぶんTequilaなんだろうけどなあ、てなもので、よくわからなかった。Tequilaのコード進行とメロディーをもとにした変奏曲、とでもいうしかなく、いわれなければ、あのTequilaだとは誰も思わないだろう。
たとえばC-F-G7(I-IV-Vまたはトニック→サブドミナント→ドミナント)のようなシンプルなコード進行でのジャムで、シンプルな音の並び=リフを繰り返し弾きながら、あっちの音を省き、こっちに音を加え、なんてやっていると、いつしか変なヴァリエイションが出来上がっているものだけれど、オレゴン・ギター・カルテットは、それをやってTequilaを変形してしまったのだと思う。
バッハ(むろんJ・Sのほう)を聴いていると、よく、そのパターンじゃないかと思うことがある。繰り返しの過程で生まれる変形の中で、これはいいな、という音の並びを掴まえ、それを抽出して、同工異曲を大量生産しているように感じるのだ。
古典ギターの人たちの多くは、バッハの鍵盤曲のギター・トランスクリプションを録音している。オレゴン・ギター・カルテットのTequilaは、そういうエチュードとして弾いたバッハの(ほとんど「ファンク」とすら云えるほど)単調な曲の記憶を応用することによって、チャック・リオ(というかチャンプス)の大ヒット曲をクラシカライズしたように感じた。
◎シンコペーションのないビート・ミュージック
しいていうと、Tequilaを筆頭に、Summer Saltarello (Summertime Blues)、St. Thomas、Watermelon Manは、シンプルなコード進行による、リフ・オリエンティッドなビート系の曲と分類できる。後二者はジャズ系から出てきているのだが、オーセンティックな4ビート曲ではなく、ラテンに分類したほうがいいグルーヴである。また、Tequilaも、タイトルが示すように、ラテンに分類可能だ。
この4曲については、クラシカライゼイションというか、彼らの云い方に倣えば「トランスクリプション」の手法は共通していて、非ビート・ミュージック的な低音弦のリフをつくってベースの代用としている。
このリフが、ロックンロール的なミュート奏法を援用しているのだが、そのいっぽうで、シンコペーションは使わない、ないしは(同じことのパラフレーズだが)裏拍を強調しないので、ビート・ミュージックの雰囲気はなく、何か別種の音楽に感じられる。クラシック的、と云いそうになるのだが、クラシカル・ギターではミュート奏法はあまり使わないので、「別種」としか云いようがなく、困惑する。
◎浮遊感のない、しらふの夢中歩行
残る5曲、My Funny Valentine、Fly Me to the Moon、Sleepwalk、All the Things You Are、Autumn Leavesはメロディック・タイプ、あるいはバラッドに分類してオーケイだろう。
メロディー・ラインが支柱の曲だから、Tequilaのように、曲を認識できない、などということはなく、おおむね、聴けばすぐにメロディーをアイデンティファイできるアレンジ/トランスクリプションである。
こういう楽曲というのは、ビート系の曲とは異なり、どんな分野のアーティストでもカヴァーできる普遍性、融通性がある(ウェス・モンゴメリーが弾いても、チェット・アトキンズが弾いても、なんならジミー・ヘンドリクスが弾いてもかまわない!)ので、とくに云うべきことはない。
武満徹によるビートルズのMichelleのギター・トランスクリプションが、いまではごくふつうに古典ギター曲として録音されているのと変わらない、「ふつう」のことと云える。
Sleepwalkは、もともとスティール・ギター奏者がつくった曲なので、音を伸ばし、スライドさせることに特徴があるため、このオレゴン・ギター・カルテットのみならず、ふつうのギターによるカヴァーはみな工夫を強いられている。
音を伸ばし、スリープウォーク=夢中歩行の浮遊感を出すために、ギター・プレイヤーのカヴァーの場合、たいていはアンプのリヴァーブやトレモロを深くしている。リヴァーブ浅めの、フェンダー・ギターのほとんど素の音でやったヴェンチャーズやライヴリー・ワンズなどのカヴァーは、ちょっときびしい。
エレクトリックでやってもそうなのだから、オレゴン・ギター・カルテットのように、音のぜんぜん伸びないスパニシュ・ギターでこの曲の冒頭のラインを弾くと、「きびしい」を通り越して、Sleepwalkとしてのアイデンティティーすら危うく感じる。
◎「メイジャー・キーにおけるサブドミナント・マイナー」という例外
彼らがSleepwalkをカヴァーした動機は、たぶん、浮遊感あるメロディーのほうではなく、同様の例が見当たらないほど例外的な、この曲のコード進行にあるのではないだろうか。
われわれが子供のころ、「花はどこへ行った進行」と呼んでいた、Cキーでいうと、C-Am-F-G7という無数の曲に使われた単純なコード・チェンジがある。ポップ、カントリー、フォークを聴いていると、しばしばこのパターンに遭遇するのだ。
さて、Sleepwalkだ。この曲のヴァースは「ほぼ」その4コード・パターンなのだが、一か所だけ、異なる。C-Am-F-G7のうち、Fだけ、メイジャーではなく、マイナーにしているのだ。C-Am-Fm-G7なのである。
たったこれだけの変更なのだが、効果は絶大だ。昔、なぜSleepwalkって曲は一度聴いたら忘れられない強い印象を残すのだろう、この奇妙な感覚の拠って来たる源はなんなのだ、と不思議に思い、ギターでコピーしてみたら、Fmだったので、びっくり仰天した。
このメイジャー・キーでの4コード・パターン(循環コード)の、本来、メイジャーであるべきF(キーから離れて普遍化するなら「4度」「IV」「サブドミナント」)をマイナーにするのは、少なくともポップの世界では非常にめずらしい(循環コード自体がポップ的なのだから、この云い方は非論理的だが!)。
サブドミナント=4度をマイナーにすること、すなわち「サブドミナント・マイナー」自体はマイナー・キーの曲でならめずらしくない。しかし、メイジャー・キーの、このC-Am-F-G7パターンのサブドミナントをマイナーにした曲というのは、寡聞にして、ほかに知らない。
ギターを弾く人間は、単音楽器の奏者とは異なり、コード・パターンで曲を覚え、分類する傾向がある。オレゴン・ギター・カルテットのメンバーも、当然、Sleepwalkのコード進行の「異変」には耳を引っ張られたに違いない。
◎20世紀ギター発展史とスパニシュ・ギター
楽器の多くは時とともに変化し、形とサウンド、そして奏法を変えていったが、この百年を振り返って、ギターほど劇的に変化したものはほかにないだろう。
1930年代半ば、チャーリー・クリスチャンの試みからはじまったギターの電気化(あるいは、ハワイアン・スティール・ギターのほうが電気化は早かった可能性もあるが)は、第二次大戦直後からレス・ポールが引き継いで、大きく発展させた。
ピックアップを取り付けたクリスチャンのギターは、たぶん、音そのものを大きくし、他の楽器の中に埋もれないようにして、リード楽器として使えるようにすることが目的だった。なによりも音量が問題だったのだ。
それに対してレス・ポールは、ギター本体の改良(エピフォンを改造した「ザ・ログ」にはじまり、ギブソン・レス・ポール・ギターの開発へと発展する)とイフェクターの開発(この場合はディレイ。最初はシェラック・ディスク、のちにテープ)で、撥弦楽器ゆえにアタックが強く、その分だけすぐに減衰して、音が伸びないという欠点の克服を試みた。
これはレス・ポール自身が明快に語っている。ボディー自体を改善してサステインを長くし、同時に、それをアンプ+ディレイに通して、電気的に伸長しようとしたのだ。レオ・フェンダーによるソリッド・ボディー・ギターやリヴァーブ(およびそれを搭載したギター・アンプ)の開発は、レス・ポールの試みの延長線上にある。
かくしてギターは、電気化によって、それまでのアコースティック楽器では考えられない、音に千変万化の多彩な表情を持たせられる、万能と云ってもよい機能を持つにいたった。
そして、1)安価に製造できる、2)伴奏に使うだけならば比較的短時間で弾けるようになる、3)持ち運びが容易、4)電気的増幅のおかげで少人数でバンドが組める(コスト効率がよい)、といった特徴と相まって、50年代以降のポップ・ミュージックの爆発的発展で中心的な役割を果たすことになった――。
こう考えると、音の伸びが悪いスパニシュ・ギターで、電気的増幅および音像の加工の時代につくられたビート・ミュージックをカヴァーするというのは、20世紀ギター発展史を逆行することのように思えてくる。
いや、クラシカル・ギターの側から見れば、ビートルズ楽曲をはじめとする、20世紀以降のポピュラー・ミュージックから素材を得ることは、「新しい」分野の開拓、旧弊の打破を目指した挑戦と云えるので、ちょっとややこしい状況ではある。
考えてみると、流行歌を素材として認める、というのは、60年代に、4ビートのアーティストたちが生き残りをかけてやったのと同じことで、時の流れに掉ささず、自然の流れに乗るだけのことかもしれない。
オレゴン・ギター・カルテットのCoversは、とくにビート系の曲に関しては、成功した試みとは云いがたいが、挑戦し、試みないかぎりはなにも起こらない。試みることそれ自体に価値がある。
古典ギター界は、大げさに云えば、「生存をかけて」そうした「出口」を模索しなければならない、歴史的段階にあるのだと想像する。だから、これからも、この種の「現代音楽」へのアプローチを頻繁に見ることになるだろう。
ビート・ミュージックはシンコペーションを前提に誕生し、発展して来たものなので、シンコペーションを使わない古典音楽スタイルへのトランスクリプションは、困難というか……むしろ、「はじめから意味をなしていない、どこにも辿り着かない試み」なのかもしれない。
やはり、メロディックなバラッドをカヴァーするにとどめるのが賢明なのか……いや、これでは堂々巡り、考えても無駄、じっさいにやってみないかぎり解答がわからない問題だというしかない。
◎蛇足:聴き比べ
オリジナル・ヴァージョンや古いカヴァー・ヴァージョンを大量に持っている曲がほとんどなので、当然の成り行きで、オレゴン・ギター・カルテット盤と、そうしたビート系のヴァージョンの(やらないほうがいい)聴き比べをやってしまった。
なんせ大部分は有名曲、ギターだけにかぎっても、たとえば、All the Things You Areのように、「わが三大ギター・プレイヤー」である、ジョニー・スミス、ジャンゴ・ラインハルト、ウェス・モンゴメリーという三巨匠が揃い踏みしている曲もあって、異分野の若手の挑戦など蟷螂の斧というもおろか、技術的にも、サウンド的にも、まったく勝負にならない。まあ、はじまったばかりの挑戦、豊かな実りがあるとしても、まだ先のことになるのだろう。
ただ、ソニー・ロリンズのSt. Thomasは、大有名曲、押しも押されもせぬスタンダードというわけではないので、改めてわが家にある全ヴァージョンを聴いたのは楽しかった。
Watermelon Manと勝負できるほどポップな魅力のある曲なのに、8ビートやラウンジ系のアーティストのヴァージョンがゼロなのは遺憾で、いずれ、そういうカヴァーも増えていくのではないかと予感した。