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他人の戦争:Black Hawk Downとグレイトフル・デッドのイコノロジー

恋は二度目からが本物、本は再読してはじめて意味がわかり、映画も二度目からが本当の映画経験だ。Black Hawk Downを再見していて、初見の時は見逃していた、ささやかなディテールに気づいた。

◎AoxomoxoA

リドリー・スコットのBlack Hawk Downは、ソマリア内戦に材をとっている。いや、「ソマリア内戦」と云ってしまうと、応仁の乱から関ケ原の合戦までをひとからげに「戦国時代」と云うようなもので、むやみに長期にわたるが、この映画は国連平和維持軍の1993年の「30分で完了する」はずだった作戦行動を描いている。

政府軍と叛乱軍、あるいは東軍と西軍のような簡単な表現があるといいのだが、ソマリアについてはシンプルな二分法はあてはめにくい。しかしまあ、そうも云ってられないので、便宜的に、軍閥モハメド・アラー・アイディードの率いる民兵たちを「叛乱軍」、アメリカ軍を中心とした国連PKF部隊を「米軍」と呼んでおく。

アイディードの叛乱軍が首都の一部を制圧、閉鎖したために、多くの市民が餓死し、国連が物資の供給を開始するが、叛乱軍がその物資を奪ったので、人道的見地から、物資供給のために米軍を中心としたPKF部隊が派遣され、半年ほどたった1993年の秋――。


「赤十字食糧配給センター」



首都モガディシュのどこかで叛乱軍の会合が開かれることを察知し、米軍はヘリコプター(以下、米軍に倣って「チョッパー」と略す)部隊の支援を受けた地上部隊によって、叛乱軍支配地域にあるその会合場所を襲い、首脳たちの身柄を確保しようと試みる。

しかし、会合場所はおおよその見当しかついておらず、なんとかピンポイントで建物を突き止めようと、現地工作員らしき男が車で該当の一廓をゆっくり移動する、というショットがある。


初見の時は気づかずに通過してしまったのだが、今回は、ふと、よく知っているものが見えたような気がして再生を止め、リワインドして確認した。

問題は彼が着ているTシャツである。チラッと見えた色味がよく知っているもののような気がしたのだ。確認したら、やっぱりそうだった。


現地エイジェントは周囲を観察するために、故障のふりをして車を停め、前に回る。この時、一瞬、Tシャツのデザインが見えるだけなので、初見の時に見落としたのも無理はない! だから映画は何度も見なければいけないのだ。


このTシャツは、AoxomoxoAというグレイトフル・デッドの1969年のLPフロント・カヴァーをあしらっている。


Grateful Dead - AoxomoxoA, 1969


AoxomoxoAはデッドの造語で、辞書には載っていない。ただのナンセンス・ワードにすぎず、取り立てて含意はないと思われる。デッドヘッズは読んで字のごとし、「アオクソモクソア」と発音している。回文のようにどちらから読んでも同じなので、最後のAは大文字にするのが正しい。あるいはすべて大文字にする。

◎さていっぽう叛乱軍は

デッドTシャツが出てきた意味はよくわからないまま、以後のショットは服に注意して見た。すると、やっぱりロックンロールTシャツが出てきた。



ビージーズの1979年のアルバム、Spirits Having Flownのフロント・カヴァーをあしらっている。


Bee Gees - Spirits Having Flown, 1979


これはPKF部隊のチョッパーがいっせいに飛び立って作戦区域に向かうのを、叛乱軍に手なずけられたかなにかした子供が丘の上で目撃し、電話で兵士に連絡するという場面だ。


ビージーズTシャツを着た子供は、電話でチョッパー部隊が通過する大音響を送る。


アルバム・タイトルがSpirits Having Flown(精霊たちは飛び立った)なので、チョッパー部隊が基地を飛び立つ場面に合わせた、たんなるジョークなのだろう。

◎これはわれわれの戦争だ

ビージーズがただのジョークなら、デッドのAoxomoxoAにもこれといった意味はなく、ささやかなジョークなのかもしれない。

しいていうと、読めても意味は不明=ナンセンス、この死傷者を多数だした作戦の無意味さの暗示か。いや、もっと大きなジョークなのかもしれない。

開巻まもなく、米軍はアトーという叛乱軍に物資を供給している武器商人の身柄を拘束し、指揮官であるギャリソン将軍(サム・シェパード、The Right Stuff以来ずっとファン!)が訊問のようなものをするが、アトーは米軍と将軍を甞めきっていて、説教でも垂れるようにこう云う。



「わたしは歴史というものについて多少は知っている。この様を見なさい。これはたんに、明日を生み出そうとしているだけなのだ。アーカンソーかどこかの白人の観念などを抜きにした『明日』をね。きみはここへ来るべきではなかった。これは内戦だ。われわれの戦争だ。きみの戦争ではない」

これが暗示、前ふり、預言で、話はじっさいの作戦行動に移る。

◎ブラックホーク・ダウン

作戦は典型的なヒット・エンド・ランだった。チョッパー部隊の支援を受けつつ、地上部隊が叛乱軍制圧地域に車輛で侵入し、ピンポイントで特定された建物で叛乱軍幹部の身柄を確保したら、全速力で脱出する――はずだった。

上手くいきそうもないことは必ず失敗する。地上部隊は叛乱軍の激しい抵抗に遭って多数が傷つく。ヴェトナム戦争の落とし子、RPGがそこら中にあふれている時代だ。低空で地上部隊の支援任務に就いていたチョッパーが一機、テイル・ローターにRPGを喰らい、広場に墜落してしまう。


RPGはRocket Propelled Grenade=ロケット噴射式擲弾。ロシアが開発した。


ブラックホーク・ダウン


地上部隊は救援に向かうが、敵制圧地域のど真ん中、しかも相手は民兵、ヴェトナム同様、一般市民と区別がつかない。いや、それどころか、一般市民自体が米軍に敵意を持っていて、機会さえあればたちまち襲いかかる。

死に馬は蹴られ、水に落ちた犬は棒で打たれる。山崎の戦で敗れた明智光秀や、家康の「伊賀越え」の時の穴山梅雪の例が有名だが、戦国時代の落武者が農民に襲われるのと同じ状況が生まれた。


襲いかかる民兵を撃ち倒すチョッパー搭乗員。向こうには群衆が取り巻いている。


さらに一機がRPGにやられ、そちらも救援が必要になり、簡単に終わるはずの作戦は泥沼にはまり、市民もどんどん戦いに参加しはじめて、ブラックホークの残骸に閉じ込められた搭乗員と、救援に来た歩兵に容赦なく襲いかかる――。

◎流血の進化、弾丸の可視化

大昔の映画、戦争映画にせよ、西部劇にせよ、ギャング映画にせよ、あるいは本邦のチャンバラ映画にせよ、撃たれても斬られても、血が流れることは滅多になかったし、至近弾は岩に当たってかすかにホコリがたつ、というような形で表現された。

60年代のイタロ・ウェスタンがまずその習慣を変え、人間が傷つけば血が流れ、弾丸が当たれば体に穴が開くことがストレートに表現されるようになった。

イタロ・ウェスタン誕生のインスピレーションとなったのは黒澤明の『用心棒』で、そのプロットをベースに、セルジオ・レオーネのFor a Fistful of Dallars(『荒野の用心棒』)が製作されたのだが、その『用心棒』の続篇『椿三十郎』では、三船敏郎に斬られた仲代達矢が噴水のように盛大に血を噴き上げた。


黒澤明『椿三十郎』エンディング・シークェンスの三船敏郎と仲代達矢の対決。モノクロなので大丈夫だが、カラー映画だったら、ここまでの大流血はやらなかっただろう。


その後、スプラターだのゴアだのというホラー映画の直接的な流血、受傷表現があり、たぶん、それが一般映画へ跳ね返ったのではないかと思うが、アクション映画も気色の悪いシーンが増えていった。

さらに一段ギアが上がったと感じたのは、1998年のSaving Private Ryanだった。冒頭のノルマンディー上陸作戦での銃弾の恐ろしさには震え上がった。

銃弾は肉眼では見えないのだが、Saving Private Ryanでは、強襲上陸の最中、上陸用舟艇から海に落ちた兵士の視点で描かれる水中ショットで、海中を駆け抜ける弾丸の白い航跡と、それがもがく兵士に命中するところが描かれていて、ゾッとした。


水中を走る銃弾。Saving Private Ryanより


上陸用舟艇の扉が開いた途端、機銃掃射を食らって兵士がなぎ倒されていくショットもリアルで、浜に辿り着いてからも、丘の上のドイツ軍を掃討して、拠点を確保するまで、おぞましいショットがつづく。

Black Hawk Downの戦闘描写もこの流れを汲むもので、弾丸が遮蔽物に当たったり、跳弾したり、さらには兵士に命中したりしたときの視覚表現も、音響効果も、むやみにリアルだし、傷ついた兵士は苦痛にのたうちまわり、絶叫する。

しかも、相手は民兵ばかりではなく、その何十倍、何百倍もの市民までいる、いくら斃しても斃しても、つぎつぎに湧くようにあらわれ、味方の死骸を乗り越えて寡兵の米軍に襲いかかり、数で圧倒してしまう。



◎戦争はアオクソモクソア

あの戦場にいたら、わたしは、なんて無意味なんだ、俺はこんなところで、いったい何をやっているんだ、と呆然としたに違いない。こんな見知らぬ土地までやってきて、見ず知らずの人々が殺し合っているところに割り込まねばならない理由など、はじめからまったくなかったことに気づくだろう。


身を守るようすもなく、民兵や民衆が続々と戦闘地域に集まってくる。


民兵ばかりでなく、米軍は市民からも憎まれている。それはそうだろう。仮に、関ケ原で東西の軍が闘っている時に、英蘭葡の三国がPKF部隊を送り込んだとしたらどうか? 徳川方も、石田方も、足並みをそろえてPKF軍に襲いかかるに違いない。

いや、仮にPKFが両軍を制圧し、ひとまず干戈を収めたとしよう。それでこの争いは終わっただろうか? それは考えられない。いずれ、時を改め、形を変えて、両勢力は決着をつけただろう。


二世紀半後の蛤御門の戦の時、薩摩の兵は、関ヶ原を忘れるな、を合言葉にしていたと云われる。無理やり停戦に持ち込んだとしても、抑圧されたエネルギーは、遅かれ早かれまた噴出する。内戦というのは、政情を安定させるためのもので、どこかバランスが取れるところに辿り着くまでは終わらないものだ。

そもそも、応仁の乱の決着が、とうてい決着になっていなかったから、慶長まで戦火がやまなかったのだ。あれは中世の政治バランスが崩れたあとの、新しいバランスを求めた、「Shaping tomorrow」=明日を作り出すための戦いだった。

内戦に「人道的見地」などという世迷言を旗印に割り込んでいったほうが悪い。ソマリアのPKF軍の失敗は、PKFなどというのものが迷妄であることを見事に証明するものだった。



いや、これは内戦だけのことではない。「他人の戦争」になんらかの利害を見いだして関与していくのは、戦火を拡大する結果を招くだけだ。第一次大戦も、第二次大戦もそういうメカニズムで拡大したし、いまのところ、どの国も直接的にはウクライナの戦いに関わらずにいる理由もそこにある。ガザだってそうだ。直接的な武力関与はどの陣営にもできない。

やはり、あのデッドのAoxomoxoAのTシャツは、われわれはついに戦争の意味を知ることはない、どこまで行っても無意味なのだ、という諦観を反映したものだったのではないか。

◎死者のみ

開巻直後、「Only the dead have seen the end of war」というプラトンの言葉が映し出される。



死者のみが戦争の終わりを知る、というあたりだろうか、逆に云えば、われわれは戦争の終わりを見ることはない、つまり、戦火が絶えることはない、と云っているのだろう。結局、意味もへったくれもない、われわれが理解することは永遠にない世界に生きているのだ。

映画終盤、死地から脱して、基地に帰還した兵士は云う。

「くにに帰ると云われるんだ。お前は何のためにそんなことをやっているんだ、戦争中毒か何かか? とね。俺は何も云わない。云ったって連中には理解できるわけがないからな。何のためか? 隣で一緒に戦っている連中のためだ。それだけさ」


なんともはや、である。これは「戦場に戻る」ことの説明であって、戦う理由、戦う意味ではない。

プラトンが云ったように、生者は永遠に戦争の意味を知ることはないのだ。それ自体、戦争にははじめから意味などないことをあらわしている。

だから、グレイトフル・デッド=「深く感謝する死者」は「アオクソモクソア」とエニグマティックな言葉を遺した……。


人類の愚行に思いをめぐらすグレイトフル・デッド


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