デイヴ・フィッシャーとハイウェイメン:まったく新しい「漕げよマイケル」の創造
◎ロング・ウォーク・コンパニオン
旧友と「年を取ってもう高いところが唄えない、音域が狭くなった、声量がなくなった」という、よくある現象のことを話していて、老いてからの鼻歌のレパートリーを数え上げた。
十数年前、なんだか物忘れがひどくなったような気がして、何か歌をフル・ヴァースで覚え、ロング・ウォークの際に、ひと気のない山道で唄おうと考えた。
あのころはよく三浦半島横断をやったので、野生動物横断注意の交通標識が立っている、まったく人けのない道をしばしば歩いたのだ。震災にも、三浦半島横断の真っ最中、あとちょっとで相模湾に到達というところで遭遇した。もちろん、その時、何を唄っていたのやら、びっくりして忘れてしまったが。
しかし、Thank You GirlやI'll Get Youなど、ファブス初期のB面曲に挑戦したり、あれこれやってみたところ、短期記憶の衰えはなはだしく、もう英語の歌詞を覚えるのはかなりキツいことがわかり、日本語の曲を考え、
・ギターを持った渡り鳥
・八月の濡れた砂
という日活映画の主題歌を二つ、覚えてみた。
「ギターを持った渡り鳥」はコーラス・パートの高音がチャレンジングだが、かろうじてまだ唄える範囲に収まっていた。「八月の濡れた砂」はピッチの上下動が小さく、音域が狭くなった年寄りには唄いやすいし、歌詞が短くて楽、という理由で選んだ。いや、もちろん、もともと好きな曲だから、という大前提があってのことだが。
◎あれから十年(どころか)
That was then, this is nowとモンキーズも唄っていたが、あれから十数年たったので、もう「ギターを持った渡り鳥」のハイ・パート「♪ギターかかえてえ」は出なくなり、あえなく退役。いや、ご本尊のアキラだって、もうあそこは出ないんだから、素人が羞じるこたあない!
「八月の濡れた砂」はかろうじて唄える。しかし、歌詞を忘れてしまったので、再びロング・ウォークの友とするには、温習をしなくてはならない。
最近は、スティルズ=ヤング・バンドの時のニール・ヤングのLong May You RunとMidnight on the Bayという、ピッチの移動が小さい二曲をたまに唄う。
そして、たぶん、ピッチの移動幅が小さく、歌詞も短いので年寄りが唄うにふさわしい、という意味だったのだろう、友がMichael, Row the Boat Ashore(漕げよマイケル)なんかどうだ、と云ってきた。
これはまた、唄えそうで唄えない曲が出て来たぞ、とわたしは思わず笑った。
◎どうやっても唄えないハーモニー
ハイウェイメンの1960年のビルボード・チャート・トッパー、Michael, Row the Boat Ashore(以下Michaelと略す)は、わたしが幼いころ、年の少し離れた兄のシングル盤コレクションにあった。
ボビー・ヴィーのRubber Ballやデル・シャノンのHats Off to Larryなどと並んで、持ち主の兄より、むしろ、わたしのほうが(兄の留守に!)頻繁に針を載せた盤だった。
MichaelとRubber Ballは、ともにヴォーカル・アレンジ、ハーモニーに魅力があった。ただ、わたしはピッチが悪く、音楽的才能のない子供だったから、盤に合わせてそのパートを唄おうとしても、どちらもメロディーを唄うのが精一杯、ハーモニー・パートは唄えなかった。
とくにMichaelは、Rubber Ballとは異なり、たまにシンガロングしようとしても、いつも不思議に唄えなかった。
しかし、友人にMichaelのことを持ち出され、あれは駄目だ、子供の時からどうやっても唄えたことがない、と云わなければならず、そのために、改めてコード進行をとり、ハーモニーがどこに行っているのかをチェックした。
結果は、ウッソー、そんな変なことをやってたのかよー! だった。ふつう、ありえないこと、無理なヴォーカル・アレンジをしていたのだ。
ハイウェイメン盤のMichaelは、ファースト・ヴァースはソロ、セカンド・ヴァースからハーモニーが加わる。
Michael row the boat ashore, hallelujah
C F C
Michael row the boat ashore, hallelujah
C Em F C G C
コード進行はだいたいこんな具合だが、問題は2行目のEmに行ったときに、上のハーモニーが、
Michael row
G C B
と唄っていることだ。これは不規則と云うか、無茶と云うか、強引と云うか、ふつう、EmではCの音でハモることはない。
一瞬の経過音に過ぎないからオーケイ、という立場もあるかもしれないが、ふつう、そうは考えないだろう。現に、この曲の他のアーティストのヴァージョンで、ハーモニーを入れているもの(ビーチボーイズ、ブラザーズ・フォー、ウィーヴァーズ、ブライアン・プール&ザ・トレメローズ)で、ここでCを入れているものはない。誰だって、EmにCは不協和と考えるはずだ。
◎分散和音
しかし、このC on Emは、この曲のいちばん耳だつ音で、子供の時から、ここの響きが格好いいなあ、と思ってきた。不協和だ、外れている、と思ったことはまったくない。
では、Emの構成音である、E、G、Bに、Cを加えて、協和音を構成している、とみなすと、このコードは何だ?
キーがCで、Emに行った、この時の基音はEだと考えるなら、Em5+、すなわちEmオーグメントかなあ、なのだけれど、マイナー・オーグメントなんて見たことがない。そりゃまあ、やってやれないことはないが……。
あるいは、Cメイジャーのベースを半音下げてC/Bにしたと考えることもできそうな、できなさそうな……。
あるいはふつう、上のほうの根音を下げることで成立するメイジャー・セヴンスの変形で、下の根音(まあ、そもそも根音だから、下の音を指すのだろうが!)を下げて、下から順にB-E-G-Cという並びのメイジャー・セヴンス・コードを構成したと考えるか……。
ハッキリ云って、こうなると、当方のような音楽的に無教養な人間の手には負えない。「耳から入ってきたものの感触は不協和ではない、だから協和なのだ、文句があるか!」である。
◎失敗は成功の母?
他のアーティストがみなこのCを鹿十しているのは、ハーモニーを唄うときに、こういう変なテンションはつけないはずだからだ。
メロディー・ラインに対して、そのコードの構成音、たとえばメイジャー・コードなら、3度上とか、4度下(5度上)といった、素直な「ハモる音」を選ぶ。そこから外れると、ハモっていない、外した、と感じるからだ(むろん、これは一般論にすぎない。たとえば、ブライアン・ウィルソンに甚大な影響を与えたフォー・フレッシュメンは、ハーモニーにさまざまなテンションをつけて、それまでとは異なるコーラス・グループのスタイルをつくり、それがビーチボーイズに受け継がれた)。
だから、コードがEmに行ったときに、メロディーがEなら、たいていはGやBでハモる。それなのに、なぜCを使ったのか。ずばり、ミスだと思う。
MichaelはCキーで、Cメイジャー・スケールのメロディーだから、ヴァースの冒頭は、CとFという二つのメイジャー・コードのみ、だから、そのままの流れで、マイナーに変わったときも、うっかりメイジャーのまま唄ってしまったのではないか?
音を外したのだが、じっさいには、かなり風変わりではあるけれど、協和して響き、誰かがそれを、いい音だ、と感じ、修正しないことにしたのではないか?
それぐらいしか、EmコードでCでハーモニーをつけるなんて発想の跳躍が起きる状況を思いつかない。じつに面妖、世に変則的ハーモニーは数あれど、ここまで妙なハーモニーは、少なくともポップの世界ではほかに知らない。
◎マイナー・コードの付加
SongfactsのMichaelエントリーによると、ハイウェイメン盤のアレンジをしたのは、リード・テナーのデイヴ・フィッシャーだという。メンバーのひとり、スティーヴ・トロットは、ハイウェイメンのMichaelが大ヒットしたのは、フィッシャーが、それまではなかったマイナー・コードを追加したからだ、と云っている。
わが家にはハイウェイメン盤より古いMichaelは、1957年録音と思われるウィーヴァーズ盤しか見当たらないのだが、そのウィーヴァーズのヴァージョンでもすでにマイナー・コードは存在する。はて?
Michaelはもともと南北戦争時代に生れたゴスペルなのだそうで、50年代にトニー・セイルタンがSlave Songs of the United Statesなる楽譜集から発掘し、それをピート・シーガーに教え、さらにシーガーがウィーヴァーズに伝え、アメリカン・フォーク・リヴァイヴァルの時代に、しだいに各地のフーテナニーで唄われるようになっていったらしい。
であるなら、ウィーヴァーズは原型に近い形でやっていると想定できるが、すでにマイナー・コードはある。ハイウェイメン/デイヴ・フィッシャーが追加した、とは云えない。これをどう解釈するか。
思うに、トロットが云っているのは、マイナー・コードそれ自体ではなく、ハイウェイメン盤だけにある、Em5+という不思議なテンションのついた「分散和音」、または、そのヴォーカル・ハーモニーの感触を云っているのだろう。あの部分がハイウェイメン盤の最大の特色だから、そのことを云おうとして、マイナー・コード、と云っただけだと考える。
◎ジョーダン川とヨルダン川
River Jordan is chilly and coldという一行があるので、てっきり聖書にもとづく歌詞だと思っていたが、原曲はアメリカ南部の黒人奴隷が逃亡を試みる歌だそうで、となると、River Jordanはヨルダン川ではなく、ユタ州にあるジョーダン川のことだったのかと思いかけたが、いや、待てよ、となった。
Milk and honey on the other sideという行がある。これは「出エジプト記」からの引用だ。約束の地のことを云っているのだろう。であるなら、アメリカ南部にはほかにいくらでも川があるのに、わざわざRiver Jordanを選んだのは、やはり聖書への言及を意図したからに違いない。キリストが洗礼を受けたヨルダン川を思い浮かべるように示唆しているのだ。
だから、原曲がかつて黒人教会で唄われたゴスペルであっても、無理にアメリカに話を閉じ込めることはない。歌詞が目指しているのはもっと普遍的な自由への渇仰だ。アメリカ南部の奴隷歌だという出自を強調しすぎるのはよろしくない。River Jordanはヨルダン川と解釈してかまわない、いや、その解釈のほうが真実である。
◎惻々たる寂寥
ピート・シーガーやウィーヴァーズのMichaelを聴くと、思い切り落胆する。典型的なフーテナニー・ソング、「さあみんなで一緒に、大きな声で、元気よく歌いましょう!!!!」と叫んで、全員が大声でがなり立てる、むやみに威勢のいい曲なのだ。ピート・シーガーの代表作、This Land Is Your Landの同類である。まったく好かない!
ハイウェイメンのMichaelはまったく違う。正反対だ。「ヨルダン川は凍えるような寒さだ、でもそれは、魂ではなく、体を凍えさせるだけにすぎない」という歌詞に呼応するように、深い寂寥感と孤独感が惻々と迫ってくる、静かな、静かな歌なのだ。
それがハイウェイメンのMichaelの最大の特徴であり、セカンド・ヴァース2行目、コードがマイナーに行った時に、その寂寥感が表現される。
たんなるEmの構成音によるハーモニーでも、テンポを落として静かに唄えば、それなりのエモーションは感じられるが、しかし、ハイウェイメン盤だけが、あの深さに到達している。Em5+という変則的な和音のおかげだ。
みんなで馬鹿騒ぎするだけのノーテンキなフーテナニー・ソングに、深い観照の次元をもたらしたのだ、ハイウェイメンのヴァージョンがビルボード・チャート・トッパーになったのは当然だし、トラディショナル・ソングとはまったく別の曲を創造したデイヴ・フィッシャーが、アレンジャーとしてクレジットを得、印税を受け取ったのは当然の報酬だった。