古典ミステリー初読再読終読 クロフツ『樽』補足:乱歩とヘイクラフト
◎国内船便と海外船便:長海路問題ブラシュアップ
先に簡単な問題を簡単に片づける。「古典ミステリー初読再読終読 クロフツ『樽』」の末尾に付した、「長海路=long sea」という言葉の問題だが、自分の解釈が間違っていたと思い直したわけではないものの、明解さを欠いていたので、あと知恵の補綴をやっておく。
『樽』をお読みになった方ならおわかりのように、あの樽の運送は、海路だけではない。冒頭の運搬は貨物船から馬車で家までだが、他は、馬車で鉄道駅まで運ばれ、鉄道で港へ送られ、船で海を越え、その後、また鉄道で運搬、駅止めになり、それを馬車で運んだりしている。したがって、聖ラザール駅だの、ウォータールー駅だの、カルディネ街貨物駅だの、数多くの鉄道駅が登場する。鉄道員だったクロフツとしては、そのあたりは楽しんで書いたのだろう。
あの不思議な「ルーアン経由、長海路」すなわち「via Rouen and long sea」という荷札の記述は、陸路と海路の混在する(魏志倭人伝か!)運送なので、現在、航空便にvia air mailなどの表記が必要なのと同じことで、これは「船便」だ、と明示したものに違いない。longがついているのは、外国航路だという意味だ。これで「via Rouen and long sea」はスッキリ読める。
よって、あの部分の翻訳は「ルーアン経由、長海路」ではなく、「ルーアン経由、外国船便」とするべきだ。これでもう疑問は消えた。
◎乱歩の正論
「最後の『トレント最後の事件』:探偵の退場と人間の登場」では、『海外探偵小説作家と作品』で、乱歩がどう云っているかを見たのに、「古典ミステリー初読再読終読 クロフツ『樽』」では、それを怠ってしまい、あとから読んでみた。
乱歩の言葉でもっとも重要な部分は、ハワード・ヘイクラフトの見解への反対表明なので、先にヘイクラフトの言葉を引用する。
彼〔クロフツ〕の作風はプロットの面白さを主とするもので、人間的関心は鉄道技師としての興味に限られている。探偵小説好きの経済学者 John Stracheyはクロフツを評して「彼は探偵小説のメカニックスのみに捉われ、文学的な要素を無視している」と云った。しかし、クロフツの代表作「樽」が、優れた古典の一つとして探偵小説史に残る作品であることは、 誰も否定しないであろう。 又、 登場人物の性格、心理、恋愛葛藤などの夾雑を好まない純謎解き小説の愛好者にとっては、クロフツの作風は、こよなき珍味に相遠ない。Charles W. Pardyは「クロフツは読者に対して驚くほどフェアである」と云ったが、たしかに彼の作品はあらゆるデー夕を読者に明示し、作中探偵と推理を競うことの出来るような条件を備えている。
この段落を吟味したが、つまらないことを云っているなあ、と溜息が出た。小説にかぎらず、音楽、映画、なんでもかんでも、評論家というのはつまらないことばかり云う。
評論というものを読まないわけではないが、実作者によるものに限定している。小説を書いたこともない人が何を云ったところで、スタンドで見物している野球ファンの応援やヤジと大差がない。打席に立ったことのない人間にわかることなど、たかが知れている。
では、これに対して殿堂入りの大打者である乱歩は何と云ったか?
しかし、 少なくとも 「樽」 については、 私はこれと逆の考え方をしている。「樽」では 一応データが示されるけれども、それが探偵の思い違いだったりして、最後までデータの内容が確定ぜず、読者は安心して推理競争が出来ないような感じを受ける。犯人の方は独創のある天才型が多いが、探偵は平凡人で、よく間違いをやるので、その観察したデー夕は中途で変ることがあり、 信用が出来ないのである。 私は従来から屡々〔しばしば〕このことを書いている。
じっさいに大量の小説を書き、さまざまな場面で「いかに書くか」を思い悩み、苦悶煩悶を繰り返したヴェテランは、よその書き手がネグレクトした場所をあっさり見抜いた。作家は、そこをどう書くかに腐心するものだ、お前は誰もが苦しむはずの局面を、適当にごまかしてやりすごしてしまった、それが乱歩の云いたいことだと思う。
くどくなるが、さらにパラフレーズする。フェアな謎解きミステリーでは、作者はすべての手掛かりを提示しなければいけないことになっている。しかし、はっきりと、これとこれとこれが手掛かりですよ、と明示してしまうと、謎が謎でなくなり、作者と読者のゲームは成立しなくなる。だから、作者はあの手この手で手掛かりを手掛かりには見えないようにヴェールをかけて提示し、カードを二枚伏せたポーカーを成立させようと腐心する。
乱歩は、そういうフェアなゲームを期待しているのだが、クロフツはカードを伏せるのではなく、見えているカードの一枚、スペイドのエースを、あとになって、さっきのはウソ、ほんとうはハートのキングだったんだよ、ゴメンな、というようなインチキをしている、それではフェアな謎解きミステリーとは云えない、と批判しているのだ。
そして、だいじなのは、これはクロフツにかぎったことではなく、乱歩はこれまでに何度も、さまざまな謎解き小説について繰り返し指摘してきた、とボヤいていることだ。乱歩の基準で云うと、フェアな謎解きミステリーと呼べるものはそう多くはなかったのだろう。深い溜息が聞こえてくるような一行だ。
◎ボールを手にしたことのない野球少年
乱歩は、ヘイクラフトの論評の、「クロフツはすべての手掛かりを提示する」という点に対してのみ反論しただけだが、わたしは、こんなもの批評じゃないだろと、心底呆れた。
「登場人物の性格、心理、恋愛葛藤などの夾雑を好まない純謎解き小説の愛好者にとっては」というところで、あんた、頭は大丈夫か、と思った。登場人物の性格が「夾雑」というが、それをとったら、もう小説じゃなくて、クロスワードかジグソーじゃないか、小説とは何かも知らずに、小説を論じていることに気づけよ、である。
大昔、おおいに栄えた「本格ミステリー」、乱歩の云い方だと「謎と論理の物語」も、本格ミステリーである以前に、みなただの「小説」であるはずだ、その小説としての面白みを見つけたくて、一世紀前に書かれた古びた小説の森をのろのろと歩んでいるのだ。
「謎と論理の物語」というものの核心にあるのが、「物語」が除去され、人物造形を放棄した、マッチ棒のような登場人物、いや登場無機物が操り人形のようにマヌケな身振り手振りをするだけの「謎と論理」の骸骨なら、読んだところで時間の無駄だ。わたしは小説読みであって、ゲーマーではない。
いや、「赤毛のレドメイン家」にも「トレント最後の事件」にも「矢の家」にも「闇からの声」にもカラフルな人物が描かれていた。たんに、ハワード・ヘイクラフトというマヌケな人間が、小説のことなど何ひとつ理解していなかっただけだ。
音楽なら実作者の言葉しか読まないし、映画だって、ヒチコックやハワード・ホークスや小津安二郎や鈴木清順の言葉は舐めるように読むが、映画評論などまったく読まない。それなのに、乱歩が引用していたものだから、つい読んでしまい、うっかり腹を立ててしまった。評論は断じて忌避しなければいけない。
◎乱歩がその血で贖った達観
ふと、乱歩のエッセイに出てきた評論家罵倒の言葉を思いだした。
「褒めた評論がいい評論、貶した評論は悪い評論」
乱歩の長篇は、戦前、売れに売れたらしいが、そのたびに、乱歩は評論家たちに、読者におもねるエログロ通俗小説、と謗られたようだ。自分でも、妥協の産物、苦しまぎれの小説というようなことを云っているが、それは羞恥心と謙遜から出た言葉で、心の底では、必死に工夫を凝らし、読者の気を逸らさぬ、意外性と緊張感のある物語を書いているのだ、誰にでもできることじゃないぞ、という自負はあったに違いない。
それでもなお、評論家の厳しい批判はつらかったのだろう。その苦痛の中で、作家に役に立つのは、たとえ見当違いでも、褒め言葉だけだ、「建設的反対意見」などというものは存在しない、指弾の言葉など気分が悪くなるだけで、何の役にも立たない、という惨憺たる割り切り、達観に到達したのだろう。一画一画から血がしたたるような、厳しい言葉だ。