本物の人間と本物の蒸気機関車:チャールズ・ブロンソン主演『軍用列車』
ふと、アリステア・マクリーンを読みたくなった。しかし、手元にはもう一冊もなく、じゃあ、映画にするかと探して、HDDの肥やしになっていた2本のうちのひとつ、チャールズ・ブロンソン主演のBreakheart Pass(『軍用列車』1975)をプレイヤーにドラッグした。
◎アメリカン・ウィルダーネスを疾駆する機関車
時代が時代なので、タイトル・デザインはよろしくなく、大丈夫かよ、と不安になったが、話に入り、列車が登場したとたん、よしよしこれなら大丈夫だ、と腰を据えて見る気になった。
べつに鉄道マニアというわけではないのだが、映画の鉄道シーンは好きなので、魅力的に撮れているショットがあると、ああ、ちゃんとわかっているスタッフだな、と思う。
この「Breakheart Pass=心臓破り峠」は、ほかのことはどうであれ、列車が走るショットにいいものがたくさんあり、機関車の量塊感をたっぷり楽しむことができ、それだけで満足した。
◎マクリーン・スタイル
The Guns of Navarone(1957、「ナヴァロンの要塞」)、Where Eagles Dare(1967、「荒鷲の要塞」)、Ice Station Zebra(1963、「北極基地潜航作戦」)など、マクリーンのお話では、つねに「裏切者は誰だ?」がポイントになる。
「心臓破り峠」は、北カリフォルニアのハンボールト砦でジフテリアが発生し、兵の多くが倒れてしまい、その救援のための補充要員や医師、さらには知事や砦の司令官の娘、保安官や逮捕されたお尋ね者などと、よけいな人間まで大勢乗せた特別列車の道中を描く話で、「ある使命を帯びた集団が危険な土地を移動する」という、いつものマクリーン流アクションである。
ナヴァロンの要塞のような少数精鋭部隊を描く第二次大戦ものと違い、この心臓破り峠は、列車に人員と物資を満載しているので、いつも以上に、道中、たくさんの人間が死ぬ。
お尋ね者に身をやつしたチャールズ・ブロンソン連邦捜査官は、その犯人と陰謀を暴こうとひそかに活動するのだが、マクリーンも、見る側が裏切者探しをするのは重々承知。ここでは、「そして誰もいなくなった」的な反転技を使うが、残念ながら途中でバレバレ、意外性はなかった。いや、そもそも、意外性は狙っていなかったのかもしれない。
◎大量殺人
機動車、燃料車を含めて全体が8輌編成、うち、後尾3輌が兵員専用車なのだが、(マクリーンのいつもの話の運びにしたがって)何者かが破壊工作をし、峠に向かって上っている最中に、この後部3輌を切り離してしまう。
機動車を失った3輌は、傾斜を逆に下りはじめ、中の兵たちもそれに気づいて、ブレーキをかけようと車掌室を目指すが、車掌は殺されており、ドアには鍵がかかっているために、なかなか辿り着けない。
ここで見るほうは、「列車のショットはどれもよかったのに、ここでミニチュアに切り替えかよ」と、ショボいショットを覚悟した。「レマーゲン鉄橋」だったか、3分の1スケールぐらいの大型モデルを使った特撮を思いだし、せめてあれくらいの大きなモデルにしてよ、と祈った。
いよいよ、橋の手前のカーヴにさしかかり、車輛が崖に向かって飛び出す、というショットになり、おお、と声が出た。大型モデルどころか、本物を崖から落として徹底的に破壊したのだ。やっぱり、実物をぶっ壊していた時代のハリウッド映画はすごい。つくづくそう思った。
◎果てしなく退屈な映画のアニメ化
2022年の放送だそうだが、Obi-Wan Kenobiというスター・ウォーズのスピンオフ・ドラマがあった。去年、その冒頭をちょっと見て、こりゃひでえな、とプレイヤーを止めた。
このショットの人物たちのほとんど、あるいはすべてがCGだったのだ。サイ・ファイだからCGだらけになるのは承知の上で見はじめたのだが、それは宇宙船、天体、化物、背景などのことであって、人間までCGだなんて、何をかいわんやで、とうてい付き合いきれなくなった。
スーパーヒーローものを中心に、近年のハリウッド映画はCGばかりになってしまい、いくらなんでも鼻についてきた。子供のころ、東宝特撮のショボさを毎度嘆いていたが、どうやっても無理なことを、苦しまぎれだろうがなんだろうが、とにかく映像化するという、不自由な中での悪戦苦闘、あの悶えともがきこそが映画の核心だった、といまでは考えるようになった。
いまでは、どんな映像だろうと、CGで可能なのだから、何を見ても、まったく驚かない。心が動くことはなくなってしまった。「ふーん」「へえ」すら出ない。ただ、無言で通過するのみ。
映画を見る、というのは、こんなに心拍数のあがらない行為ではなかったはずだ。「手に汗握るアクション!」なんてものは、もはやどこにもない。
◎All these worlds are yours, except the legacy films
2001: A Space Oddessey(2001年宇宙の旅)を見たときは、そのリアリズムに驚嘆した。巨大であるべきものがほんとうに巨大に見えたし、月面も月面のように見えた。無重力状態も無重力状態に見えた。
しかし、あの驚きは、セットやミニチュアを使ってああいう映像を実現するのは、きわめて困難だと知っていたからこそのことだ。いまでは、リアリスティックな宇宙船なんか見ても、べつになんとも思わない。その程度の映像をつくるのは容易だと知っているからだ。CG制作会社へ払う金さえ用意すれば、それで事足りる。
結局、何が起きたかというと、わたしの場合、映像表現にさまざまな厳しい制約があり、苦心惨憺悪戦苦闘して製作していた時代の映画へ回帰した。昔の映画には驚きがある。危険もある。だから、スリルもある。失敗すれば人が死ぬことさえある撮影に挑んでいるからだ。本物の人間と本物の危険がそこにある。
映画はエントロピー増大の極限、もはやなにも起こらない熱平衡状態に到達しつつある。背景の人物までCGになったのだから、やがてすべての人物が、どれほど危険なアクションをさせても絶対に死なない、ただの「絵」となってしまう時代が、すぐそこまで来ていることを認めざるを得ない。
AI技術の進展がこの潮流に大いなるドライヴをかけ、一気に実現してしまう可能性すら感じる。むろん、観客の拒否反応はあるだろうが、映画もアニメも同じものだと思えば、人物がCGであってもべつに異常なことではない、という認識に至るだろう。
どうであれ、そんなのは当方の知ったことではない。わたしには無限にも見える過去の映画の膨大な遺産があり、そして、映画を見られる時間は残り少ない。あとは野となれ山となれ、だ。未来は彼らのものであり、わたしのものではない。
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