マルセル・ビアンキと灰田晴彦・勝彦兄弟:フレンチ・ハワイアンとジャパニーズ・ハワイアン
幼児から小学校にかけて、日本ではマンボなどのラテンとハワイアンが非常に盛んで、ロカビリーなどより身近な音楽だった。
◎「日本的に訛った音楽」?
それは60年代なかばのビリー・ヴォーン・オーケストラ「真珠貝の歌 Pearly Shells」の爆発的ヒットまでつづいた(アメリカでは1960年にバール・アイヴズ盤がマイナー・ヒットした。日本では数年遅れて異なるヴァージョンがヒットしたことになる)。
長じて、エスニック・ミュージックの紹介が盛んになったころ、ギャビー・パヒヌイ・バンドのハワイアン・スラック・キー・ギターというものを聴かされた。
ギャビー・パヒヌイのアルバムは、わたしが知っているハワイアンより、アメリカのルーツ・ミュージックに近い、非常に地味なものだったので、へえ、これがハワイの音楽なのかよ、と驚いたら、わたしが知っている「ハワイアン」というのは偽物、常磐ハワイアン・センターのBGMでしょ、と嗤われた。
その後の数十年のあいだに、200枚ほどのいわゆる「ハワイアン」アルバムを聴いた結果、わたしが幼児のころから小学校時代にかけて、日本で人口に膾炙した「ハワイアン」というのが何だったのか、おおよそ理解できた。
米本土、それも主としてハリウッドで咀嚼され、口当たりのよくなったハワイ音楽に基礎を置くアメリカン・ポップ・ミュージックと、それがハワイに逆流した結果の、ハリウッド訛りハワイアン音楽を、戦前から戦後にかけて日本に移植したもの、と云ってよい。かならずしも日本流の外道音楽とはいえず、常磐ハワイアン・センターを嘲笑するのは適切ではないと思う。
◎ジャンゴ・ラインハルトに覆い隠された豊穣
先日、マルセル・ビアンキのハワイアン集成2枚組 The Hawaiian Guitar of Marcel Bianchi 1942-53を聴き、エスニックな味の濃厚なハワイ音楽だけを称揚し、日本的解釈を貶めるのは間違っている、という思いがさらに強まった。
ジャンゴ・ラインハルトを本気で聴きはじめたときはまだよくわかっておらず、ジャンゴを入口にして、ジプシー・ジャズと云われる、おもにフランスで録音された音楽の豊かさを知ったのはわりに近年のことで、オスカル・アルマン、アンリ・クロラ、グス・ヴィズール、サラン・フェレ、ジョゼフ・ラインハルトなどのジャンゴ一族面々、そして、マルセル・ビアンキと、好ましいプレイヤーがたくさん見つかった。
こうした「ジプシー・ジャズ」と総称される音楽は、古い録音が多いせいもあり、おおむね共通のテイストを持っているのだが、渉猟するうちに、マルセル・ビアンキのハワイアン・ミュージックを集成したセットにぶつかり、へえ、そういうことをやっていたのか、となった。
しかし、そこではたと気づいたのだが、マルセル・ビアンキはジプシー・ジャズには分類されていない。調べると、コルシカ人だが、生まれ育ちはマルセーユ、つまり、彼はロマ、ジプシーではなく、たんにジャンゴ・ラインハルトのバンドなど、ジプシー・ジャズの中心で活躍したにすぎず、血脈としては外れるのだ。
◎マルセル・ビアンキとヨーロッパのハワイアン
マルセル・ビアンキは、1920年代末、まだマルセーユで暮らしていた十代の時に、ジャズとほぼ同時にハワイアンを発見したという。1920年代終わりのフランスの音楽状況については、ジャンゴ周辺のことしか知らず、どうなっていたのかわたしには見当もつかない。
ふと、思う。モリス・ラヴェルがパリで「ボレロ」を書いたころ、マルセーユの少年がハワイアンに遭遇した。そう考えると、なんか、すごいねえ、と溜息が出てきた。The Music Goes 'Round and Around、音楽は世界を駈け巡るのだ。武満徹が、1967年、November Stepsのアメリカ初演のために渡米し、NYに辿り着いたら、そこらじゅうでビートルズのSgt. Peppersが鳴っていた、と書いていたのを思いだした。
ビアンキのハワイアンを聴いて感じたのは、ギャビー・パヒヌイにはぜんぜん似ていない、ということ。むしろ、「常磐ハワイアン・センター的」(あはは!)というか、要するに、わたしが子供のころ、日本で「ハワイアン」と呼んでいた音楽に近いのだ。
ビアンキがどのようなハワイ音楽を聴いていたかは不明だが、ハード・コアなハワイないしはポリネシア音楽ではなく、ハリウッドに渡って普遍化、一般化され、エスニシティーのアク抜きがすみ、渋柿を干して甘くしたような「ハワイアン」が、諸外国への普及の土台になったということだろうと受け取った。
◎土着からの離陸
日本はどうかと云うと、灰田晴彦と勝彦の兄弟によるモアナ・グリー・クラブを本邦ハワイアン音楽の嚆矢とするなら、ハワイ音楽の日本移植元年は1936年としてよさそうだ。昭和で云うと11年、かの二・二六事件の年であり、阿部定事件の年でもある!
灰田晴彦、勝彦の兄弟はハワイ生まれの日系二世で、一時帰国した1923年、関東大震災後の混乱の中で盗難に遭ったために灰田一家はハワイに戻れなくなったという。晴彦は28年にモアナ・グリー・クラブを創設し、(たぶん日本初の)スティール・ギター(ラップ・スティール)奏者となった。1928年というと、ティーネイジャーのマルセル・ビアンキがはじめてハワイの音楽に接したとされるころ、そしてラヴェルが「ボレロ」を発表した年だ(というのは関係ないが!)。
モアナ・グリー・クラブのCDに収録されたもっとも古い曲は1936年、灰田勝彦の唄による「ハワイのセレナーデ」だ。どういうタイプのサウンドをベースにしていたかは不明だが、モアナ・グリー・クラブのサウンドも、灰田勝彦の唄も、十分にジューシーで糖度は高い。ハワイ土着の音楽より、ハリウッド産ハワイアンに近いのだ。
どうもこのへんの事実の接続具合がよくわからず、もっと1920~30年代のハワイ、米本土双方のハワイアンを大量に聴かないことには、自分を納得させうる結論は得られそうもない気がしてきた。
◎ハリウッド経由か、直輸入か?
マルセル・ビアンキは1920年代終わりにすでにハワイアンに接したということだが、じっさいにスティール・ギターに持ち替えてスタジオ録音をはじめたのは1942年だ。
そして、灰田兄弟以上に、はじめから汁気たっぷり、甘み十分のサウンドで、むしろ、日本の1950年代、60年代のハワイアン、常磐ハワイアン・センター的音楽に近い。
少年時代に聴いたハワイアンのことはおいておき、40年代にビアンキが接したハワイアンはどういうものだったのかが気になるが、やはり、ここでも知識の欠如の壁にぶつかる。
フランスはアジア、アフリカばかりでなく、太平洋にも手を出し、いまもってタヒチをはじめとする植民地、「フランス領ポリネシア」なるものがあり(ポール・ゴーギャンが晩年をタヒチやマルキーズ諸島で送ったことを想起されよ)、植民地の音楽として、ハリウッドを経由せずに、直接、マルセーユに辿り着いた可能性も、ゼロとは云えない。しかし、タヒチの音楽にはあまり甘みはなく、同じポリニージャン音楽でも、タイプが異なると思うのだが……。どうもモヤモヤする。
◎反原理主義の象徴
世の中には原理主義者という人たちがいて、宗教的にも、政治的にもきわめて厄介な存在で、非原理主義者はしばしば彼らから多大なる迷惑をこうむっている。音楽の世界にも原理主義者がいっぱいいる。たとえば、昔はブルーズ・ピュアリストという、原初のフォーク・ブルーズしか、ブルーズとは認めない人たちがいて、辟易させられた。
わたしが、ギャビー・パヒヌイを聴いて、ハワイアンには思えないと云ったら、お前の云うハワイアンは、常磐ハワイアン・センターでかかる紛い物、本物はあんな甘ったるいものではない、と指摘した御仁も、ある種の原理主義者だった。
しかし、アパラチアン・マウンテン・ミュージックに代表されるようなルーツ・ミュージックにしても、ミシシピー・デルタ・ブルーズにしても、アメリカを、ひいては世界を席巻するほどの普遍性、一般性は持っていない。あくまでもプリミティヴな土着音楽だ。
そういうルーツ・ミュージックは、多数の人の嗜好に合うように、都市でアク抜き、洗練されたからこそ、4ビート、8ビート音楽としてアメリカ全土を席巻し、さらにはヨーロッパ、そして、日本にまで届いた。そのおかげで、わたしはいまこうして古いアメリカ音楽を聴いているのであって、その逆――ルーツ・ミュージックを聴いたから、8ビートや4ビートを聴くようになったわけではない。
美術も、音楽も、文芸も、映画も、演劇も、すべては、異質なものとの接触、融合によって、変化し、新しいものが生み出される。そう信じてきたので、ハワイアン・ミュージックの変化、エスニシティーのアク抜きと、洗練の過程には関心がある。フランスでもマルセル・ビアンキが、アク抜き後のハワイアンをやっていたことを知り、その関心はさらに強まった。