熱風吹きやまず:ビーチボーイズSanta Ana Windsのヴァージョン比較
◎危険な風
これを書いているいまは九月十九日で、わが家の寒暖計は36度。ついこのあいだ、38度を経験したので、これは最悪ではないのだが、しかし、九月後半なのにこの気温というのは、やはり呆れる。
38度にも魂消たが、もっと驚いたことがある。八月初めだったか、正午前、気温は高いけれど、風がすごく強いので、これなら少しマシだなと思い、買物に行こうと外に出た途端、ヘアドライアの熱風のようなものが吹きつけてきたのだ。
いやはや、気温が体温より高いと、強風は体感温度を下げてくれない、なんてことは、この歳まで知らなかった。長生きはしてみるものだ。
昔、世界の熱風のことを読んだのを思いだし、その本を引っ張り出した。
うっかり妙な場所にいくと、運悪くひどい目に遭ってしまうことがあります。たとえばイスラエルの「シャラーヴ」(略)北アフリカの砂漠からイタリアや地中海地方に吹く、乾いて埃っぽい灼熱の南風「シロッコ」、「熱病風」ともいわれるトルキスタンの「テバド」、「毒の風」という別名もあるアラビアやリビアの「シムーム」(略)、エジプトの「カムシン」、南カリフォルニアの「サンタアナ」(略)などのものに出くわしてしまうのです。――J・デニス『カエルや魚が降ってくる! 気象と自然の博物誌』より
たとえば、関東では「筑波颪」、関西では「六甲颪」など、日本にもいろいろな風があるが、世界にはもっとはるかに凶悪な風がたくさんあるようで、この異常気象の時代、こういう風は近ごろどうなっているのだろう、もっと危険になったのだろうか、なんて考えてしまう。
◎アフリカから吹く風
ジョニー・ミッチェル(JoniはJohnnyと同じ発音、「ジョニ」という寸詰まり表記にお付き合いするのにほとほとうんざりした。ジョニーと改める)のCareyという曲がある。
そのファースト・ラインは"Wind is in from Africa, last night I couldn't sleep"、「アフリカから風が吹き、昨日の夜は〔暑くて〕眠れなかった」となっている。アフリカからの風というのだから、これはたぶん上記「シロッコ」のことだろう。
昔、ブログでこの曲について書いた(「Carey by Joni Mitchell」)のだが、その記事で平凡社『気象の辞典』から「シロッコ」の項を引用したので、ここに二度のおつとめをさせる。
「シロッコscirocco 地中海北岸に吹く温かい南または南東風。サハラ砂漠の熱帯気団が北上し、初めは乾燥しているが、海を渡るうちに高温多湿(40度以上になることがある)となり、霧や雨、ときにはサハラ砂漠の砂塵をともなって吹く」
かつてこれを書き写した時は、まだ体温より高い熱風なんてものは経験していなかったので、「40度以上になることがある」という注釈は特段気に留めなかったが、高温の風の恐ろしさを知ったいまでは、シロッコがいかに危険か容易に想像がつく。
◎ジョニー・ミッチェルなど、どこ吹く風
このCareyという曲のことを書こうかと思ったのだが、昔、ブログに書いた記事を読み直してみたら、べつに訂正、追加するべきことは見当たらず、書くべきことはちゃんと書いてあったので、そちらを読んでいただいたほうがいい。
そんなのは面倒だという人のために、その記事のポイントをいうなら、ジョニーがどうこうではなく、ベースとギターを弾いたスティーヴ・スティルズが素晴らしい、ということ。ベース・プレイヤーとしてのスティルズを褒める人がいないので、俺にとってはベストのひとりだ、と云っておきたかったのだ。
久しぶりにCareyを聴き直して、やはりスティルズのベースはすごいと改めて感心し、はじめてSuit: Judy Blue Eyesを聴いた時の驚きを思いだした。バッファロー・スプリングフィールド時代のBlue Birdでのギター・プレイもよかったが、スティルズのギターが心底すごいと思ったのは、Judy Blue Eyesの時だ。
なんたって4、5弦あたりが開放で鳴ったときのサウンドが唯一無二。オープン・チューニングにしているのは、あの開放弦の響きを聴かせたいからではないかとさえ思う。いや、なぜ、あんなにいい音が出るのかはいまもって知らないのだが。
ベースも、すごくいいサウンドをつくるし、ドラマーだってやれただろうというほどタイムのいい人なので、グルーヴも立派なものだが、彼がつくるラインもまた凡庸ではない。高音部の使い方が上手く、若き日のポール・マカートニーのように、メロディックかつインスピレーショナルなのだ。
グルーヴとラインの双方が独特で、クレジットがなくても、聴けばたちまちそれとわかるほど強い個性を持っている。あれほど明確なスタイルを持っているベース・プレイヤーはそうはいない。
クロスビー・スティルズ&ナッシュのデビュー盤でスティルズがベースを弾くことになったのは、とりあえずの応急手当だったのだろう。他の二人がプレイヤーとしては役に立たないので、スティルズはあのデビュー盤では、ギター、ベース、鍵盤楽器と、ドラム以外のあらゆる楽器を弾く八面六臂の大活躍をした。
しかし、それでうんざりしたのか、セカンドではベースはグレッグ・リーヴスに任せ、自分では弾かなくなってしまった。以後、CS&Nだけでなく、マナサスでも、ソロでも、ベースはジョージ・〝チョコレート〟・ペリーなどが弾いたので、彗星のようにあらわれた天才的ベース・プレイヤーは、一瞬の光芒を残して、たちまち表舞台から姿を消してしまった。
そうだ、ブログ記事に付け加えるべきことがひとつだけある。昔はそんな風には思わなかったのだが、CS&Nのデビュー盤や、ジョニー・ミッチェルなどのセッションでのスティーヴ・スティルズのベース・プレイは、はっぴいえんど時代の細野晴臣のプレイ・スタイルを思い起こさせるのだ。
細野晴臣のベースに大きな影響を与えたのは、モビー・グレイプのボブ・モズリーやビーチボーイズの諸作におけるキャロル・ケイのプレイ、そしてモータウンのさまざまな曲での誰だかわからないプレイヤー(ジェイムズ・ジェマーソン説はわたしは採らない。誰か別のプレイヤーである)だと考えてきたが、ここにスティーヴ・スティルズを加えてもいいと考える。
◎南カリフォルニアの熱風
上掲、『カエルや魚が降ってくる!』に書かれた、世界各地の危険な風の中には、シロッコ以外にも歌になったものがある。ビーチボーイズのSanta Ana Windsである。ソングライター・クレジットは、ブライアン・ウィルソンとアル・ジャーディーンの二人。曲=ブライアン、詞=アル、という分業だろう。
ブライアンのメロディーについては、とくにいうべきことはない。腐っても鯛、あまり精神状態のよくない「引き籠り」時期にも、ブライアンは悪くない曲をたくさん書いている。このSanta Ana Windsもそのひとつ、ホームラン狙いのフルスウィングではなく、外角球に軽く合わせてセカンドの頭をハーフ・ライナーで超えたライト前安打、てなあたり。
しかし、アル・ジャーディーンの歌詞は……うーん、これはなんだろう?
「ここ南カリフォルニアには、サンタ・アナの風と呼ばれる気象現象がある」という台詞ではじまるので、ビーチボーイズらしい「サザーン・キャリフォーナイエイ」の夏の風物詩か、と誰もが思うだろう。じっさい、ファースト・ヴァースはおおむねその想定に収まる。
Fire wind, oh desert wind
She was born in a desert breeze
And wind her way through canyon ways
from the desert to the silvery sea
And every direction, see the perfection
And see the San Gabriel Moutains scene
その「火の風」は沙漠で生まれて、峡谷を抜けて海への道をたどる、という客観的事実を述べているだけだ。ひとつのヴァースの中に、desertが三回も出てくるのは技術的にはよろしくなく、アマチュアじみている。
「グレイト・ベイスン」と呼ばれる、オレゴン、ネヴァダ、ユタ、アイダホ、ワイオミング、カリフォルニアという六つの州にまたがる巨大盆地の高気圧によって生まれた風が、モハーヴェ沙漠を抜け、サン・ゲイブリエル山地を乗り越え、サンタ・アナ川づたいに南カリフォルニアへと吹きつけるのだから、海がどうこう云う前に、サン・ゲイブリエルにふれてほしいが、まあ、それは小理屈にすぎない。
ファースト・コーラス
Santa Ana winds keep blowing across my mind
Santa Ana winds keep blowing across my mind
気象をめぐる具象的なヴァースから、「サンタ・アナの風、わが心を吹き抜けることをやまず」なんて、いきなり心象の描写になるのがちょっと違和感あり。この点が引っかかってあれこれ考えたのだが、それは後述することにして、セカンドへ。
Fill my sails, oh desert wind, and hold the waves high for me
Then I will come and test my skills, where the Santa Ana winds blow free
The waves of elation, my heart of creation, becoming one with the boundless sea
うーん、「沙漠の風よ、わが帆にはらめ、波を高く受け止めよ、サンタ・アナの風が吹き荒れるところで、わが船を操る術を験さん、軒昂なる意気とわが創造の心は、果てしなき海とひとつになりぬ」てなあたりかなあ。いったい何の歌なんだか……。
しかし、これはまだ序の口、サード&ラスト・ヴァースはいよいよ変。
I am the wind, oh desert wind, on my pilgrimage to the sea
I will prevail, I will not fail, to bring life into humanity
My song is creation, into the nation, whispering the wisdom in its purity
「われは風なり、大海への途次にあり、われは卓越す、われ人の世に命を吹き込まん、わが歌は世の人びとに純なる叡智を告げるものなり」なんていう風に読めるが。
教祖様かよ、と開いた口が塞がらない、あらぬ彼方への展開だ。何か元ネタを下敷きにしているのかもしれないが、当方、蒙昧にして想像つかず。ダンテとかそれこそバニヤンの「天路歴程」(Pilgrim's Progress)とか、何かそういう古典文学か……。
"into the nation"のように、よく聞き取れず、確信が持てない箇所もあり、歌詞サイトも参照してみたが、そもそも、それは大間違いだろう、という大欠陥("my mind"を"my eyes"なんてやっている)を抱えたダメ聞き取りばかりで、あまり参考にならず、わたしが自信を持てない into the nationについても、歌詞サイトは「?」を置いていたりして、何も解決しなかった。
ここに至って、ブートで持っている、この曲のファースト・ヴァージョンを思いだし、そちらの歌詞を聴けばいいんじゃないか、と膝を打った……のだが、期待に反し、当てごととなんとかは向こうから外れる、だった。
◎廃棄されたファースト・ヴァージョン
もっと簡単にすむはずだったのだが、うっかり真面目に歌詞を聴いてしまったために、事態は紛糾し、ブートまで引っ張り出す羽目になった。もう、これはfor fans onlyと見極め、ここから先は、ハードコアなビーチボーイズ・ファンのために書く。ふつうの人が読むふつうの話ではない、とお断りしておく。
さて、Landlocked and MoreやJournalsなど、数種のブートに収録されている、Santa Ana Windsの1970年代はじめに録音されたファースト・ヴァージョンである。
改めて歌詞を聴いてみたら、リリース・ヴァージョンとはぜんぜん違うものだった。お持ちの方は、このオリジナルをプレイヤーにドラッグしてから以下をお読みあれ。
ファースト・ヴァース。
On my porch, thinking about the torch I've been carrying for you so long
And my love, thinking bout our love, like the Santa Ana winds blow strong
Been so long since you've been gone, been caring for you so long
「わが家のポーチに坐り、長いあいだ燃やしつづけてきたきみへの想いを振り返る
激しく吹き荒れるサンタ・アナの風のような恋のことを
きみが去って長い時が流れたけれど、想いはずっと変わらなかった」
歌っていうのは、こういう風に明解であってほしい。リリース・ヴァージョンのように曖昧なところは一切ない、何年も前に別れた恋人への断ち切れない想いを唄った、どこからどう見ても誤解しようのないラヴ・ソングだったのだ。
ファースト・コーラス
Santa Ana winds keep blowing across my mind
Santa Ana winds keep blowing across my mind
「サンタ・アナの風はいまもわが心に吹きつづけている」
ラヴ・ソングとわかれば、このコーラスもどっしりと据わりがよくなる。サンタ・アナの風のような昔日の激しい恋は、彼の中ではまだ終わらず、いまも心の中で吹き荒れているのだ。
セカンド・ヴァース。ここは上手く聞き取れないところもあり、したがって意味をとれない箇所もあるので、眉に唾して、アル・ジャーディーンの唄を聴きながらお読みあれ。
Running round, here they come, remember how we stayed out all night
And in the night, by the pale moon light, we crawled our jeans out and ran with the tide
Then we'd be tired, and fire beach fire into the world of different kind
最初の二つのフレーズは解釈できず、「一晩中、外にいたあの夜のことを覚えているかい、蒼い月の光を浴びて、ジーンズを脱ぎ捨て、波と追いかけっこをし、草臥れて焚火をたいたね(略)」
beach fireも聞き取りが怪しく、焚火ぐらいじゃ別世界に突入できんだろう、と自分でツッコミを入れている。でも、大筋は明快。二人で過ごした想い出の夜についてのヴァースであることだけは間違いない。
セカンド・コーラス
Santa Ana winds blow gentry across our minds
Santa Ana winds blow gentry across our minds
「サンタ・アナの風はいまもぼくたちの心にそっと吹きつづけている」
ここもリリース・ヴァージョンと同一。おかげで、リリース・ヴァージョンでは不思議に見えた、突然の「our」出現の謎が解けた。元はラヴ・ソングだったから、「二人の心」という意味で、our mindsが使われ、リリース・ヴァージョンはそれを考えなしに引き継いだために、意味不明になったのだ。
サード&ラスト・ヴァース。ここはダメダメ行ばかり、てんで聞き取れず、テキトーな言葉を填め込んでみただけなのでよろしく。
And the time will surprise, I didn't think it never would last
Cause in your eyes, I summarize that your life will change so fast
Maybe we'll make up and repair this break-up
And we'll be together again
どの行も自信なし、確実なのは最後の「また一緒になれるかもね」だけだが、要するにこのヴァースで云わんとしているのはそれなので、終わり良ければすべて良し!
◎アマチュア・ソングライター
「本当に「目覚めよと呼ぶ声」はしたのか?――プロコール・ハルム、J・S・バッハ、ビーチボーイズ、ブラームス、ヴェンチャーズ」という記事でふれたアル・ジャーディーンのLady Lyndaは、その時の彼の妻だったリンダのことを唄った曲だが、その後、彼女とは別れたので、近年のライヴでは歌詞もタイトルも変えて唄っているのだという。
いったんお蔵入りさせたSanta Ana Windsを、1980年のKeepin' the Summer Aliveのためによみがえらせた時、ヴァースについては歌詞を全面的に書き換え、ラヴ・ソングではなく、誇大妄想狂の教祖様のご託宣のようなものにしてしまったのは、オリジナル・ヴァージョンで唄われた女性との関係が変化し、あんな女のことなんか唄えるかよ! となったからなのかもしれない。
心情は理解できるが、そんなことを云ったら、世の中のラヴ・ソングの大部分は書き換えられてしまうじゃないか。
Santa Ana Windsにちょっと似ているビートルズの、いや、ポール・マカートニーのI Willなんてどうなるのよ。あれは、誰かモデルがいるとしたら、ジェイン・エイシャーだろうに。リンダ・イーストマンと結婚したから、あの歌はなかったことにする、なんてポールは云っていないぜ。
Santa Ana Windsのファースト・ヴァージョンの歌詞は、書き方は素人っぽいものの、素直に心にある想いを唄っている、という点で、リリース・ヴァージョンよりはるかにいい。
年を取って、昔はあまり気にしていなかったアル・ジャーディーンのことが、けっこう好きになってきたのだが、やはり、ソングライターとしては、腹が据わっていなかったのだなと思う。
まあ、「heart of creation」よりも、人として、男としての心情を優先させたのだ、そういう人柄なのだ、プロフェショナルたらん、とは思わず、人間であろうとしたのだ、といいほうに解釈しておこう。