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歩く小津安二郎とテレポートする薬缶 In Search of Ozuをめぐって

Internet Archiveが復活してから、ダウンした時にやっていた、カリプソとハワイアン・ミュージックの探索を再開し、それも一段落したので、ちょっと映画関係も「掘削」してみた。

IAの検索機能というのは厄介だし、DDos攻撃によるダウンからの回復もまだ十全とはいえず、ついこのあいだも、一時的なダウンがあった。ダウンロード速度も不安定だし、たいていは低速で、根気を要する。

しかし、なにかの調べもの、たとえば、ある曲のオリジンを知りたい、という時、それが第二次大戦前のブロードウェイ・ミュージカルの挿入曲であるといった場合、いい状態(音質ばかりでなく、広告に悩まされないことも含む!)で聴けるのは、IAを措いてほかにない。

シェラック・リップの多さには圧倒される。CDと違って、アナログ盤はリッピングによって音が変わるので、同じ曲でも、さまざまなファイルが用意されている。

文字通り、「史料保管庫=アーカイヴ」なのだ。未来のための大事業であり、利益のみが目的で、文化財保護の意識などまったくもたないメディア企業の対極にある。企業の訴訟攻撃などでつぶしてはいけない、ウェブ上でもっとも重要な機構だ。


◎小津を探していたら

IAにはもちろん、各国の古い映画があるのだが、目下の興味の中心は1950~60年代の日本映画にある。

いまの気分は、しばらく見ていない、小津安二郎晩年のカラー映画なので、うちにあるのとはエディションが異なっている可能性もあるだろうと、もう一度、リストをとって眺めた。

見慣れたタイトルの中に、In Search of Ozuという、知らないものがまじっているのに気づき、ページを開いてみたら、ドキュメンタリー映画のようだった。


クライテリオンのものだというので、米盤のセットか何かに付属したものだと推測できる(ということは、IAにある小津映画は米版である可能性があり、とすると、うちにはほとんどないことになる)。

◎色つきの小津

鎌倉文学館の小津コレクションのあれこれを見ていて、ふうん、いろいろなものが保存されているんだねえ、と感心していたら、古いフィルムが流れ、アッと、思わず再生を止め、戻した。

座敷のセットで歩く岩下志麻を見ながら、小津安二郎がうなずき、何か云っていたのだ。これは吃驚。


岩下志麻に歩き方を指示する小津安二郎。奥、膳に向って坐っているのは三上真一郎、手前、立っているのは笠智衆。『秋刀魚の味』のセット。


かつて、ずいぶんと研究書を読んだし、ドキュメンタリーもいくつか見たのだが、最近はご無沙汰で、こんなショットが発掘されていたなど、夢にも思わなかった。

たんに小津安二郎が動いているだけなのに、なんで「ウワッ」となったのか、われながら不思議だが、何度も見返すほど魅惑的なショットだ。

岡田茉莉子を導くように座敷を歩くショットもある。これも、岩下志麻とのショットと同じく、最後の映画『秋刀魚の味』撮影中のものだろう。


小津が岡田茉莉子を先導するように歩く。やはり『秋刀魚の味』のセットだろう。


小津映画の人物はおおむね静止しているものだ。それだけに、人物が室内を歩くショットは目立つ。大袈裟な云い方になってしまうが、小津映画においては、人物が画面の中を歩いて移動するのは、「事件」といっては云い過ぎにしても、「イヴェント」なのだと、いつも感じていた。

井上和男監督による伝記映画でのことだったか、田中絹代が、わたしは小津映画の落第生なんです、と云っていた。『彼岸花』の、夫から電話を受けたあとで、廊下を歩いて戻るシーンでオーケイが出ず、えんえんとやり直すことになったのだという。


田中絹代が歩く。ここはむずかしいシーンで、果てしないやり直しは、大女優には気の毒なことだったと思う。懸案が解決したことを電話で知って、おおいに嬉しいのだが、その喜びを足の運びに反映しつつも、あまり派手にやってはまずくて、その微妙なあわいを表現しなければいけなかったのだろう。いやはや。二葉とも『彼岸花』より。


そういうエピソードを覚えていたので、やっぱり、じっさいに自分で歩いて、道筋やスピードや足運びを指導していたとわかり、やっぱり小津はこうでなくちゃなと思った。

というように理屈づけてはみたものの、しかし、ショットに愕いた瞬間の心持というのは、やはり純粋に、「小津が動いているじゃん、すげえ!」というだけのことだったのかもしれない。


歩く杉村春子。荷物を持って原節子の結婚式へと向かいかけたところで、戻ってきて、忘れ物はないかと、座敷をぐるっと廻ってみるショット。『彼岸花』の田中絹代とは対照的に、ワン・テイクで小津のオーケイが出たらしい。『晩春』より。


◎ヒズ・カラーリング・ブック

終盤で、もう一度、愕いた。これは鎌倉文学館ではなく、川喜多記念映画文化財団が所蔵しているらしいが、『秋刀魚の味』の監督用台本と、小津安二郎自筆のストーリーボード(絵コンテ)が登場したのだ。

もちろん、絵心のある監督だし、あれだけ隅々まで神経を行き渡らせて映画を撮った人なのだから、ストーリーボードもきっちりしたものをつくっていただろうとは思っていたが、それが、たとえば模造紙などの大型のものではなく、小ぶりのスケッチブックの形で、つねに手元に置いて参照できるものだとは思っていなかったし、それが完全な形で保存されていたことに、吃驚仰天した。


上は絵コンテ、下は台本。


中味がわかって来るにつれて、愕きは深まった。これがあれば、わたしが監督をやっても、小津が意図した映画を撮れるのじゃないかと思うほど、詳細かつ綿密な撮影プランなのだ。

面白いのは、人物ごとにカラーコードがつけられ、それが脚本と絵コンテの両方に描かれていることだ。


監督の書き込みがある脚本。鉛筆による縦の分割線は、ショットの切れ目。小津映画はカット割りが細かいが、脚本でも、台詞一本ごとに割っているのが一目瞭然。


小津自筆ストーリーボード。左端、矩形の中はシーン番号、絵の右の丸の中はショット番号。


台本とそのショット。杉村春子(伴子)と東野英治郎(佐久間)の親子。『秋刀魚の味』より。


映画は物語の順番通りに撮られるわけではなく、あるセッティングのショットは、〝中抜き〟で一気に撮影されるから、想像するに、その便宜として、同じキャメラ位置、同じ照明で撮るショットがひと目でわかるように、という配慮なのではないか?

ショットとショットのあいだに、演出上の指示やダメ出しなどで長いインターヴァルがあっても、絵コンテを見れば、たちまち、つぎにやるべきことがわかるように、長い経験から、こういうカラーコーディングの手法を作り上げたのだと想像する。


ショットごとの区切りの縦罫が見える。


◎「目線レンズ」とイマジナリー・ラインの破壊

同じ絵コンテに、構図以外のことも書かれていた。あちこちに「目線レンズ」という但し書きがあるのだ。

わざわざ俳優の目を真正面から捉える、というのは、どういう意味があるのだろう。やはり、感情表現の一種か? 重要な台詞のあとのダメ押し、なんていうことも考えられる。


監督自筆絵コンテ。左に「路子 目線レンズ」とある。


たとえば『晩春』には長い観能シーンがあったし、『麦秋』ではたしか、ラジオから劇場中継が流れたし、『東京物語』だったか、歌舞伎座で観劇するという場面があった。さらには、戦前、六代目菊五郎による『鏡獅子』の記録映画の監督もやっている。

「目線レンズ」は、何かそういうもの、歌舞伎の「見得を切る」所作とか、能のさまざまな感情表現の「型」に似たものの可能性がある。


『晩春』観能シーンの原節子と笠智衆。能では、面を伏せるのは泣いていることを表わすという。



あるいは、「イマジナリー・ライン」の問題なのかもしれない。小津ははっきりと「映画には文法はないね」と云いきったが、小津以外の映画の世界には、文法のようなものが存在する。その代表が「イマジナリー・ラインを守る」である。

たとえば、二人の人間が対座して会話をしているシーンで、キャメラ位置を交互に替えて、切り返しで、それぞれの人物の顔をほぼ正面から捉える、という小津も頻繁に使った撮り方がある。

こういう風に切り替えるとき、二人の人物が見合っている目と目を繋ぐ仮想の線をイマジナリー・ラインと呼ぶ。



この線が守られていないと、切り返した時に、二人の人間が向かい合っているようには感じられなくなってしまうので、俳優の視線をきちんとこの仮想の線に合わせなければいけない、という撮影上のルール、「映画の文法」である。

しかし、昔から、小津はしばしば、このイマジナリー・ラインを守らずにショットを撮っている、と指摘されてきた。「映画に文法はないね」発言はその指摘に対する反論ではないかと考えている。

「目線レンズ」では、俳優は向かい合った人物を見ているのではなく、キャメラを見ていることになり、イマジナリー・ラインから外れてしまう。ふつう、外れるというのは、「外」に行くことだろうが、この場合は、「内」に食い込んでしまうので、「中に入りすぎてしまう」というべきか?



なんのために、そういうことをしたのか、そんなことは当方のような素人には想像もつかない。より深く、観客に人物の心情を感じさせるため、だろうか?



「目線レンズ」のショットは、対座の場合ばかりではないようで、人物の視線は移動しつつ、ふいに、レンズに向けて止まることもある。視線が動いているのでは、イマジナリー・ラインは存在しなくなる。



◎テレポートする赤い薬缶

小津の小道具の使い方は戦前から面白いが、カラー映画になってからは、色という要素が加わり、小津映画の話法はいわば三次元化、立体化したようなもので、いよいよ面白くなる。


小津安二郎自身が絵付けした湯呑
小さくて見にくいが、その小津湯呑が山本富士子の前に置かれている。


とくに目立ち、よく知られているのは赤の使い方で、気になりだすと、ヒチコック映画で監督自身がどこに登場するかにばかり観客の注意が向かうように、人物ではなく、湯呑だの、壁の絵だの、酒瓶だのと、小道具ばかり見ていたりするほどだ。


小津安二郎死して薬缶を残す。鎌倉文学館所蔵。


なによりも目立つのは赤い薬缶だが、これもちゃんと鎌倉文学館に保管されていた。やあやあ、お前さん、ちゃんと生き残っていたか、それは重畳、重畳、と思わず笑ってしまった。

小津は、この赤い薬缶でも、ルール違反をやっている。ひとつのシーンの中で、この薬缶が、必要に応じてどこにでも馳せ参じて、画面のピリオドのように鎮座しているのだ。


山本富士子が佐分利信邸の玄関にあらわれ、廊下を歩んで、座敷に落ち着くまで赤い薬缶は数回、瞬間移動する。右手、茶箪笥の上の赤いものはラジオ。『彼岸花』より。


こういう題字もみな小津安二郎の筆になるという。たしかに、赤の使い方は小津風味。


飲屋街のデザイン画
その原画をもとに組んだセットを使ったショット。きわめて忠実な立体化をしている。


目線レンズ、イマジナリー・ライン違反、小道具の瞬間移動、やっぱり「映画に文法はない」、俺が法律だ、だったのだろう。

◎己自身にしたがう

小津映画ファンなら誰でも知っている有名な箴言がある。

「どうでもよいことは流行にしたがい、重大なことは道徳にしたがい、芸術のことは自分にしたがう」

結局、これなのだろう。イマジナリー・ラインだなんて、どこかの誰かが決めた怪しげなルールにしたがうつもりは毛頭なく、映画を撮るうちにみずからのうちに積み上がっていったルールにしたがって描いたのが、あのカラフルで、そして厳格きわまりないストーリーボードだった。

小津に遭遇した昔のように、小津映画を別の目でもう一度見直したい、と思わせてくれる、In Search of Ozuはヒントに満ちたドキュメントだった。

戦後の小津は台本と絵コンテに忠実に撮ったらしいが、最後の映画『秋刀魚の味』の最後のシーンは現場で変更され、笠智衆の三つのショット(青インクの手書き部分)が追加された。

@tenko11.bsky.social

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