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日記

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最近の記事

Glad I heard

このごろ日常に興味がある。 日常と言ってもいろいろあるだろう。その言葉の意味には幅があり奥行きがある。 日常について日常的に考えているわけではないけれど、ときおり頭にそのことが浮かんで、あれこれ考えている。 どういう日常かというと、まず映画の中の登場人物の日常だと言えそうだ。 このごろ映画を観る。たくさんではないけれど。 『アデル、ブルーは熱い色』『葛城事件』『その夜の侍』『永い言い訳』…。このあたり。 映画の中では、やはり登場人物の日常というか生活の一部が映されるわけで

    • 深夜・版画・自己肯定

      今日も夜が更けた。部屋を出て街へ行けば、信号と街灯が夜道を照らし、ひっそりとした空間が広がっているはずだ。 夜が更けたのは版画を彫っていたからだ。版画を彫っていたのは本を読む作業に集中できなかったからだ。本を読む作業に集中できなかったのはスピッツを聴いていたからだ。スピッツを聴いていたのはご飯を食べてぼんやりしていたからだ。ご飯を食べたのはどうしても勉強がはかどらず部屋に戻ってきたからだ。今日も何も進まない。 周りと比べてみる。僕自身はどうだろうか、と。周囲の人は、何らか

      • そぼろ雪

        雪が降ると決まって思い出す景色は、とくにない。 さいきん過ごしているあたりではめずらしく、今年はよく雪が降る。 寒いけれど、やはりうれしくなって散歩のついでに近くのスーパーまで歩いた。 天気は曇り。日は見えないが重い感じはしない。道端にはいたるところに雪の塊がある。きっと誰かが雪遊びをしたのかもしれない、いや単に雪かきをしただけかも、などと想像する。人が歩いたり、車が通ったりしたせいですこしだけ灰色がかっている。他方で、家々の屋根は均等に白く染まっている。まだ誰も足を

        • お寿司の記憶

          このごろ、お寿司を握った。 友人とスーパーマーケットを歩いていたとき、刺身が目に入った。 横から見たクジラのシルエットをイラストにしたような形の切り身だった。 あるいはペニー・ファージングのようなバランスとも言える。 そんな形なので、おそらく扱いづらいためにいつまでも売れ残ったのだろう、いくぶんか安くなっていた。 なんとなく気分が高揚して、寿司でも食べようということになった。 相変わらず居座る冬の寒さを感じる夜道をしばらく歩き、友人の部屋に向かう。適当に雑談を交わしては行

        Glad I heard

          汲み取れているだろうか

          (周りくどいある場面にて…) 目の前に誰かいるとき、少なくともその人のことを理解しようとするために、その人についてとらえようと努力する場合が、なくはないだろう。 目の前の誰かというのは、まず文字通り眼前の誰かということもあるだろうし、あるいはそこには居合わせていない誰かであったり、想像上のだれかであったりするかもしれない。 (誰かという「人」でなくても、「物」でもいいかもしれない。でも、とりあえず誰かで考えてみよう…) そうした誰かはだいたい、概念や属性、特徴でくくられる

          汲み取れているだろうか

          そしてまた自分はまわりくどく、夜は更けていく

          その人がいない場面で、その人との関わりによっていかに自分が嫌な気持ちになったりいかに不快と感じたりしたのかを、誰か他の人に話すことは、少なくないかもしれない。 誤解をおそれずに言えば、目の前にいない人の悪口を言うことである。 こういうことをしたとき、何らかの罪悪感にさいなまれることになる。 何をやっているんだろうか自分は、と。 そしてまた落ち込む。 もちろん、時と場合によってはその限りではないことは、その通りだろう。 すべての局面でそうである、と一般化することはできない。

          そしてまた自分はまわりくどく、夜は更けていく

          白い線

          雪が降った。 とても寒い夜だった。風が吹き、木々は揺れていた。 空を舞う白い埃のようなかたまりが、傘を持つ右手の甲に冷たい。 夜の街、好きな音楽たずさえてわけもなくスキップする。 蛍光色の街頭や色あせた街路樹を背景に、ひとり嬉々として暗闇に身を投げ出す。 高層マンションの光、薄汚れたアスファルト、泥に汚れた車のバンパー。 妙に白けていて、どれもまるで今の気分に合わない。 それでも、雪だった。 *** 朝起きて太陽は、雲一つない青空に輝いていた。 突き刺す陽光が、白

          白い線

          説明する

          しばしば考える。 自分は何をしているんだろう?本を読むことで、そして言葉を知ることで。 何かを得ているのか、それともただただ時間を浪費し結果としてお腹を空かしているだけなのか、あるいは別の何か…。 一般的に、本を読むことと知識や言葉を増やすこととの間には、なんらかのつながりがあるように思う。 しかし…。と、僕は考える。 自分は何の知識も増やせていないし、新たな言葉を得ているような気もしない。 なぜだろう。 本を読むその仕方が問題なのかもしれないし、 経験の仕方に問題が

          説明する

          よそよそしい態度

          最近のマイブームは自己分析だと気付いた。自分は自分で自分の首を絞めるのが得意だと思う。 正確にいうと、気付いたら「またしてもなんか絞まっている」という状態になっていることが少なくない。 それは特に人間関係においてそうだという気がする。 自分は誰かと関係を結ぶのが下手だ。 いや、結べはするのかもしれないが、「維持の仕方」の項目の点数が特にひどい。誰かとの関係をきちんと保っていられない。 結び方を誤ったままランニングシューズを履いて、立ち止まって結び直せばいいのにそのままに走り

          よそよそしい態度

          自分についての物語

           たまに読み返す本に、高井有一の『谷間の道』がある。特にその中の一節の「遠い明り」のことを、僕は折に触れては思い出す。  なぜか?それは多分、自分のことについてそこに少しだけ書かれている気がするから。  でもそれって良いことなんだろうか?と思ったりもする。けれども、自分自身についての物語のひとつは、いまのところこれである。 とにかく、内容を簡潔に紹介してみよう。 ************  「遠い明り」の舞台は、おそらく戦後の日本のどこかの街の高校である。いわゆる「

          自分についての物語

          匂いの引き出し

          「きんもくせいの匂いはお祭りの季節!」 道に漂うきんもくせいの匂いから、ふと、 そういえばそういう事について高校の時代クラスメイトが楽し気に言葉にしていたことを、僕は思い出した。 秋が近づく9月の終り頃だったと思う。夏の気配は過ぎ去り、蝉の鳴く声もいつの間にか聞こえなくなっていた。教室では窓から入るそよ風が心地よく、陽射しに照らされたワイシャツは夏に比べるとどこか落ち着いた白色をにじませていた。 通っていた高校では「情報」の授業を受けることになっていて、僕はパソコンの基

          匂いの引き出し

          コーヒー

          夜にコーヒーを飲んだ。冷蔵庫からペットボトル入りのコーヒーを取りだし、900mlのうち100mlくらいを紺色のコップに注いで、あとは水で薄めた。 椅子に腰を掛ける。苦味につられて、僕はコーヒーを注ぐ彼のことを思い出す。豆をフィルターに入れて、お湯を注ぐその後ろ姿。白いカップに注がれたコーヒー。やや薄めで、カップが手にほの熱い。 コーヒー、雨、とりとめもない話題、そして秋。季節のゼンマイを君は回し続ける。それが生きることだと言うかのように。 いつか会わなくなっても、ゼンマ

          コーヒー

          満ち欠け

          満ち欠け

          シリーズ 飛行/遊泳/水面

          誰かのことを考えながら彫る版画はとても楽しかった。ありがとうございます。作品の技量に関して言えば、もっと上手くなりたいなあと感じる。

          シリーズ 飛行/遊泳/水面

          つきまとう余剰の感覚

          大きなスプーンですくいきれない瓶の底のジャム 歯に挟まった屋台の焼きとうもろこし 汗と気持ちだけが先走るランニング 集中力が途切れてツルツルと目が滑る本の上 常につきまとう不足の感覚 自分では広げられない誰かの世界が今日も咲いている 机の上の一輪の花を眺めて 水やりの足音に耳をすます

          つきまとう余剰の感覚