お山歩きと新鮮なる宮沢賢治さんの詩の世界
お山に行くとき、いつも目にする言葉があります。
マコトノ クサノ タネマケリ
宮沢賢治さんが4年勤められた農学校(今の岩手県立花巻農業高等学校)の校歌である『精神歌』の一節で、高校の入口に掲げられている言葉です。
現代語的に変換してみると、
足元の土から始まる壮大な可能性を詠う、美しい歌だなと感じます。
根源的なものを大事にする賢治さんを感じさせる詩はもう一つ、
この詩は続きがあって、傲慢な植物家と毅然とした森林管理士とのスリリングな問答が続きます。
早池峰山が舞台と思われる詩はたくさんあって、頭に入れて登ると、もうそこは賢治ワールドです。
岳から河原の坊までの山道、現在は舗装化された観光道路になっていますが、賢治さんの時代は山道でした。
その山道を、日が開けぬうちに登り始めた賢治さんの詩、
七里河原と我々は呼んでいますが、賢治さんは萱野十里と表現しています。岳の宿坊から早池峰神社を抜けて、東の鳥居から山道に入ったのでしょう。
切れ切れ流れる雲をパラフィンに例えて、星の瞬きを『互いに囁やき交わすがように』と表現したり。
太陽が稜線から顔を出した瞬間の表現として『突然銀の挨拶を投げかける』というのも、とてもよく分かる描写です。
この詩と同じ日付で、もう一つの詩があります。
麓では星が瞬いてウキウキするような天気だったようですが、お山は風が冷たくて寒かったようです☺。これは竜ケ馬場のあたりかな。
そうそう、平地での出来事も思っちゃうんだよな、登ってると。山に行けば何か解決するかと思えば、ただ心身がスッキリして戻るだけなのですが。
今年の八月で、この詩が歌われてから百年になります。百年経っても伝わる物語。賢治さんが求めた永遠こそ、今なのかも知れません。
永遠と言えば、いつの時代も課題かもしれないことで、心からそうあって欲しいと思った言葉として、
近代化、工業化された時代の農民の苦しみを芸術ノ重要性を説いた書の中の一節。
そして、病床に伏せて推敲に推敲を重ねたとされる『銀河鉄道の夜』。賢治さん没後に未完の状態で見つかり、ご遺族や研究者等によって編纂されました。
この物語が問う『ほんとうのさいわい』とは。読むほどに答えをたくさん出してくれるのが、賢治さんの文学。
時代が変わっても共感できることがたくさんあるのは、根源的なものは変わらないということなんでしょうか。
時代で変わったのは物質的な事だけなのかも。
ダライ・ラマ14世の言葉を借りれば、
この本もたくさんの教えがあって好きなのですが、特に思いやりの定義について、
とあります。これは納得。
さらにこの本を見返していて、賢治さんの考え方と結びついたフレーズがありました。
こうして見ると、チベットやダライ・ラマに縁のある多田等観さんと宮沢賢治さんの繋がりも気になるところですが、年表をみる限り接点はありませんでした。
ただ、賢治さんに宗教的な影響を及ぼした島地大等さん(仏教学者、盛岡市願教寺住職。仏教のルーツを探るべく組織された『大谷探検隊』の初期メンバーでインドへ)は、多田等観さん(同じく大谷探検隊としてチベットへ入国)と繋がりがあったので、間接的に接点はあったものと思っています。
多田等観さんがスタンフォード大で教鞭を執り帰国したあと、昭和31年に賢治さんの父、政次郎さんを訪れていることからも、そのように感じました。
教員、地質(土壌、鉱物、植物)学者、作家、詩人、音楽家、宗教家、農学者など、多彩な側面を持つ賢治さんは、詩の中にその博学を散りばめて、心に感じた『心象』を掛け合わせることで、独特でも分かりやすい世界観を作り出しています。
さらに、そのルーツには賢治さんに影響を与えた多くの方との交流も、欠かせないことも分かりました。
最初は良く分からない詩の世界も、自分で歩いて感じることでスッと理解が深まります。
家ではパラパラと詩を眺め、ムム?と思った描写があったら、現実(お山)で照らし合わせる。
次はどんな発見があるのかな。
何年も前になんの目的もなく、書店で気になり手に取った本が、今になって結びついてくることを不思議に感じます。古いのですが、新鮮なんです。