2022-09-11「お山の神様」?
2022年9月11日(土)、
早池峰山麓のある神社さんを目指して、子供と二人でサイクリングに出かけたときのことです。
神社さんは、宮沢賢治さんの『注文の多い料理店』『どんぐりと山猫』の舞台にもなった言われる集落にあります。
かつては街道がありましたが、ダムが出来て大きな道路が開通してからは、往来の少ない静かな集落になっています。
熊が出そうなので、手を叩いたり大声を出したりしながら、子供と賑々しく進みます。びっくりさせたらゴメンネ。
小さな集落の小さな神社には参道が2あります。鳥居が2つの集落側と、鳥居が3つの街道側。
集落側の参道は踏み跡があり、人の往来があるように見えます。一方街道側は踏み跡がなく、参道一面に苔が厚く茂っています。苔は木漏れ日で輝き、足を踏み入れるのがはばかられる状況でした。
私はこの日が初めての参拝で、集落側からアクセス出来ることが分からなかったので、木々に囲まれて薄暗い街道側からアプローチしました。
苔をふみふみ。
柔らかい苔の感触に後ろ髪引かれながら、朽ちてしまって、キノコが自生している傾いた鳥居を、身をかがめてくぐります。
体を伸ばして仰ぎ見れば、緩やかに右にカーブする石段が現れました。
今にでも崩れそうな石段を慎重に登ります。うなじの汗が、境内の空気で冷やされます。
中腹に掛かったとき、上からの視線を感じました。
(お母さんだ、地元の。)
反射的にそう思いました。
『お母さん』は神社の中からこちらを見ています。声を張って挨拶します。
歓迎されていないような、聞こえるか聞こえないかの声。クマに警戒しながらやってきた中で正直、人がいることに驚いてたので、すこし気が落ち着かない。
階段を上がりきってお社と対峙します。
お母さんはこちらの存在など分からないかのように、黙々と掃除を続けている。あっちこっち動いて、どこか一貫性のない動きに感じる。
私の望みは、ご迷惑を掛けない程度に交流を持ちたい、この一点。興味本位だったり、写真の「映え」目的で、悪い印象を与えたくない。
いくつか会話のキャッチボールが出来たが、清掃の手が止まることはありませんでした。
「お賽銭入れさせてもらっても良いですか」
「…どうぞ」
お社に上がって、奥にあるお賽銭箱にチャリン。
最後に、
「ありがとうございました」
と言って神社を後にしました。
不思議でした。
「夜は電気ついてるから蛾が寄ってきてねぇ」
と鈴緒の奥に掛けられた、墨で漢字が書かれた細長いベールのような布を、アコーディオンを奏でるようにバサバサやると、蛾や羽虫がハラハラと落ちていきます。
どなたの目線で言ってるのかな?と思った。
そう思ったことが自分でも不思議だった。
そんなの、お母さん目線でしょ。
帰りはずっと下り道。
2台の自転車は秋晴れの森を駆けていく。
不思議な気持ちも風に乗って薄れていく。
爽快だ。
帰宅して。
子供と神社での出来事を振り返ってみました。
「そういえばさぁ…」
子供も、なにか不思議な感じを得ていたらしい。
早池峰山でお知り合いになった山伏さんに、この日の出来事を報告してみた。
「その方は女性でしたか?」
「はい、そうでした」
「それは山の神様です」
「え?」
「明日9/12は山の神様の日ですから。山仕事をする人はこの日は山に入りません。また12/12は山神様の年越祭で、この日も山に入りません」
「山の神様だったんですね」
お母さんの言葉を振り返ります。
「夜は電気ついてるから」
という表現には、『自分の本意でないこと』『自分でやった事では無いこと』と捉えられます。
「蛾が寄ってきてねぇ」
という表現にも、『当事者目線』を感じます。管理者目線だと「蛾が集まってきてねぇ」と表現されますよね。
つまりは、
私はあまり望まないんだけど、管理してくれる村の人達が、電気を付けてくれているからね。ありがたいし仕方がないことなんだけど、虫が寄ってくるんだよねぇ。
と我々にお伝えしたかったのかなぁ。
神様として崇拝される大変さや気苦労も、
有るのでしょうか?
そんな暖かい秋晴れの、チョットひんやりした不思議体験でした。